毎日が夏休み 掲示板過去ログ:#3652

昼寝するぶた

ここでは、昼寝するぶた掲示板の過去ログを並べています。

No.3652 Re:こんばんわ。 投稿者:Samsung 投稿日:2006/04/26 15:36      
> キリスト教は歴史の中で、さまざまな時代に政治的に利用されてきた宗教だと思います。芸術や音楽にも影響を与えてきましたよね。で、そうなると、本当にキリストが語っていた教えとはどんどんかけ離れたものになっていって、組織が一人歩きしたり、人間の勝手な解釈によって、微妙なところで違う教えに摩り替えられたりしてしまっていると思うのです。現代でも、テロに対する報復を決断した時に、大統領は神がどうのこうの・・・とのたまわっていた気がします。

キリスト教も政治権力も、互いに利用し利用される関係で今日に至っているように思います。
エホバの証人は自分達をクリスチャンだというが、一緒にされたくない正統派教会のクリスチャンたちは、エホはクリスチャンではなく「エホバチャン」であるとかいいますが、
私から見れば、キリスト教はイエス・キリストの教えはむしろ付録のような存在に過ぎない、生前のイエスを全く知らない、イエスが顕現したといいながら全く生前のイエスの生の言葉が聖書の中の彼の発言にも出てこない、「パウロ教」というのが実態であると思います。

現代科学はグノーシス主義やエビオナイトなどを含めたさまざまな思想的立場の初期クリスチャンがいたことを明らかにしていますが、結局のところ現代に至るまでの正統とされるキリスト教一派のみが政治権力と結託して生き残り、その他は抹殺、皆殺しという結果となった。
千年以上の時を経て、死海文書やナグ・ハマディ文書、ついこの間発見されたユダの福音書の写本が発見されたりするという事実は、
それだけ彼らが自分達が滅ぼしつくされる運命を察知し、権力の側に滅多なことでは発見されないような場所に自分達の思想を後代に残すための文書を隠した、ということを物語るものです。

当時のイスラエルの状況からすれば、ローマ帝国の属国であり、当然現代の日本やアメリカのような信教の自由なんてありえなかった。つまりローマ帝国にとって都合の悪い、利用価値のない教えは容赦なく切り捨てられ、信徒は殺され、存続の余地がなかった。
ローマ市民であり、数ヶ国語に堪能な高等教育を受けた知識人だったパウロは、ローマ帝国に受け入れられるような思想だけを提示し、福音書、新約聖書の編纂もきわめて政治的な観点から行った。
パウロのような人がいなかったら、キリスト教がこれほど世界に広まることはなかったでしょう。ただし、エホや他の多くのキリスト教が説くように、最初からパウロ教がイエスにつながる唯一のキリスト教であった、なんてのは全くの誤りで、パウロの思想自体がキリストの教えとはかけ離れたものであるし、また政治的なかけひきによってパウロの教えが存続しただけであって、初期クリスチャンには滅ぼされたさまざまな全く異なる観点からキリストを語り、信じていた人たちがいた。


キリスト教は確かに近代科学の発展、芸術、音楽の発展と切り離せない存在であったが、
私に言わせれば、むしろ科学や芸術の発展に寄与したのは、キリスト教文明が受け継いだギリシア・ローマ文明であったと思います。


>それで、わたしの中では、ここ2000年の間に繰り返されてきた、キリスト教徒が犯している間違いを悲しんでいるのは、神ご自身だと思っています。ユダヤ人も紀元前には選民と呼ばれ、神から特別扱いされていましたが、キリストの教えでは、外側だけ整える中身の伴わないどうしようもない民と投げ捨てられてしまいました。もしかすると、今のクリスチャンだって、信念と行動が伴わないと、おまえなんて知らない・・・と投げ捨てられてしまうかもね。教会に行っているからってそれだけで、あたしは安心、神さまに擁護されているなんていうこと全然ないと思う。神はその動機をよく知っていると思う。そういうわけで、政治とからんだキリスト教の腐敗とか、虚偽をルターやその他の宗教改革者がこれでは駄目だ!!って叫んだのだと思います。とにかく形骸化しすぎているから。
>
> じゃあ、何で私がそんな悪の温床みたいなキリスト教を信じているかと言うと、今度は理屈じゃあなく、信じているから信じているとしか言いようがないの。これじゃあ誰も納得しないだろうけど。言葉を変えたら、私には必要なものでしょうか。私は潔くなんてないし、心の中は醜いもので、どろどろしています。罪悪感もあるし。自分が嫌いだったり。でも、キリストがこんな私でもいいよって、語りかけていていてくださるから、生きていかれるだけです。お前のしてきた数々の罪はみんな赦すからって言ってくださるし。そのかわり、これからは罪を犯さないように!!て言われている。自分の罪を自分で償いきれないことを、私は処理しきれなかった。だから、クリスチャンは弱い人のものなんだよ、自分の心の尻拭いもできないで、、っていう声が聞こえてきそう。その通りです。私たちは皆自分たちが弱いことを認めたものの集まりです。人間ってもろいものだと思います。そして、自分でさえ自分の心をコントロールできなかったり、ましてや境遇や顔かたちや容姿など、自分の思い通りになんかいかないことだらけ。性格とかも。でも、自分を創ったのは神さまで、なにもかも私のことを知っていてくださると思うと、自分を好きになれるし、相手も認めて、受け入れられる。その人も神さまが創った人
> だから。
>
> 知識に基ずいて信じているのでなく、身近に日常生活の一こま一こまに神の働きを感じてしまうんです。これには拒否反応や反感絶対にあると思っています。でも、正直に自分の信仰を伝えました。人それぞれですから。

こうした典型的な、エホを含めたキリスト教的な原罪思想は、私はイエスの教えとは全くかけ離れたものであったと思います。イエス自身は形骸化した当時のユダヤ教の宗教改革者であり、アダムの原罪を帳消しにするための贖い主としてこの世にきたとか、そうした贖罪思想も全くイエスの教えとは相容れないものであったと思います。

当時人間扱いされてなかった女性に対して異例なまでの平等な取り扱いをし、あくまで人間中心の教えを説いていた。
性欲に対して非常に否定的なのがエホも今日のキリスト教にも共通していますが、「情欲を持って女を見るな」との教えも、ここで言う「女」というのは「人妻」を指していっていた。
つまりイエスはいわゆる「不倫」行為は禁じたが、性欲に対してはむしろ寛容であったように思います。
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