*** ものみの塔 1973年8月1日号 456‐457ページ マラウィ市民は重大な決定を迫られる ***

エホバの証人は,住んでいる国の法律に従う,平和を愛する人びととして知られています。それにもかかわらずマラウィでは,打ちたたかれ,拷問にかけられ,ある人たちは殺されました。多数は命が危険になったので,所有物を全部残して国外に逃げました。その数は2万を超え,そのうちの1万9,000人は,マラウィの西側にあるザンビアにのがれ,そこで望まれない訪問者として収容所に入れられました。苦しい生活のために350人が死亡しました。その多くは子どもたちでした。

しかしそれでも迫害者たちは満足しませんでした。ザンビアのもっと健康的な収容所へ移すと偽って難民をバスとトラックに乗せ,再びマラウィへ連れもどしました。マラウィでは軍隊が待ちかまえていて,難民を彼らの村に追い返しました。21人の会衆の主宰監督はマラウィへ送り返されたあとすぐに投獄され,のちほどさらに3人がルンピ地区で投獄されました。

ある証人たちは手にくぎを打ち込まれ,他の証人たちは縫い針を突き刺されました。4人の証人のグループは,マラウィ会議党の12の支所に連れて行かれましたが,60余キロの道を強制的に歩かされ,4日間食べる物を何も与えられませんでした。

それで証人の多くは再び逃亡を余儀なくされ,大多数は南側のモザンビクに逃げました。モザンビクでは現在3万4,000人以上が12の難民収容所で生活しています。

長老教会の長老であり,宗教的な人であるH・カムズ・バンダ博士を大統領とする国で,なぜこのような憎しみが示され,クリスチャンが虐待されるのでしょうか。

迫害の口実になっているのは,エホバの証人は政党カードを買おうとしないということです。

*** 目ざめよ! 1973年 2月22号 12-13ページ 人道に反する恐ろしい行為 ***

だれも容赦されなかった

暴徒のしわざは残忍をきわめ,エホバの証人で年齢や性別のゆえに容赦された人はいませんでした。リロングウェからは全員がのがれえたわけではありません。たとえば,証人のひとり,マゴラ夫人は身重だったので,速く走ろうにも走れませんでした。彼女はマラウィ会議党の党員に捕えられ,市場の近くで多数の町民の目の前で激しく殴打されて死亡しました。だれひとりとして彼女を助けようとはしなかったのです。どうして介入しなかったのかと問われた一警官は,『警察の権力は奪われてしまったからだ』と答えました。

● ブランタイア南部のタトンダ地区ではスミス・ブバラニとその年老いた母そのほかエホバの証人の男女が青年同盟の会員たちに殴打され,失神したまま地面に放置されました。青年同盟の会員のひとりは証人たちのポケットをさぐって,ある証人のお金を見つけ出し,それから,そのお金で証人たち各人のために党員カードを買ってきて,それぞれの証人の名前を書き込み,地面に横たわっている失神した証人たちのそばに投げつけました。そして,青年同盟側は,証人たちは今や屈服し,信仰の点で妥協したと言いました。ところが,スミス・ブバラニの母が意識を取り戻して党員カードを見るなり,たとえ死んでも党員カードは受け取らないと断わりました。すると人びとはまた彼女を殴打し,再び失神させました。

● ムチンジのクエレ村の73歳になるイズラエル・フィリはこう述べました。「1972年の7月中,私たちはマラウィ会議党が党員カード検査運動を全国的に開始する予定だという噂を聞きました。そうなれば,エホバの証人は苦境に立たされるということがわかったので,私たちは村を離れて森林地区に身を穏すことに決めました。私たちエホバの証人は全部で30人でした。私たちは森林地区に2か月間とどまっていましたが,10月5日,突如私たちは大勢の若者たちの一団に取り巻かれてしまいました。それら若者たちはみな,私にとっては見知らぬ人でした。

「私が歩いて逃げようとすると,数人の若者が私をつかまえて,私を棒で打ったり,私のからだを所きらわず蹴ったりしはじめました。他の兄弟たちがどうなったか見届けることは私にはできませんでした。ついに暴徒は私を失神させて地面に置きざりにしました。意識を取り戻したのち,他の兄弟たちを捜そうとしてみましたが,兄弟たちを見いだせないまま,私はマラウィを去ってザンビアに行くことにしました。私はからだ中がはれて,両眼は出血であふれていましたが,それでもエホバの助けを得て,何キロかの道のりを歩き,ようやくのことでザンビアのサマンダ病院にたどりつくことができました」。

● ブランタイア南東のカブンジエ村ではエホバの証人の男女全員が激しく打たれたあげく,裸で道を歩かされました。彼らの子どもたちのひとりは,殴打されて死にました。マラウィ北部のヌクホタコタでは,妊娠中の証人の一女性が衣服を脱がされたうえ,激しく打たれました。会議党の地方の一指導者は子どもたちに命じて彼女の腹部を蹴らせました。それは流産を起こさせようと考えてのことでした。

胸の悪くなるような性的暴行

エホバの証人の女性に対する性的暴行の例はあまりにもおびただしいうえに,その詳細をここに述べるにはあまりにもいまわしいものがあります。その典型的な例を次に掲げましょう。

● カスングのモトンソ村の17歳になるラハブ・ノアは述べました。「1972年9月26日,私たちは,若者たちが村々を回ってエホバの証人を襲い,証人たちの家や資産を破壊しているという知らせを受けました。兄弟たちは,まず森林地区にのがれて身を穏し,それから夜ザンビアに逃げるべきだと提案しました。5人の姉妹と3人の兄弟たちでなる私たち一行は無事に村を出たのですが,狭い道の途中で20人ほどの一群の人びとに出会いました。彼らは党員カードを見せるよう要求しはじめました。私たちはひとりとして党員カードを見せることができなかったので,彼らは棒やこぶしをかざして私たちを打ちはじめました。


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