■良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤
レイモンド・フランズ (著), 樋口 久 (翻訳)
原著Crisis of Conscience第3版(1999年発行)の完訳。
ちなみにこの日本語訳で11カ国語目の翻訳。英語の原著に加え、イタリア語 オランダ語 スウェーデン語 スペイン語 チェコ語 デンマーク語 ドイツ語 ポーランド語 ポルトガル語 ロシア語訳がこれまでに出ています。
せせらぎ出版 。ISBN 4-88416-102-5 C0014 価格¥3,800
注:一般の書店で販売される書籍です。
著者のレイモンド・フランズ氏は、ものみの塔協会4代目会長フレデリック・フランズの甥で、1922年5月にケンタッキー州デイトンでドイツ系移民者の家に生まれた3世です。1970年10月からものみの塔の最高幹部である統治体員となり、1981年12月31日に、「組織を脱退した人間とレストランで会食をした」という罪状で排斥されました。
"★★★★★"でおすすめです。
ものみの塔の予言・教理の移り変わり
レイモンド・フランズ著「良心の危機」
ものみの塔の予言・教理の移り変わり
*** 目ざめよ! 1973年2月22号 9‐10ページ マラウィの残忍な迫害をのがれるクリスチャン ***
マラウィの残忍な迫害をのがれるクリスチャン
最近,何千人ものクリスチャンの男女子供が東アフリカの国,マラウィから国外へのがれました。
隣国モザンビクにはおよそ11,600人もの人びとが殺到しました。ロンドン・デーリー・テレグラフ紙に寄せられたザンビアからの報道は,去る10月中旬までに8,925人がザンビアに避難し,その後もさらに毎日難民が到着したと伝えました。中には,わずかに持てるだけの持ち物を携えて,560キロもの道のりを歩いてきた人たちもいます。ザンビア・タイムズ紙は,ザンビアは「難民危機」に見舞われていると報じました。さらに他の人びとはローデシアにのがれました。
これほど大勢のクリスチャンがマラウィから集団出国したのはなぜですか。
何千人もの目撃者から寄せられた確認された報告は,マラウィで起きた,近代の歴史におよそ類例のない恐るべき残忍な迫害の実情を物語っています。あわただしく建てられた難民収容所で今生活している人たちの中には,ひどい殴打や拷問を受けた跡を身に帯びている人が多数います。
難民問題を扱う国際連合の高等弁務官は,ユゴー・イドヤガ博士を代表としてザンビア‐マラウィ国境に派遣しました。同代表は,「難民の多くは,東アフリカで一般に用いられている大型のナイフであるパンガでつけられたと思われる切傷や深傷を負っていた」と報告しました。―1972年10月22日付,ニューヨーク・タイムズ紙。
それらの難民はすべてエホバの証人でした。彼らはそれまで母国マラウィで生活していたアフリカ人のエホバの証人23,000人の大半を成す人たちです。
それら難民の多くにとってその苦しみは事新しいものではありません。1967年に起きた以前の迫害の大波は彼らに非常な苦難をもたらしました。彼らの家や倉庫や崇拝のための場所が破壊されたり略奪されたりした例は何千件にものぼり,幾人かの証人たちが殺され,何百人もの女性が強姦され,中には輪姦された人たちもいました。また,彼らのクリスチャンとしての活動や聖書文書の使用,また崇拝のための集会などはすべて公に禁止されました。
さて,5年余の後の今,以前にもましていっそう大規模な迫害の波が荒れ狂っているのです。一致団結したクリスチャンのグループとしてのマラウィのエホバの証人を滅ぼそうとする努力が全国的な規模で行なわれており,証人たちはすべての職場を追われ,生計の手段や住みかさえ奪われています。殺された人でこれまでにわかっている数は10人ですが,合計は60人にも達するものと推定されています
20世紀の今日,それは信じがたいことかもしれませんが,真実なのです。マラウィで起きている,あまりにも忌まわしい暴虐行為に関する目撃証人の報告を読んでください。そして,こうした侵害が果たして許されるものかどうかを考えてください。人道に反する悲惨な,それゆえに早急に救済措置を要する反道徳的行為がマラウィで犯されているということに読者も同意なさるに違いありません。
*** ものみの塔 1973年8月1日号 456‐457ページ マラウィ市民は重大な決定を迫られる ***
エホバの証人は,住んでいる国の法律に従う,平和を愛する人びととして知られています。それにもかかわらずマラウィでは,打ちたたかれ,拷問にかけられ,ある人たちは殺されました。多数は命が危険になったので,所有物を全部残して国外に逃げました。その数は2万を超え,そのうちの1万9,000人は,マラウィの西側にあるザンビアにのがれ,そこで望まれない訪問者として収容所に入れられました。苦しい生活のために350人が死亡しました。その多くは子どもたちでした。
しかしそれでも迫害者たちは満足しませんでした。ザンビアのもっと健康的な収容所へ移すと偽って難民をバスとトラックに乗せ,再びマラウィへ連れもどしました。マラウィでは軍隊が待ちかまえていて,難民を彼らの村に追い返しました。21人の会衆の主宰監督はマラウィへ送り返されたあとすぐに投獄され,のちほどさらに3人がルンピ地区で投獄されました。
ある証人たちは手にくぎを打ち込まれ,他の証人たちは縫い針を突き刺されました。4人の証人のグループは,マラウィ会議党の12の支所に連れて行かれましたが,60余`の道を強制的に歩かされ,4日間食べる物を何も与えられませんでした。
それで証人の多くは再び逃亡を余儀なくされ,大多数は南側のモザンビクに逃げました。モザンビクでは現在3万4,000人以上が12の難民収容所で生活しています。
長老教会の長老であり,宗教的な人であるH・カムズ・バンダ博士を大統領とする国で,なぜこのような憎しみが示され,クリスチャンが虐待されるのでしょうか。
迫害の口実になっているのは,エホバの証人は政党カードを買おうとしないということです。
*** 目ざめよ! 1973年 2月22号 12-13ページ 人道に反する恐ろしい行為 ***
だれも容赦されなかった暴徒のしわざは残忍をきわめ,エホバの証人で年齢や性別のゆえに容赦された人はいませんでした。リロングウェからは全員がのがれえたわけではありません。たとえば,証人のひとり,マゴラ夫人は身重だったので,速く走ろうにも走れませんでした。彼女はマラウィ会議党の党員に捕えられ,市場の近くで多数の町民の目の前で激しく殴打されて死亡しました。だれひとりとして彼女を助けようとはしなかったのです。どうして介入しなかったのかと問われた一警官は,『警察の権力は奪われてしまったからだ』と答えました。
● ブランタイア南部のタトンダ地区ではスミス・ブバラニとその年老いた母そのほかエホバの証人の男女が青年同盟の会員たちに殴打され,失神したまま地面に放置されました。青年同盟の会員のひとりは証人たちのポケットをさぐって,ある証人のお金を見つけ出し,それから,そのお金で証人たち各人のために党員カードを買ってきて,それぞれの証人の名前を書き込み,地面に横たわっている失神した証人たちのそばに投げつけました。そして,青年同盟側は,証人たちは今や屈服し,信仰の点で妥協したと言いました。ところが,スミス・ブバラニの母が意識を取り戻して党員カードを見るなり,たとえ死んでも党員カードは受け取らないと断わりました。すると人びとはまた彼女を殴打し,再び失神させました。
● ムチンジのクエレ村の73歳になるイズラエル・フィリはこう述べました。「1972年の7月中,私たちはマラウィ会議党が党員カード検査運動を全国的に開始する予定だという噂を聞きました。そうなれば,エホバの証人は苦境に立たされるということがわかったので,私たちは村を離れて森林地区に身を穏すことに決めました。私たちエホバの証人は全部で30人でした。私たちは森林地区に2か月間とどまっていましたが,10月5日,突如私たちは大勢の若者たちの一団に取り巻かれてしまいました。それら若者たちはみな,私にとっては見知らぬ人でした。
「私が歩いて逃げようとすると,数人の若者が私をつかまえて,私を棒で打ったり,私のからだを所きらわず蹴ったりしはじめました。他の兄弟たちがどうなったか見届けることは私にはできませんでした。ついに暴徒は私を失神させて地面に置きざりにしました。意識を取り戻したのち,他の兄弟たちを捜そうとしてみましたが,兄弟たちを見いだせないまま,私はマラウィを去ってザンビアに行くことにしました。私はからだ中がはれて,両眼は出血であふれていましたが,それでもエホバの助けを得て,何`かの道のりを歩き,ようやくのことでザンビアのサマンダ病院にたどりつくことができました」。
● ブランタイア南東のカブンジエ村ではエホバの証人の男女全員が激しく打たれたあげく,裸で道を歩かされました。彼らの子どもたちのひとりは,殴打されて死にました。マラウィ北部のヌクホタコタでは,妊娠中の証人の一女性が衣服を脱がされたうえ,激しく打たれました。会議党の地方の一指導者は子どもたちに命じて彼女の腹部を蹴らせました。それは流産を起こさせようと考えてのことでした。
胸の悪くなるような性的暴行
エホバの証人の女性に対する性的暴行の例はあまりにもおびただしいうえに,その詳細をここに述べるにはあまりにもいまわしいものがあります。その典型的な例を次に掲げましょう。
● カスングのモトンソ村の17歳になるラハブ・ノアは述べました。「1972年9月26日,私たちは,若者たちが村々を回ってエホバの証人を襲い,証人たちの家や資産を破壊しているという知らせを受けました。兄弟たちは,まず森林地区にのがれて身を穏し,それから夜ザンビアに逃げるべきだと提案しました。5人の姉妹と3人の兄弟たちでなる私たち一行は無事に村を出たのですが,狭い道の途中で20人ほどの一群の人びとに出会いました。彼らは党員カードを見せるよう要求しはじめました。私たちはひとりとして党員カードを見せることができなかったので,彼らは棒やこぶしをかざして私たちを打ちはじめました。
次に,私たち全部を裸にして,さらに打ち叩きました。それから,10人ほどの一群の若者が私をわきへ押しのけ,私は他の人たちから離れた所に連れてゆかれ,数人の者たちに手足を押えられたうえ,他の者たちによって強姦されました。
私は8人の者がひとりずつかわるがわる私を犯すのを見ました。それら一群の人たちの中には私たちの知っている人はひとりもいませんでした。彼らは私をさんざん打ったあげく,私たちを放置して去ってゆきました。あとでわかったのですが,私たちのグループの他の4人の姉妹たちもやはり強姦されました」。
● リロングウェのニヤンクフ村のフナシ・カチパンディは彼女の経験をこう述べています。「1972年10月1日,エホバの証人が襲われているという報告を聞いたので,私はザンビアに逃げることにし,直ちに,19歳になる娘デイルズ・カチパンディを連れて家を出ましたが,ほどなくして見知らぬ若者たちの一団につかまりました。彼らは党員カードを見せるよう要求しましたが,私たちは見せることができませんでした。彼らは私たちを連れ戻して,チレカ市場の近くの自分たちの事務所に連行しました。
そして,私の目の前で5人の若者がかわるがわる私の娘を輪姦しました。ついで,そのうちのひとりが私をつかまえて,地面に倒したのです。私は妊娠9か月の身重で非常に弱っていましたので,私を犯すようなことをしないでほしいと訴えましたが,その男は一片の人情も示してはくれず,私の娘の目の前で私を強姦しました。
それから,彼らは私たちを置いて去って行きました。私はこれらのことを警察に報告しました。警察側は私たちの述べたことを記録に取っただけで,何もしてはくれませんでした。翌朝,私は子どもを生み,それから同じ日のうちにザンビアに向かい,途中何度も休んで,ようやくザンビアに着きました」。
他の多くの事件の場合,犠牲者は暴徒の名前を知っていました。その中には,マラウィ会議党の要職者もいました。
● カムフィンガ村ではグゥズィ村のマティリナ・チツロはマラウィ会議党の支部の議長カチゴンゴによって強姦されました。1972年10月2日,ムコムベ村ではベレニカ・ホスィテニが,同党地方支部の議長と書記の手で同党の事務室に一晩中監禁され,そのふたりによって強姦されました。その同じ事務室で,ネゼリヤという名の別の証人は7人の男によって輪姦されました。ザンビアにのがれたそのふたりの女性は,こうむった身体的な虐待のため入院して手当てを受けました。
繰り返して述べますが,これらの事件は例外的なものではありません。記録された何百件もの事件のほんの一部にすぎないのです。
東アフリカの マラウイのエホバの証人達は、ものみの塔協会の指示により、当時の一党支配政党(マラウィ政府ということ)の党員カード(身分証明書ということ)を買うことを拒否したため、1964年、1967年、1972年、1975年と次々に迫害された。
一回目では家を焼かれたり壊された家族が千八十一、作物を壊滅状態にされた農地が五百八十八という被害が発生した。
二回目の1967年には千人を超える女性が強姦された。ある母親が六人の男に暴行を受け、その十三歳の娘が三人に陵辱されたケースもあったと報告されている。 これらの女性のうち少なくとも四十人が流産したという。
殴る蹴るの暴力、拷問、さらには殺人さえもが当局の介入もほとんどないままに行なわれ、ついには何千もの家族が家や土地を離れて近隣諸国に逃げ出すに至った。
「良心の危機」158ページより
ものみの塔の予言・教理の移り変わり
アフリカのマラウィのエホバの証人達がものみの塔協会の指示を忠実に守り、政治に対して厳正中立の立場を貫き、党員カードの受け取りを拒否した為に、マラウィのエホバの証人達は暴行を受け、千人以上の女性信者達が強姦され、大勢の子供達が殺されているまさにその同じ時期に、メキシコのエホバの証人達はものみの塔協会会長の公式な指示により、メキシコ軍の将校を買収して1年間の軍事教練を逃れて軍務終了証明書を手に入れ、エホバの証人として予備軍に編入されることは、全て個人の問題であり何も問題は無いとした。
ものみの塔の予言・教理の移り変わり
レイモンド・フランズ著「良心の危機」
レイモンド・フランズ著「良心の危機」
レイモンド・フランズ著「良心の危機」
ものみの塔の予言・教理の移り変わり
「しかも、それは彼らの良心であって、私たちの良心ではありません。このことは彼らが自分たちの取るべき行動の方針を取ることを許すものです。」
上記「良心の危機」172〜173ページに書かれている、ものみの塔会長が秘書の1人を通じて書いた証拠であるA/AG(赤線部分)の記号が入った、1969年9月5日付、Mexico Branch(メキシコ支部)宛の手紙
私が現役だった時に、マラウイのエホバの証人達への迫害は集会で大きく取り上げられていましたが、メキシコのエホバの証人達が賄賂を払って軍務を逃れ、予備役の兵士となっているなんて話は聞いたことがありませんでした。
1965年頃、駐日マラウイ大使宛に、マラウイのエホバの証人に対する迫害をやめてくれるようにお願いする嘆願書が各会衆にまわってきて、日本中のエホバの証人が署名しました。その時に、未成年による署名は無効票になるからということで、当時小学生だった私は嘆願書に署名できませんでした。
著者 (翻訳者)樋口久氏のコメント
レイモンド・フランズ氏は、「エホバの証人」組織内部に数十年を過ごし、その最高幹部の一員として活躍し、そして辞めた人物です。そしてこの本を書きました。こういう本は、めったにありません。
エホバの証人組織というのは、世界にざっと500万人、日本でざっと20万人の成員を有する、ちょっとした大組織です。(もちろん、ものすごいお金も動いています。実際のところ、なかなかの優良企業なのです。)自ら知りつくしたその組織について、内部の文献や実際の出来事に基づいて、淡々と語ります。
エホバの証人の教理はどのようにして作られるのか。聖書を信じるとはどういうことなのか。組織(の上層部)はなぜ腐敗するのか。そもそも信仰とは何なのか。― いろいろなことを問いかける本です。エホバの証人の皆さんや家族にエホバの証人がおられる人はもちろん、クリスチャンにとっても、一般の人々にとっても、参考になる内容です。
本書の構成は、次の通り:序論(第1章);エホバの証人組織内部での生活を回想する部分(第2-6章);特に年代予言に関する教理の成立を詳述する部分(第7-10章);組織をやめた前後経緯の回想(第11-12章);その後の心境(第13章)。聖書やキリスト教になじみの薄い方は、やたらに聖書の引用などが出てくるので閉口なさるかもしれませんが、話の本質は十分に味わって頂けることと思います。
わが国では、宗教の話題は一種のタブーです。触りたくない式の心理がまだまだ広く見られます。そんな風潮の中でこそ、「宗教はコワイ」式の安っぽい通念を越え、実感に基づく当たり前の感覚を取り戻すのが重要でしょう。本書は、人間の怖さ、団体の恐ろしさを描きつつ、またそれに気づくことのできる人間精神の健康さ、魂のしなやかさを表現した、稀有な記録です。
■良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤■翻訳者の樋口 久氏の「エホバの証人についての雑文:その1〜3」は
ユーモアが効いてて大好きです。
その1:エホバの証人のためのガイド:より効果的な伝道活動のために
その2:対話に向けて
その3:対話に向けて その2:エホバの証人であることの魅力
■こういうキャンペーンがあります、賛同したら協力を
『良心の危機』図書館設置キャンペーン参加のお願い
ゆーじ
2002/04/27