JWとキリスト教会の末端信者側から見た「什一」の扱われ方:

せんれい【洗礼】
(1)キリスト教入信の儀式。浸水(身体を水に浸す)または灌水(頭部に水を注ぐ)や滴礼(頭部に手で水滴をつける)によって、 新しい信仰生活に生きることを象徴する。バプテスマ。
(2)ある分野や社会に入るために経験しなければならないこと。(3)初めての大きな、また特異な経験。「砲火の洗礼を受ける」
三省堂提供「大辞林 第二版」より

【JWのバプテスマを受けた兄弟姉妹】
1)「什一」という教理があるので、常に寄付することを求められている。収入の1割までという寄付制限はない。無制限に寄付できる。
2)寄付は兄弟姉妹の義務。
3)常設の寄付箱が3種類ある。
・自分の会衆用,世界のJW信者用,布教活動のために仕入れた書籍代金用
4)キリスト教会の「什一献金」を批判するのがJWの基本教理なので、寄付をしなくても建て前上は誰も文句を言えない。
5)布教活動が兄弟姉妹の義務なので布教活動をしないと必ず文句を言われる。

【キリスト教会の洗礼を受けた信者】
1)「什一献金」という教理があるので、常に収入の1割を献金する事を求められている。
2)献金は洗礼を受けた信者の義務。
3)礼拝中に献金のプログラムがある。
・献金の時間には、むき出しのお盆(カトリック)か、いくら入れたのか絶対にわからないようにした献金袋や献金手桶(プロテスタント)が信者の間を回る。
4)献金強制は教会しだい教派しだい。
5)布教活動をするのはJWの長老にあたる牧師や神父の仕事なので、希望者以外は布教活動をしなくてよい。

【ちゃんとお金を払う人】
・JWの「什一」には寄付の上限がないので、いくら寄付しても精神的に安心できない。なので他人がいくら寄付したのか常に気になる。会衆の寄付の最新相場はいくらなのか常に注意を払わなければならないので他人の財布が気になる。他人の行動が気になる。究極の相互監視社会。
・キリスト教会の「什一」は収入の1割さえ献金すれば自分の義務は果たしたので他人がいくら献金しようが自分には全然関係ない。なので他人の財布に興味がない。他人の行動に興味がない。

【ちゃんとお金を払わない人】
・JWは究極の相互監視社会なので、誰かが誰かの行動を必ずチェックしていて、ちゃんと寄付しない人は周りの誰かに嫌みを言われる。
・キリスト教会は個人の献金金額を詳細に掲示板に張り出す教会もあれば、いくら献金したのか絶対にわからない教会もある。献金のシステムは教会ごと教派ごとに全然違う。

まとめ

・JW:現金を寄付し可能な限り布教活動をするのが信者の義務。両方とも不可欠。布教活動が主で寄付は従。寄付の限度は一切無し。自分の全て を神と組織に捧げる。

・キリスト教会:現金を献金するのが信者の義務。献金の限度は収入の1割まで。

※全てのエホバの証人は、神と組織に感謝の気持ちがあるなら「貧しいやもめ」のように行動することが必要。自分に感謝の気持ちや信仰があることをまわりの信者にちゃんと見せなくてはならない。お金がある人はお金、お金がなければ開拓奉仕。それ以外にも建設奉仕とかいろいろあるので、会衆の人達に自分に神と組織に対する感謝の気持ちがあることをちゃんと納得してもらうために常に何かをがんばらなくてはならない。

※そうしないとやる気がないと判断され、やがて白い目で見られるようになり、いじめられる事もある

意見
私が思うに、什一献金の本来の意味は「金持ちも貧乏人も収入の十分の一以上を教会に献金するな」という寄付制限のはずである。

人間は誰しも見栄がある。他人がいくら寄付したのか気になるのが普通である。もし信仰が寄付の金額に直結してしまうと、金持ちだけが救われて、貧乏人は救われないということになってしまう。それを打破したのが貧乏人の救いの主、イエス・キリストなのだから、「金持ちも貧乏人も収入の1割以上は寄付しなくて良い、それで充分だ」という決まりのはず。

しかし教会側も自分たちの教会を運営するために什一献金の教えで盛んに信者達にプレッシャーをかけるので、什一献金本来の話がねじ曲がって伝わるのはしかたがないと思う。(金にうだうだうるさい教会ならさっさと見切りをつけて別の教会に移るべき)

日本には昔から喜捨という仏教の考え方があるから、余ったお金を無理しない範囲で寺や神社に寄付するという考え方が自然に身に付いているので、什一献金という強制献金思想に感情的な反発を感じてしまうが、世界は広いからラテン系民族に什一献金の制限がなかったら、収入の全部を教会に寄付してしまって破産したり餓死する人が出てくるのではないか。本来の什一献金にはそういう意味があるのではないかと思う。

きしゃ【喜捨】
(名)スル 進んで金銭や物品を寺社や困っている人に差し出すこと。「浄財を喜捨する」
三省堂提供「大辞林 第二版」より

献金=寄付について、教える側の論理:

■ものみの塔協会の見解

*** ものみの塔 91 12/1 31 どうすればエホバにお返しできますか ***
エホバの民はすべてをエホバにささげているので,真の崇拝を支えるために金銭的な寄付や他の形の寄付を喜んで行ないます。(コリント第二 8:12と比較してください。)事実,クリスチャンがするような寄付の仕方は,エホバの崇拝に関する深い認識を表わす機会となります。これには什一,もしくは十分の一という制限はありません。ですから,状況によっては,王国の関心事を推し進めるためにもっとたくさん寄付しようという気持ちになることもあるかもしれません。―マタイ 6:33。


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