昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#3548

昼寝するぶた

ここでは、昼寝するぶた掲示板の過去ログを並べています。

No.3548 愛について返信です 投稿者:ふみえ 投稿日:2003/07/11 00:16     
長くて人間が見えないというご批判でしたので、ペンネームを「聖なる・・」から母の名に変えました。
ゆーじ様、冷静な反応を感謝いたします。ものみの塔協会の代表者を擁護しようなどとは決して思いませんが、真摯な「イエスの追随者」でありたいと願い、エホバの証人の中でクリスチャンを磨こうとしている一存在として、返答させていただけますか。もちろん愛というのは口頭で論じるものではなくて、まず実践するものです。顔を真っ赤にして面子をかけて言い合うのでは愛や理性がおそまつと思われるかもしれません。

>愛とは自然発生的に自分の心の奥底から出てくるものであって、

少なくとも贖いによる救いを成し遂げるにあたっては、エホバは意志を働かせられました。つまりヨハネ3章16節のくだりで、世を深く愛し・・とあります。「世」というのはエホバの証人は「自らに対する神の支配権を認めない人類全般」と理解しています。ご自分を認めないどころか侮辱すら表す人々にも、まず神の教えよりも人間の教えを高めるようになったユダヤ人、そしてユダヤ人との約束が縁切れた西暦37年以降は非ユダヤ人すべてをキリストの側にあつめるために「辛抱」してこられました。ローマ9章以降、ペテロU3章など。自ら創造された人類への感情的な愛は動機となったでしょうけれども、その愛を全うして救いを果たすためには、愛をつらぬく辛抱があったのです。そこにはエホバの強い意志があります。ご自分の目的、預言という形での約束を必ず果たすという忠節な愛を貫かれたのです。これが感情を越えた愛、所期の目的が達成されるまで決してあきらめない、目的に執着するという、「忠節な愛」です。クリスチャンもエホバへの献身の誓いを全うするにはその種の忠節な愛を強い意志を持って貫くべきです。自分の都合や感情が冷めてきたという理由で献身の誓いを曲げずに守り抜くのは、そういう愛、つまり、
*** 洞‐1 11ページ 愛 ***
名詞アガペーとその動詞形アガパオーについて,「バインの旧新約聖書用語解説辞典」はこう述べています。「愛はそれが促す行動によってのみ知られる。神の愛はそのみ子という贈り物のうちに見られる。ヨハネ第一 4章9,10節。しかし明らかに,それは自己充足的な愛や愛情ではない。つまり,それはその対象物に何か優れた点があるために引き出されるものではない。ローマ 5章8節。それは意図的な選択による神の意志の行使であり,神ご自身の性質に宿るものを別にすれば,挙げ得る原因のないものである。申命記 7章7,8節と比較」―1981年,第3巻,21ページ。
・・という種類の愛です。
そういう愛をいつも自然発生させることができるならそれはたいへんすばらしい事です。マザー・テレサやシュバイツアー博士のような献身はよく知られているもので有名な例ですが、名も知れない大勢の人々も今現在、イラクやアフガニスタン、他日本のマスコミが報道しない多くの場所で同様の献身的な働きを行なっておられます。等しく尊い行いだと思います。

>だけどさ、アガペー愛ってJWの教える「条件付きの愛」の典型だよ。
「自分たちは選ばれた人間」だって優越感から下々の人間を導く愛って嫌いだなぁ・・・ 愛とは自然発生的に自分の心の奥底から出てくるものであって、↓こんなふうに能書きつけて、誰かのために自分の立場を証明するものではないよ。
*** 塔75 12/1 719ページ 互いに対して熱烈な愛をいだきなさい ***
ですから,クリスチャンの兄弟や姉妹に対して自己犠牲的な愛であるアガペー愛を示すというこの問題は,非常に重要な事柄です。なぜなら,そうすることによってわたしたちは,エホバ神ご自身に対する愛を示すことになるからです。
3 わたしたちが愛さねばならない,わたしたちの目に見える兄弟とはだれのことですか。わたしたちは,それを,同じ人種,同じ色あるいは同じ国籍のだれかに限ることはできません。むしろ,わたしたちの兄弟とは,土地のクリスチャン会衆内,または世界中にある他のすべてのエホバのクリスチャン証人の会衆内にいるわたしたちの仲間,つまりエホバのしもべです。彼は信仰におけるわたしたちの兄弟です。(ガラテア 3:26‐28)ですからわたしたちは,クリスチャンの兄弟たちに対して熱烈な愛をいだく,そしてそれによって自分が真のクリスチャンであることを証明する務めを,エホバの愛によって課されているのです。

これを書いた執筆委員の奉仕者がどういう意図を持っていたのかは分かりません。敬愛するレイモンド・フランズ兄弟にあのような仕打ちを行なう恥知らずな背教者たちの賛美者であったなら、あなた様の仰るような動機を持っていたのかも知れません。しかし、聖書には信者同士の間に働く愛によって「真のイエスの追随者」は見分けられるともあるのです。少なくとも私や友人たちは、その記事の文章を見て受ける意味は、外部への優越感のいわれとしての資格、という意味ではなく、互いへの愛を育み、強い意志を持って実践し続けるよう自分を動機づける教訓として受け止めます。優越したいという世俗的な人格特性、自分を目立たせたいという古い人格特性と闘い、抑え込んで、イエスが教えられた新しい掟であるイエスが示されたとおりの愛を見習い続けるには、自然に発生する古い人格を征服し続ける強い意志が求められるのです。そのようにして愛を表し続けるという教えに習う種類の愛が「原則に導かれた愛」、アガペー愛なのです。原則というのはイエスが教えられた種類の愛という掟です。その掟に断固として見習い続けるという精神態度を「導かれている」という言い方で表現しているのです。
ゆーじ様は、断固とした決意を持ってイエスの教えられた愛を実践するなら、たしかに身近な人間関係から真の平和を作り上げてゆけると思われませんか。私はそう信じております。
発言者別リストに戻る
過去ログ一覧に戻る
トップに戻る