>まさか、「私たちは、神を愛することに忙しいので、隣人を愛することはずっと後回しにします」という論理を使うことはないだろうと思います。
おっしゃるところの、「まさか」が実は正解なのです。
もっと正確に言うと、
「神を愛することに忙しいので」→×
「組織と秩序を守るのに必死なので」→○
…ということです。
エホバの証人は、会衆内で権威を持っている人たちが傍若無人に振舞って、侮辱され、傷つけられても
抗議も意見もしません。エホバが介入してくださるまで、「不平、不満」を言うことなく、羊のようになぶられるにまかせ、
そのようにして「イエスの足跡に従う」のです。
家へ帰ってから、子どもにつらく当たったり、悪口を言ったりというネガティブな行動を取ります。
子どもに対して筋を通そうとしないことは、暴力や怒鳴ることをしなくても「つらく当たる」ことと言えます。
親子の信頼を築くやり方は、子どもが会衆で心ない権威者に不当に侮辱されたり、子どもが悔しい思いを
させられたりしたとき、親は子どもの側に立ち、
「つらいね、くやしいね、わたしはあなたが何にも悪くないって知ってるからね!
今は泣いていいよ。でも会衆のみんながいるところでは、軽はずみなこと言わないようにしようね、
あの人たちには筋道は通らないから」
って、言って筋を通します。
でもうちでは長老に何か言われた、おまえがしっかりしないからだ、というように子どもの方を責めます。
とにかく問題を起こすな、波風立てるな、会衆で浮くような発言、行動は一切するな、ということなのでしょう。
わたしがエホバの証人という「社会」を「全体主義的」だというおおげさに見える表現で形容するのは、
こういう雰囲気で育ったからです。
もちろん、エホバの証人でなくても、こういう雰囲気は会社や学校や、家庭でさえもあるでしょう。
そういう雰囲気では、たいてい個人個人はあんまり健全な精神ではいられないのではないでしょうか?
ですから次のようにおっしゃられるのはたいへん鋭い指摘であり、的確な描写だとわたし個人は思います。
>もし、こんな論理で行動していたら、パリサイ人とさほどかわりないように見えます。(でも、兄を見ているとパリサイ人的に見えるのは何故?)
おっしゃるところの、「まさか」が実は正解なのです。
もっと正確に言うと、
「神を愛することに忙しいので」→×
「組織と秩序を守るのに必死なので」→○
…ということです。
エホバの証人は、会衆内で権威を持っている人たちが傍若無人に振舞って、侮辱され、傷つけられても
抗議も意見もしません。エホバが介入してくださるまで、「不平、不満」を言うことなく、羊のようになぶられるにまかせ、
そのようにして「イエスの足跡に従う」のです。
家へ帰ってから、子どもにつらく当たったり、悪口を言ったりというネガティブな行動を取ります。
子どもに対して筋を通そうとしないことは、暴力や怒鳴ることをしなくても「つらく当たる」ことと言えます。
親子の信頼を築くやり方は、子どもが会衆で心ない権威者に不当に侮辱されたり、子どもが悔しい思いを
させられたりしたとき、親は子どもの側に立ち、
「つらいね、くやしいね、わたしはあなたが何にも悪くないって知ってるからね!
今は泣いていいよ。でも会衆のみんながいるところでは、軽はずみなこと言わないようにしようね、
あの人たちには筋道は通らないから」
って、言って筋を通します。
でもうちでは長老に何か言われた、おまえがしっかりしないからだ、というように子どもの方を責めます。
とにかく問題を起こすな、波風立てるな、会衆で浮くような発言、行動は一切するな、ということなのでしょう。
わたしがエホバの証人という「社会」を「全体主義的」だというおおげさに見える表現で形容するのは、
こういう雰囲気で育ったからです。
もちろん、エホバの証人でなくても、こういう雰囲気は会社や学校や、家庭でさえもあるでしょう。
そういう雰囲気では、たいてい個人個人はあんまり健全な精神ではいられないのではないでしょうか?
ですから次のようにおっしゃられるのはたいへん鋭い指摘であり、的確な描写だとわたし個人は思います。
>もし、こんな論理で行動していたら、パリサイ人とさほどかわりないように見えます。(でも、兄を見ているとパリサイ人的に見えるのは何故?)