1980年
*** ものみの塔 80 5/15 27ページ 箴言―わずかな言葉で言い表わされた豊かな知恵 ***
懲らしめの必要
人間は不完全で,抵抗の最も少ない方向へ赴くきらいがあるので,大抵の人は懲らしめを避けて通ろうとします。しかし,箴言はそれとは異なった態度を勧め,こう述べています。「是非あなたの心を懲らしめに,あなたの耳を知識のことばに向けなさい」。(箴 23:12,新)ここで言われている懲らしめとは,自己抑制と他の人から与えられる矯正の双方を指しています。大抵の場合,それは「知識のことば」,すなわち知識のある人から出て,他の人々を啓発する言葉によって備えられます。しかし,時には口だけの言葉よりももっと強固な懲らしめが必要とされる場合もあります。「打ち傷は悪を一掃するもの。むちで打つことは,腹の最も奥深い所を」。(箴 20:30,新)正しい精神で受け入れれば,強固な懲らしめは悪行を抑制するだけでなく,より良い方向へむけて内的変化を遂げるよう人を促します。
子供に対する親の懲らしめについては次のように書かれています。「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。棒でこれをたたいても,彼は死ぬことはない。棒をもって,あなたが彼をたたくべきである。それはその魂をシェオルから救い出すためである」。(箴 23:13,14,新)「棒を差し控える者はその子を憎んでいるが,子を愛する者は懲らしめをもって確かにそれを捜し求める人である」―箴 13:24,新。
言うまでもなく,懲らしめを与える場合には,怒りを爆発させるような仕方ではなく,常に自制をもって与えるべきです。また,どんな場合にでも体罰を与える必要があるというわけではありません。賢明な助言を二言三言与えるだけで十分な場合も少なくないのです。「一度のけん責は愚鈍な者を百度打つよりも深く理解力のある者のうちに働く」―箴 17:10,新。
1981年
*** 王国宣教 81/1 2ページ 弟子を作るのに助けとなる集会 ***
1月4日に始まる週
30分:「エホバを愛する者となるように子供たちを訓練する」。
(1)弟子になるように子供を訓練するにあたり,努力を払う必要があることを強調する。自動的には生じない。どんな行動が取られねばならないかに注目しながら,以下の聖句を討議する。箴 22:6,新:「少年を……育て上げよ」。時間と努力が必要。
エフェソス 6:4。『育ててゆく』に相当するギリシャ語の表現は,「滋養物を与える」という意味があり,霊的に養い,養育し,育成することを意味する。『懲らしめをもって』とは,訓練,教育,矯正を含めて,教訓を与えることに言及しており,『エホバの精神の規整をもって』とは,『[子供の思いに]エホバの思いを入れること』を意味している。エホバの思いや意志は,聖書中に見いだせる。子供たちが基本的な聖句を覚えることを提案する。そうしてきた人はどれほどいるだろうか。その結果はどうであったか。(使徒 20:35。ヨハネ 3:16。エフェソス 6:1。ミカ 6:8。マタイ 24:14。詩 83:18。箴 22:15,などの聖句を復習することができる。)
場面3: 王国会館に遊び道具を持って行くことを許されなかった子供がかんしゃくを起こす。考慮された聖句: 申命 21:18(わがままな態度は反抗へと進み,重大な結果になりかねない)。申命 31:12(小さな子供たちでも,集会で聴いて学ぶべき)。箴 22:15; 23:13,14(罰として身体的なむちが必要な理由)。
基本的な方法は,子供と推論しつつ,悪い道を歩むことの望ましくない結果を示し,聖書の原則を用いて物事を正すこと。必要な時と場合に,懲らしめのむちが当てられる。目標は,エホバに愛され,そのみ名に誉れをもたらすクリスチャンを育てることであり,このことを思いに留めなさい。
1982年
*** ものみの塔 82 1/15 17‐18ページ 家族としてエホバに喜ばれるものになる ***
父親と母親は子供に対して権威を行使する際に,子供をいら立たせないようにしなければなりません。むしろ,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって子供を育てなければなりません。子供に与える懲らしめや教えはキリストの教えに基づいたものでなければなりません。(エフェソス 6:4。箴 1:8,9と比較してください。)親はまた必要な時に矯正のむちを用いることも要求されています。(箴 13:24; 29:15)以上,夫と妻の責任について簡単に触れたに過ぎませんが,家庭内で,権威は愛と公平とをもって行使されるべきであるというのが,エホバのつくられた取決めであることは明らかです。
1983年
*** 王国宣教 83/5 3‐4ページ 1983年「王国の一致」地域大会 ***
幼い子供を持つ親には十分に集中する点で余分の挑戦があります。数時間座ることは幼い子供ほど難しいのが普通です。幼い子供は当然ながらより活発です。その結果,親も,時には周囲の人たちも気を散らされます。とはいえ,ある子供たちは学齢前であってもほとんどのプログラムの間静かに座ることが観察されています。どこに秘訣があるのでしょうか。それは疑いもなく,家庭と王国会館における正しい訓練です。演壇から供される霊的食物に深い敬意を持つ親は,同じ敬意と認識を子供たちに浸透させるべくあらゆる努力を払います。子供たちは家で,また会衆の集会中不必要にお手洗いに行かずに静かに座るよう訓練し得るのです。このような良い訓練は大会において親子双方がプログラムから益を得るという報いをもたらします。子供の注意力の持続は当然短いものですが,親が落書きを許すかわりに参照聖句をノートに書き留めるよう子供に勧めるなら,向上させることが可能です。もちろん,子供をお手洗いに連れて行くために,また懲らしめを与えるために親が席を立たねばならない時があります。どうぞできるだけ静かにそうなさってください。