わたしの場合、わたしの劣等感は「ほんとうの姿の自分ではほかの人たちと対等に渡り合えない」、という脅迫的な信念だ。
だからわたしの基準で完全でなければならない、でもそんなことは無理なのだ、
だってそれは自分の個性に合わない仕方で行動しようとすることだから。
いつも人前では背伸びをする、でもよく言われることだけど、人間いつまでもかかとを上げてはいられない。
ほんとうの自分をいつわって、会衆がそして親が是認してくれるように話し、振舞う。生き方自体がうそ。うそを生きている。
こんな生き方が人格に与える影響は、責任逃れと優柔不断。
生きることがしんどい、その理由は自分は仕方なくこう生きてるから。こう生きないとみんなに認められないから。
だから心のありようがこうなる、「みんなは(実は=“わたしは”の意味)これだけのことをしている、なのにあの人はのんきだね」
してやってる、という精神態度はいやいややっていることを意味している。
だって自分の意思で進んでやってるんじゃなくて、そうしないと受容されないから。
エホバの証人の会衆内では、積極的にのってこない人たちは肩身をせまくする、陰であるいは演壇からそれとなく。
あれは要するに、みんな正規にしろ、仕事の調整にしろ、休むための証言にしろ、ほんとうはいやいややっている、ということの表れなのだ。
自分の本心では、あらゆる“奉仕”はとてもつらいものだ、なぜなら好き好んで行っているのではないからだ。
だからけっこう自分の本音を大事にしてやっている人がねたましい。だからあれこれ非難する。
ほんとうに好きでやっていて、ほんとうに自分のやってることを楽しんでるんなら、他人がどうあれ自分はそれで満足できるはずだ。
「心は自分の魂の苦しみを知っており、その喜びによそ者はかかわりを持たない」とソロモンの箴言にある。
でもわたしは自分が「心で苦しんでいる」のを自覚はしていなかった。自分をいつわるということはまず自分を欺くことだから。
自分がほんとうは好きこのんでやっているのではなく、そうしなきゃならないから我慢してやっている、
この無意識の思いは、これだけ苦心してるんだから当然見合うだけの報酬は期待するよ、という暗黙の要求を生み出す。
これがエホバの証人の人間関係を閉塞させている、あの階級意識の実体だと確信を持って言える。
エホバの証人のこと思い出してみてくださいな、どんな人が高く評価されていた?
決して人格品性の優れた人ではなかった。違う? わたしの会衆だけかしら?
評価されたのは「自分を棄てた人」、じつは「自分らしさ、個性を抑圧できた人」、そうじゃなかったかしら。
人間なら、自分らしさを拒絶されれば怒りを感じる、その怒りを組織を固める力に変換させるのがマインド・コントロールの技術!
自分たちは統制が取れているので幸福です、と何度も何度も注解して自分に言い聞かせる、「自分の個性を主張するな」!
でも自分たちがどれほど意地悪で、頑固で、考えが偏っていて、偏屈かを見ようとしない。
家へ帰ってから、悪口や不満をたらたらいう、子どもに当たる。
これってぜんぜん幸福じゃないでしょ?
ドン・キホーテ、想像している自分と鏡に映っている自分をくらべてごらん、ほら! 目をそむけないで!
自分がいったいどれくらい不満を言っているか、どれくらい批判を口にしているか、人のうわさばかりしてきたか。
これって幸福じゃないでしょう? みんなで競って背伸びしあってるからだよ。
立派でなくていい、何もかも立派な人なんていないんだって。
下手なとこ、ダメなとこ、おっちょこちょいなとこ、みんなあるんだって。
弱いとこのあるありのままの自分を出してみな、そのほうがみんな親しみを感じるんだよ。
弱いとこ、格好良くない自分を隠さなくっていいって。隠すから自分を偽って生きなきゃならなくなるんだよ。
自分をいつわることを要求する宗教はぜったい解釈を誤ってる、もうやめなよ、わたしたち、ふつうの人間だよ。
流行の歌にあるじゃん、オンリーワンが一番だよ。
隠してるとあばかれた時、気まずい思いするよ。傷つくよ。傷つかずに誰かが自分に折れるのを待ってるんでしょう、
「エホバを待つ」っていうのは長老などの権力者が、自分の面子つぶれないような方法で収まるのを期待していることを言うんだよ。
それって卑怯だよね、正面から解決せずに、相手側に折れさせるっていうのは、自分だけが傷つかずにいいとこ取りしようって魂胆だから。
それが「エホバのご意思」なの? エホバってずいぶん卑小で下卑た神じゃん。
そんな神にぺこぺこすることないよ。エホバじゃないよ、人間の組織なんだよ、中世の暗黒時代に精神だけ逆戻りしてるんだよ、みんなさ。
おとうさん、おかあさん、そしてわたし。もうかかとを下ろしなって。
人間としてどう生きるべきかなんてないって。自分がどう生きるか、自分にはどんな可能性があるのか、それを考えようよ。神なんていないんだから。
だからわたしの基準で完全でなければならない、でもそんなことは無理なのだ、
だってそれは自分の個性に合わない仕方で行動しようとすることだから。
いつも人前では背伸びをする、でもよく言われることだけど、人間いつまでもかかとを上げてはいられない。
ほんとうの自分をいつわって、会衆がそして親が是認してくれるように話し、振舞う。生き方自体がうそ。うそを生きている。
こんな生き方が人格に与える影響は、責任逃れと優柔不断。
生きることがしんどい、その理由は自分は仕方なくこう生きてるから。こう生きないとみんなに認められないから。
だから心のありようがこうなる、「みんなは(実は=“わたしは”の意味)これだけのことをしている、なのにあの人はのんきだね」
してやってる、という精神態度はいやいややっていることを意味している。
だって自分の意思で進んでやってるんじゃなくて、そうしないと受容されないから。
エホバの証人の会衆内では、積極的にのってこない人たちは肩身をせまくする、陰であるいは演壇からそれとなく。
あれは要するに、みんな正規にしろ、仕事の調整にしろ、休むための証言にしろ、ほんとうはいやいややっている、ということの表れなのだ。
自分の本心では、あらゆる“奉仕”はとてもつらいものだ、なぜなら好き好んで行っているのではないからだ。
だからけっこう自分の本音を大事にしてやっている人がねたましい。だからあれこれ非難する。
ほんとうに好きでやっていて、ほんとうに自分のやってることを楽しんでるんなら、他人がどうあれ自分はそれで満足できるはずだ。
「心は自分の魂の苦しみを知っており、その喜びによそ者はかかわりを持たない」とソロモンの箴言にある。
でもわたしは自分が「心で苦しんでいる」のを自覚はしていなかった。自分をいつわるということはまず自分を欺くことだから。
自分がほんとうは好きこのんでやっているのではなく、そうしなきゃならないから我慢してやっている、
この無意識の思いは、これだけ苦心してるんだから当然見合うだけの報酬は期待するよ、という暗黙の要求を生み出す。
これがエホバの証人の人間関係を閉塞させている、あの階級意識の実体だと確信を持って言える。
エホバの証人のこと思い出してみてくださいな、どんな人が高く評価されていた?
決して人格品性の優れた人ではなかった。違う? わたしの会衆だけかしら?
評価されたのは「自分を棄てた人」、じつは「自分らしさ、個性を抑圧できた人」、そうじゃなかったかしら。
人間なら、自分らしさを拒絶されれば怒りを感じる、その怒りを組織を固める力に変換させるのがマインド・コントロールの技術!
自分たちは統制が取れているので幸福です、と何度も何度も注解して自分に言い聞かせる、「自分の個性を主張するな」!
でも自分たちがどれほど意地悪で、頑固で、考えが偏っていて、偏屈かを見ようとしない。
家へ帰ってから、悪口や不満をたらたらいう、子どもに当たる。
これってぜんぜん幸福じゃないでしょ?
ドン・キホーテ、想像している自分と鏡に映っている自分をくらべてごらん、ほら! 目をそむけないで!
自分がいったいどれくらい不満を言っているか、どれくらい批判を口にしているか、人のうわさばかりしてきたか。
これって幸福じゃないでしょう? みんなで競って背伸びしあってるからだよ。
立派でなくていい、何もかも立派な人なんていないんだって。
下手なとこ、ダメなとこ、おっちょこちょいなとこ、みんなあるんだって。
弱いとこのあるありのままの自分を出してみな、そのほうがみんな親しみを感じるんだよ。
弱いとこ、格好良くない自分を隠さなくっていいって。隠すから自分を偽って生きなきゃならなくなるんだよ。
自分をいつわることを要求する宗教はぜったい解釈を誤ってる、もうやめなよ、わたしたち、ふつうの人間だよ。
流行の歌にあるじゃん、オンリーワンが一番だよ。
隠してるとあばかれた時、気まずい思いするよ。傷つくよ。傷つかずに誰かが自分に折れるのを待ってるんでしょう、
「エホバを待つ」っていうのは長老などの権力者が、自分の面子つぶれないような方法で収まるのを期待していることを言うんだよ。
それって卑怯だよね、正面から解決せずに、相手側に折れさせるっていうのは、自分だけが傷つかずにいいとこ取りしようって魂胆だから。
それが「エホバのご意思」なの? エホバってずいぶん卑小で下卑た神じゃん。
そんな神にぺこぺこすることないよ。エホバじゃないよ、人間の組織なんだよ、中世の暗黒時代に精神だけ逆戻りしてるんだよ、みんなさ。
おとうさん、おかあさん、そしてわたし。もうかかとを下ろしなって。
人間としてどう生きるべきかなんてないって。自分がどう生きるか、自分にはどんな可能性があるのか、それを考えようよ。神なんていないんだから。