27)絶対にエホバの証人をやめない。
何があろうと絶対にエホバの証人をやめてはいけない。自分がやめると必ず親に迷惑がかかるシステムになっている。自分がやめた後の親の立場をよく考える。自分の人生より会衆内の親の立場が大事。自分の人生のすべては親と組織のためだけにあることを自覚する。

----- 親から独立後 -----

28)インターネットは危険。
インターネットはポルノ映画と同じだという組織の警告を忠実に守り、自分の信仰のためにならないサイトは見ない。

29)就職しない。
布教活動が大事だから正業に就職しない。組織の教えを忠実に守り、アルバイトをしながら全時間の布教活動をする。

30)結婚は罪悪。
人生の伴侶に足るべき素晴らしい異性と出会ったとしても、
「終わりが近いのに結婚するのはふさわしくない」
「独身の賜物を追い求めなさい」
「結婚するのは楽園で」
「結婚は苦労」
「異性に関心を持つと霊性が落ちる」
「結婚は全時間宣教の妨げとなる」
という、いつも集会で習う組織の教えを思い出し、布教活動に専念する。

31)老後の心配をしない。
組織の教えを忠実に守り、一生涯を布教活動に捧げる。

32)そして数十年後・・・・子供が老人になったころ・・・・

組織の判断が間違ったなどと考えてはいけない。全ては自己責任。過去のものみの塔協会の出版物を読めばわかるとおり、協会はあなたに行動を強制した覚えはないしその証拠もないし、組織はそんなドジは踏まない。仮に裁判になったとしても信者は誰もあなたに協力しない。何故なら背教者に協力したら排斥になるから。だから恨むなら自分と自分の親を恨むべき。証拠が無いからものみの塔協会には何の責任もない。自分の判断で選んだ人生なのだから他者を批判してはいけない。「そういう考え方は悪魔サタンに取り付かれた背教者の考え方です」と集会で習ったはず。

そうしないとハルマゲドンで滅ぼされてしまい、楽園に行って永遠の生命をもらえなくなる。だから老後になっても先の事は心配しない。今まで1回も厚生年金を払ったことがなくても生活保護は受けれる。そのノウハウは組織がちゃんと持っている。だから最後まで組織を信じ、自分が墓の中に入るまで組織の教えに忠実に従い行動すること。

これがエホバの証人の子供に求められる正しい生き方。

子供の頃からこんな生き方、あなたに出来ますか?

絶対無理でしょ。

自分の子供時代に出来そうもないことを、自分の子供に求めれますか?

絶対無理でしょ。

でも世の中には自分に出来ないことを平気で子供に求めちゃう親も現実にいるんです。

「親の人生は親の人生」「子供の人生は子供の人生」なのが当たり前ですが、

エホバの証人の子供にそういうことは認められていません。

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ものみの塔(エホバの証人)の歴史

ものみの塔の創始者は、アメリカ合衆国 ペンシルバニア州 アレゲーニー(現ピッツバーグ)に生まれたアイルランド系移民の子、チャールズ・テイズ・ラッセル(1852-1916 嘉永5年〜大正5年 )です。

1845〜1849年のアイルランドで主食だったじゃがいもに「恫枯病」という病原菌がついて「じゃがいも飢饉」が起き、約100万人が飢餓で死にます。その時、生き延びるために約150万人のアイルランド人が故郷を捨ててアメリカに移民します。

1846年(弘化3年)ラッセルが生まれる6年前に父親のジョセフ・L・ラッセルもアイルランドからアメリカに移民してきます。ラッセルは3人兄弟の次男として1852年(嘉永5年)に生まれ、9歳の時に母親を亡くしました。

ラッセルは14歳まで学校に通いましたが、父親の事業を手伝うために高校には行きませんでした。

長老派教会の信者として育てられたラッセルは、1868年(明治1年) 16歳の時に会衆派教会に移りますが、すぐに辞めて東洋の宗教(詳細不明)に向かい、17歳の時に、イエス・キリストの再臨を信じる再臨派(アドベンティスト派)の信者になります。(再臨派は後に、アドベンティスト派とセブンスデー・アドベンチスト教団になります)

1870年(明治3年)、18歳の時にペンシルバニアのアレゲーニーに住む6人の若者が集まって「国際聖書学生」というグループを作り、ラッセル達は複数の牧師達からアドベンティスト派の教理の指導を受けるようになります。これがJWの公式活動の開始です。

ラッセルは1876年(明治9年)、23歳の時に、ミラー主義運動という『終末思想集団』の末裔だったアドベンティスト派のネルソン・バーバー牧師の聖書解釈に共感し、バーバーと協力関係に入り、「1874年(明治7年)にイエス・キリストは『見えない形で』再臨した」という説を受け入れます。

11歳の頃から父親の経営する男性用服飾品のチェーン店の経営を手伝っていたために、高等教育を受けたことがなかった裕福なラッセルは、バーバーに資金援助を行い、1877年(明治10年)、25歳の時にバーバーと共著という形で、「三つの世界」という本を出版します(執筆はバーバー)。ラッセルとバーバーは意見対立で別れる1879年(明治12年)まで協力関係を続けました。

1879年(明治12年)、27歳のラッセルはアドベンティスト派を離れ、雑誌「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」(Zion's Watch Tower andHerald of Christ's Presence)を創刊しました。これが現在まで延々と続く「ものみの塔」誌の始まりです。

1881年(明治14年)、29歳の時にラッセルは「シオンのものみの塔冊子教会」という非営利法人を設立します。

その後ペンシルバニア州の法律に基づいて、1884年(明治17年)、32歳の時に、現在の「ものみの塔聖書冊子協会」の前身である「ペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会」が法人組織として登記され、組織化されたものみの塔の基礎が確立されました。


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