話は私が幼稚園の年長組だった1962年頃にさかのぼります。当時、私の父親と母親が離婚して、最終的に私は母親の元に引き取られました。それから幼稚園の転園が3回、小学校1年に転校が3回というサーカス団の子供のような生活が始まって、最終的に学校を卒業するまで15回の転校をするわけですが、その転校生活の始まりの頃で、まだJW組織からムチの指導がなかった時代の話です。

私の母親の学歴は、当時の東大は女性を受け入れない時代でしたので、第一高女と言う、当時の女性が行ける最高学府の出身です。(母親曰く、今の日本女子大学なんですが、ネットで調べると今のお茶の水女子大学って出るし、年輩の女性に聞くと、終戦後すぐのごたごたした時期だから日本女子大でいいんだって言うし、もうめんどくさいから正確に調べるのを諦めました)

第一高女に就学中、祖父の事業が傾いて、学費と生活費が出せなくなり、第一高女を泣く泣く退学して北海道の教育大学に再入学して教師の免状を取って、北海道の十勝地方の小学校2年生の児童受け持ちの教諭となり、第一高女時代に共産主義者となった母親は受け持ち児童に対して共産主義教育赤化教育をおっぱじめ、それが父兄の知ることとなり小学校を叩き出されたわけですが、当時としては少数派である高学歴女性の母親は、父親と離婚した頃、現役JWであり英会話ヲタクでもありました。

母親は英語の勉強が大好きで、よく英会話学校に通っていましたが、当時の母親の夢は、狭い日本を飛びして、平等にチャンスがあると思われていたアメリカに移民することでした。それは今で言う、「アメリカに留学したい!」って夢と同じです。

しかし、なかなか英語がモノにならず、自分の英語の才能に悲観した母親は非常手段を考え付きます。それは、米軍基地の家庭でお手伝いさんをやれば、英語を覚えれてアメリカ人の生活も体験できると言う一石二鳥のグッドアイデアを考えつきます。そしていろいろとツテを頼って、当時東京にあった米軍立川基地の中にある米軍ハウスのJW家庭のハウスメイドの職を手に入れます。

この家はSundayさん(実名)と言い、旦那さんのサンデイさんは40代の軍属で米軍貨物機の副操縦士をやっていて、本当は兄弟になりたいんだけれど、兄弟になるには米軍を辞めなければならないので、家族を養うために研究生で我慢している人。サンデイさんの奥さんは30代中盤の現役JW姉妹、そして子供が3人いて、長男が6歳のデービット(実名)次男が5歳のスティービー(実名、私と同級)3女が4歳のスーザン(実名)という5人家族でした。

当時の米軍は日本占領時代からの基本方針として、米国軍人の戦闘時の志気を高めるためには、日本の米軍基地内に本国と同じ環境を作る事が必要であり、家族居住用の住宅地の建設方針は、本国の平均的な都市の郊外にある平均的な新興住宅地をそのまま持ち込むという考え方で、米軍立川基地は50年代から60年代をテーマにしたハリウッド映画の中に出てくる白人アメリカ人の家庭そのままの世界でした。米軍ハウスは家族の人数に応じて平屋か2階建てが基本で、広い庭が付いた全室暖房用のスチームラジエター付きの家でした。その上アメリカ人はなんでも黄色で塗るのが大好きですから、やたらと黄色いペンキを使った建物や看板や標識がいっぱい建っていました。

米軍立川基地はアメリカ空軍の基地で、家族居住用の住宅を貸与されるのは士官と高級下士官のみで、副操縦士のサンディさんは士官待遇の軍属でしたから士官用住宅地に住んでいました。貸与された住宅は4LDKの平屋建てで室内は全室カーペットがひかれていて室内を土足で歩き回るタイプの家で、家族は室内履きに履き替えるのですが、家長のサンディさんだけは全室土足OKでした。また、当時は黒人士官なんてほとんどいませんでしたから、近所の旦那さんは全員、大学を出た白人士官、奥様は高卒以上の白人女性で、当時の中産階級のWASPの住む典型的な米軍の住宅地でした。

母親一緒にサンディさんの家に面接しに行った時、サンディさんの奥さんに、大人達が話し合っている間、供達と遊ぶようにと指示されたんですが、これは私と子供達3人の相性を調べる目的もあったようでした。

私は英語なんか全然喋れませんでしたが、そこは子供同士でなんとかなるもので、子供部屋に入って10分も経たないうちに、デービット、スティービー、スーザンの3人と友達になり、さっそくいたずらを開始、母親の面接終了時には4人そろってサンディさんの奥さんに怒られるというありさまで、それが何故かサンディさんに気に入られて完全にサンディ一家の一員となり、サンディ家とお別れするまでの1年4ヶ月を一緒に過ごすことになります。

母親と私は4畳位の洋室の女中部屋で親子2人で住むわけですが、アメリカ人は仕事は仕事、プライベートはプライベートとはっきり分けますので、私は完全にサンディさんの家族の一員となり、日本人にありがちな女中の子の差別を一切感じることがありませんでした。

ちなみにサンディさんの家族とお別れする時までに覚えた英語は全部で16個。グッドモーニングから始まって、ギブミー、カムヒア、シムシム、ゴー、バック、・・・・最後にグッドナイナイで、たったこれだけでも子供同士はちゃんとコミュニケーションが取れちゃうんですよね。


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