排斥の判断基準:

長老になると長老の講習会がある。その時に「長老を降りた時は必ず返却する」という条件で、通し番号が打ってある書籍が貸与される。この本は本文の横に余白がたっぷりある変な本で、長老は長老講習を受けながら、この余白に組織から指示された必要事項を自分で全部記入する。

■『あなたがた自身と群れのすべてに注意をはらいなさい』
長老用の神権宣教学校の教科書。所有権はものみの塔協会に属し、長老の資格を剥奪される場合には、返却の義務がある。エホバ神は長老を「助言者」また「裁く者」としてたてられた。旧約時代の裁き人の一団と同じ立場で奉仕すること、会衆の成員の服装と身だしなみや話し方に関しても規制や矯正措置を講じることなどを勧めている。輸血することは排斥処分に相当する、とみなしている。
情報ソース:新世界訳研究会

この本が排斥の判断基準になる。審理委員会での段取りや尋問のしかた、信者を排斥にする場合の詳細な判断基準など、全てこの本の余白に「組織から言われて自分が書いたコメント」を元にして信者を排斥する。

この本は本文だけを読んでも長老の心得が書いてあるだけで特に問題になるような事は書いていない。だがこの本の余白に「組織から言われて自分が書いたコメント」を本文と突き合わせるととんでもない本に変身する。

しかし、何か問題が起きても、「本の余白にコメントを記入したのは長老個人であって組織ではない。だから何か問題が起きても組織には一切の責任はない。全ては会衆側の長老に責任がある。」という、組織を守るための神権的戦術になっている。

さらに、この本が元長老によって一般社会に流出した場合、「長老を降りた時は必ず返却すると約束したから貸与したのに、何故あなたはそれを守らなかったのか? この本の所有権はものみの塔協会にある。あなたはそんな事をしてタダで済むと思っているのか!」という神権的戦術がたっぷり含まれた、末端信者には入手不可能なこの本が排斥の判断基準になっている。

余白のコメントの記入は長老の個人的資質に左右される。几帳面な長老は一言一句間違えないように忠実に記入するが、「自分は頭がいいから大丈夫」と思い込んでる自信過剰やめんどくさがりやな長老は要点のみ記入するので、あとで現場で右往左往して組織に電話で問い合わせてみたりするから会衆ごとのローカルルールを作る原因になっている。

また、信者は審理委員会にかけられても「悔い改め」れば(「反省」のJW的表現)排斥されない建て前になっているが、信者が悔い改めたかどうかを判断するのは裁判官である長老団3人の主観であり見た目の判断なので、信者が全然悔い改めていなくても迫真の演技のおかげで無罪になったり、感情表現が生まれつき下手なために腹の底から悔い改めているのに「この人は何も悔い改めていない」と判断されて排斥になったりする。

なので審理委員会とは茶番劇であり、迫真の演技をしたもの勝ちだと審理前に認識していない生真面目な信者ほど悲劇に見舞われることが多い。同じ罪を犯しても会衆や信者ごとに判決が違うのはそのため。

審理委員会で一番有利なのは長老の息子。長老の親が逃げ切るコツを教えてくれるから。例えば長老の息子がセックスしても無罪で、末端信者の息子がセックスしたら排斥というパターンもよくある。これはその信者が悔い改めたと判断されたかされないかの違いである。

但し、同じ罪をまた繰り返すと、「結局くちだけで何も悔い改めていない」という証拠になってしまうので問答無用で排斥になってしまう。

キリスト教徒とエホバの証人の勉強方法の違い:

【エホバの証人】
基本:一人で聖書を読んでも本当の事は絶対にわからないので集団で勉強する。
1)わからないのが当たり前なので組織の出版物を勉強しなければならない。
2)研究司会者と一緒に勉強したり集会で集団で勉強する。(信者全員必ず)
3)聖書は英和辞典のように確認するだけ。(組織の聖書解釈への信頼)
4)先生役にわからなところがあるとすぐに代わりの人がサポートに来る。
5)統治体の聖書解釈が絶対に正しいことを信じる。(組織崇拝)
結論:世界中の信者がまったく同じ聖書解釈。誰に聞いても同じ答えしか返って来ない。脳味噌のデータベース化。記憶容量の大きい人が偉い。

【キリスト教徒】
基本:基本的にキリスト教信者の聖書解釈は個人の判断に任されている。
1)聖書を勉強したい希望者のみ聖書を自分一人で読んで勉強する。
2)聖書を読む時にJW信者のように単一の聖句で判断せず、文脈の流れから聖書が何を言いたいのかを全体的に読みとる。(JW初代会長ラッセルと同じやりかた)
3)教会に聖書の勉強をするサークル活動があるので出たい人は参加する。
4)その時に牧師や神父にいろいろ質問する。ただし、その時に牧師や神父からすぐに答えが出るとは限らない。(牧師や神父もそのテーマを考え出すから)
5)それ以外にもいろいろな本を読んで、信者が自分の頭で考えて、信者一人一人が自分なりの聖書解釈をする。
6)その理由は、JWは神→組織→信者の関係だが、キリスト教は神→信者の関係だから。
結論:聖書解釈の基本ラインは同じでも、詳細になると一人一人がバラバラ。

注:聖書の勉強量はエホバの証人の方がはるかに多い。常時神学校の生徒並の勉強をしているので、末端キリスト教徒の勉強量の少なさにあきれてしまうエホバの証人が多い。


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