エホバの証人の「救われた」とキリスト教徒の「救われた」の違いは何か?:

・エホバの証人
1)最終目的は、もうすぐ来るハルマゲドンを通過して楽園に行き、永遠の生命という不老不死を手に入れるのが目的で、自分が死にたくないから信仰する宗教。
2)自分が努力して「不老不死」になった時が救われた時。努力を止めるとエホバ神に滅ぼされてしまうので、死にたくないから毎日頑張る。
3)エホバ神のみ唯一の神と信じる。イエス・キリストは神ではなく神の子。三位一体は間違い。JWだけが正しい。他の宗教は全て悪魔サタンに支配されていてハルマゲドンでエホバ神に滅ぼされる。
4)最初の人類であるアダムとエバが作り出した人間の原罪を、イエス・キリストが犠牲となって死んでくれたおかげでエホバ神は許してくれたけれど、それだけでは全然足りなかったから相変わらず人間は苦しまなければならない。その取り残しの罪を、自分と身内だけが許されるために毎日頑張る。そして救われる身内を少しでも増やすために毎日頑張る。
5)エホバ神に滅ぼされて死にたくないから、明日のために今を犠牲にする。今を我慢して、組織の指示に忠実に従い、自分が生き残るために一生懸命頑張る。
6)頑張ったからと言って不老不死になれる保証は無いが、頑張らない場合は不老不死になれない事だけははっきりしているので毎日頑張る。
7)エホバ神に滅ぼされて死にたくないから頑張る宗教であり、努力したご褒美である「不老不死」をエホバ神に求める、究極の現世御利益宗教。

・キリスト教徒
1)最終目的は無い。毎日の生活でイエス・キリストに救われたと感じれて、信じない時に比べて、いつも自分の心がほっと出来るから信仰する宗教。
2)イエス・キリストを神と信じる。三位一体は10世紀位かかった議論の末の人間の解釈なので、そんなややこしい学問は牧師や神父に全部お任せして、とりあえずイメージしやすいイエス・キリストだけを神と信じる。
3)イエス・キリストの存在を信じ、イエス・キリストに自分の全てを委ねることによって、自分の心の悩みや苦しみが救われたと感じることが出来る。
4)真面目にやりたければ真面目に信仰すればいいし、不真面目にやりたければ不真面目に信仰してもいい。不真面目でも神は平等に心を癒してくれる。
5)頑張らない宗教であり、頑張らなくても心が癒される理解不能な宗教。

キリスト教会と王国会館の存在理由の違い:

【エホバの証人の王国会館の存在理由】
義務教育の私立学校で緊急時の避難所という位置づけ。

軍隊がPX(商店)から食事から風呂から床屋から歯医者まで全部持ってるのは、自国が大混乱になって社会システムが完全に機能しなくなった非常時のために、自分たちだけの世界で全部自己完結するようにしておかないと、いざという時に役に立たなくなるから。

JWもハルマゲドンが来た後で自分たちだけが生き残る唯一の組織なわけだから自己完結しているミニ国家宗教と言える。JWも規模は小さいけれどアメリカのペンシルバニアに農場を持っている。教理的に人類が滅んだ後に自分たちだけが生き残る宗教は、自分たちだけの設備で自己完結しなけりゃならない。(実際には全然そうなっていないが、JWの教理を組み立てればそうなる)

JW組織は神によって選ばれた唯一の組織なわけだから、世界中どの王国会館でも同じ事を教えているのが原則なので、キリスト教会のように信者が教会を自由に渡り歩くことは許されていない。会衆を移るには引っ越しや転勤など、それなりの大義名分が必要。

なのでキリスト教会が補習や進学のための塾だとしたら、JWは義務教育の小中学校の位置づけになる。そして牧師や神父が塾の先生だとしたら、長老はうるさい教頭とか風紀委員の先生になり、日本全国の学校を管理する文部科学省は統治体になる。

だからキリスト教会のように礼拝で心が癒されたら金を出せというシステムではなく、「信者は王国会館という義務教育の私立学校に通学しているんだから、おめーらの心が癒されようが癒されまいが俺達には全然関係ないからちゃんと授業料を払え。職員室の海老名ベテルの連中は食わなけりゃ生きていけないんだし、この建物は組織の所有物だから維持管理の費用がかかる。

それに王国会館はハルマゲドンが来た時の避難所になるんだから核シェルターとしての意味もある。核シェルターは自分の会衆だけでいいと思ってるのか。世界中の王国会館に核シェルターは必要だろうが、だから自分の会衆のためと、世界中のJW信者のために寄付しろ。キリスト教会みたいに収入の1割なんてけちな決まりはないからいくらでも自由に寄付していいぞ」という意味で献金の時間がなくて常設の寄付箱が置いてある。

【キリスト教の教会の存在理由】
教会は社会の一部という位置づけ。

現在のような高度情報化産業時代以前の中世の時代を想像すると理解しやすいが、農家が食料を作り、商人がそれを運び、都市生活者がそれを食べ、対価として工業製品を商人に売り、それを商人が農家に運ぶ。

誰かが欲しいと思うものを誰かが提供して(製造者)、その仲立ちをしている誰かが運ぶ手間と在庫を抱えるリスクのために上前をはねて(流通)、それを手に入れたい誰かが納得できる対価を払って(消費者)、対価が製造者に戻ることによって価値が社会を循環して3者がとりあえず満足するのが人間の世界。

しかしそれはあくまでも肉体的な満足であって、精神的な充足感とか心の癒しはどこにもない。そのために必要なのが精神的な癒しの場である教会という位置づけ。

要はハードウェア社会に不可欠なソフトウェアが教会という意味。教会は社会構造の中で必要とされている目に見えない対価を提供する場所で、農家,商人,都市生活者の3者に精神的な満足感とか癒しを提供する場所。

なので「この礼拝でおめーらの心が癒されたのなら金を出せ。俺達も食わなけりゃ生きていけないんだし、この建物はみんなの共有物だから維持管理の費用がかかる。貧乏人は無理しなくていいから収入の1割を上限に出来る範囲で献金しろ」という意味で礼拝の時に献金のプログラムがある。(カトリックは誰がいくら出したか一目瞭然のむき出しのお盆が回り、プロテスタントはいくら入れたか他人に見えないように献金袋とか献金手桶が回る)

逆に言えば牧師や神父の話が下手くそで、その礼拝で精神的な満足感が得られなかったら金を出さなくてもよい。

キリスト教では神と人間は直接的な個人関係で、牧師や神父はその支えをする塾の先生のような存在なのだから、塾の先生の教え方が下手くそなら塾を換える権利は信者側にある。

要するに教会とは世の中の自由競争社会に組み込まれているわけで、教会は自分が生きていくために教会側が努力をしなけりゃならない。なので使えない牧師や神父は指導しても無駄なら稼げないから外される。

キリスト教会は地元密着の個人商店のようなものだから、世界中のどこの王国会館に行っても同じ教科書で教えるJWと違い、世界中で同じ教科書を使って同じテーマの説教を行う教会はどこにもない。(世界共通のカトリックですら神父の裁量権をそれなりに認めている)

キリスト教会は、対仏教,対神道,対統一教会,対キリスト教会など、その教会教会によって地元に合った得意分野がある。対JWの教会は少数だから自分に合った教会を気長に足で探すしかない。

なので一般人がキリスト教会に行くときは、何軒も何軒も教会をまわって自分の性格に合う教会を探す。これがキリスト教会の正しい通い方。

参考情報:エホバの証人伝道に携わっている団体・教会・個人


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