有り難うございます。勇気づけられました。では早速、この前の続きを・・・
<信仰告白>とは何か?
私は最初、一人一人自分はどのような信仰を持っているのかを皆に発表するのだろうか?などと思っていたのですが、これは、次の事柄を、皆で斉唱するのです。(これは、プロテスタントの教会は殆ど、同じだと思います。)
<我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子我らの主イエスキリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン>
このことは、本当に、聖書的な事柄であり、<十字架>と言う言葉以外は納得のいくものでした。あとは、今、JWでは、キリストの再臨をどのように位置づけているかわからないのですが、キリストの再臨はこれから先、将来に起きることとして待っています。JWの、こねくり回した教えでは、2度の再臨があるような、(1914年以来天で統治していて、ハルマゲドンの時に白い馬に乗ってサタンを滅ぼしに来る?でしたっけ?もう、忘れてしまいました。なんか、でも、複雑でしたよね?)なにしろ、キリストの再臨はこれから先にあります。
後、私は、<十字架>と言うものにもこだわっていました。
JWでは、キリストは一本の杭にかけられて死んだ、決して<十字架>ではない!と言う主張でしたよね?今はどうなんでしょう?結構、ころころ変わるので、今は、また違うことを教えているかもしれません。
この、一般的に信じられている十字架と言うものに反対して<一本の杭>と主張するJWの目的は一体何なんでしょう?では、次回は、
<十字架>でなくてはおかしい理由をご説明いたしましょう。
<信仰告白>とは何か?
私は最初、一人一人自分はどのような信仰を持っているのかを皆に発表するのだろうか?などと思っていたのですが、これは、次の事柄を、皆で斉唱するのです。(これは、プロテスタントの教会は殆ど、同じだと思います。)
<我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子我らの主イエスキリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死にたる者とを裁きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の許し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン>
このことは、本当に、聖書的な事柄であり、<十字架>と言う言葉以外は納得のいくものでした。あとは、今、JWでは、キリストの再臨をどのように位置づけているかわからないのですが、キリストの再臨はこれから先、将来に起きることとして待っています。JWの、こねくり回した教えでは、2度の再臨があるような、(1914年以来天で統治していて、ハルマゲドンの時に白い馬に乗ってサタンを滅ぼしに来る?でしたっけ?もう、忘れてしまいました。なんか、でも、複雑でしたよね?)なにしろ、キリストの再臨はこれから先にあります。
後、私は、<十字架>と言うものにもこだわっていました。
JWでは、キリストは一本の杭にかけられて死んだ、決して<十字架>ではない!と言う主張でしたよね?今はどうなんでしょう?結構、ころころ変わるので、今は、また違うことを教えているかもしれません。
この、一般的に信じられている十字架と言うものに反対して<一本の杭>と主張するJWの目的は一体何なんでしょう?では、次回は、
<十字架>でなくてはおかしい理由をご説明いたしましょう。