昼寝するぶた 掲示板過去ログ:#3633

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No.3633 現在の会衆における実践的な愛 投稿者:ふみえ 投稿日:2003/07/19 17:55     
ここはすごいですね。
一週間見ないうちにすっかり季節が変わってます。
みちさん、愛をどのように普段着で表すかについて述べます。
それは敵あるいは本物を正確に見分けることと、本物の方を徹底的に信じることです。
エホバの証人のように、会衆に上下関係の、いえほとんど身分制度と言ってもいいくらいの精神を持ち込んではもはや、一致と平和など果たせません。多くの人は長老や巡回監督に認めてもらおうとして、表向きを繕います。また親は子供さんにもそうするようなかば脅迫的に、表向きの「進歩」を励まします。長老たちに見えるようにするのです。協会に評価されることが子供の成長であると思い込むようになりました。ちょうど世では一流の大学を出て、一流と目されている職業に就くことが、人格の高さを表すと見なされているのと同じです。また社会の和つまり安定のためには一人一人は自分を抑えるのが美徳とされていますが、エホバの証人の会衆でも組織の安定のために個人を抑えること、いえもはや抑えなくてもよいように自己変革をよしとします。まったく同じですね。男性たちは聖書をまったく理解せずに会衆内に入り込み、そして男性の手が足りなかった70年代に、手当たり次第に年功序列の基準で長老に任命されてきたため、イエスが教えられた方法ではなく、世で行なわれてきていた方法がおおっぴらに採用されてきたのです。
ですから世の精神が生み出してきた弊害と全く同じ害が現在のエホバの証人の会衆内にも顕著に表れています。すなわち不信感です。自分の個性を否定され、長老たちに用いられやすい人格を培うように教育されてきました。自分の個性が否定されるというのは、生きる権利を否定されるのと同じです。怒りを感じて当然ですが、協会はエホバの代理ですのでだれも表立っては反論をしません。それで正当な反論そのものも抑え込まれて、人格が卑屈になります。こうなるともう他の人の幸せはもちろん、子供の幸せにも気持ちが回らないようになります。じぶんのうっぷんをなだめるために、仲間も子供もとにかく従うようにと暗黙の脅迫を行なうようになります。子どもさんはかわいそうですね。それでもけなげに親御さんに従おうとされますから。もっともそうしなければ親に喜んでもらえないだけなのでしょうけれども。
脱線しましたね。世の精神を持ち込んだにせクリスチャンの男性たちを私は憎んでいるのです。そしてこの憎しみは正当なものです。イエスもそうされました。ユダヤ教の高僧たちに非難、糾弾こそすれ、決して妥協はされませんでした。しかし痛めつけられ、放り出されていた「羊たち」には辛抱強く接しました。すぐに裁いて追放などされませんでした。イエスが処刑される直前に、使徒たちが序列論争で口論をしたときでさえも。イエスはむしろ彼らの心根を見抜き、必ずエホバを正しく知るようになると信じて、あのイエスを三度否認したペテロに、兄弟たちの世話をするよう任じました。
ですから、現在のような、小麦と雑草が乱立している会衆で愛を実践して行くには本物のクリスチャンを正確に見分け、彼らを信じ続けることです。ひょっとしたらそういう人たちは、自分を正しく認めてもらえなかったので、ひねくれてしまっているかも知れません。そのため近づきにくく感じるかも知れません。でも協会の音頭にのって盲目的に踊らない人なら、聖書の教えに注意深い人なら、むしろ少しづつ知り合うようにしてください。そういう人と正直さと誠実さをもって交際してゆくなら、決して憎しみややけくそな気持ちに支配されずに、むしろ心豊かさを見失わないで暮らしてゆけます。会衆にそういう人がいなければ会社や学校のクラスメートの中から探せばいいと思います。エホバの証人のみんながみんなコントロールされているのではないと私は経験で知りました。残念ながら息子は離れました。私はもうひき止めませんでした。頭を畳につけて謝り、世へ出てもエホバの証人とやってる事は同じだから、聖書は時々読んでねと伝えました。私のよかれと思うことが必ずしも息子にとってよいこととは言い切れません。まして協会の標準がどうして子供にとって標準であるなどと断言できるでしょうか。しかし聖書の教えは全ての人間にとって最善の知恵だとは信じています。聖書は本来現在のエホバの証人のように、強力な全体主義的な精神支配とは逆のことを教えるものだからです。「主の霊のあるところには自由があります」とパウロは書き送りました。何が主に受け入れられるかは協会によって規定されるものではなく、個人的に納得しているべきものなのです。ある人にとっては食べられない肉でも、別の人にとってはとくにどうということはないのです。他人の感覚に配慮を払うようにという教えは、全ての肉は悪霊に捧げられた物であるという画一的な合意を形成することではなく、気になる人の前では配慮すればいいのです。なにも全体を拘束する必要はないのです。集会は宣べ伝える業に関してだけ、世界と歩調をあわせるようにすればよいのであって、個人の感覚、考えまで統制する必要はありません。
脱線ばかりで申し訳ありません。
私はみなさんに、一部のエホバの証人のために、真摯にイエスをみつめるおおぜいのクリスチャンたち、真に残れる人たちを悪く見ないで欲しいのです。真にクリスチャンを追及する人を見出したなら、そういう人こそ心を開いていい人たちです。それはどうか信じてください。イエスの教えこそ人類の必要を満たせる唯一の知恵です。
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