娯楽を監督する

17 遊ぶことは子供にとって自然な生活です。(ゼカリヤ 8:5)親はそのことを認めなければなりません。しかし,労働に対する認識や責任感も,子供の生活の中に徐々に取り入れていく必要があります。そして,一番よいことは,どんな仕事を割り当てられてもまずそれを行ない,遊びをその次にすることです。

18 ある子供たちは外に楽しみを求めるため“街路にたむろする子供"になり,家にいることはほとんどありません。その交わりが良くなければ,受ける影響も良くありません。(コリント第一 15:33)むろん家庭外でのある程度の交わりは,人々に対する理解を広める点で子供に益となります。しかしそれも度が過ぎたり監督されなかったりすると,家族のきずなは弱まり,家庭が分裂することさえあります。

19 そうした状態を正すために懲らしめを与えることに加えて,家庭を子供たちにとってもっと楽しいところにするためにどんなことができるか,親が自問するのはよいことです。教えたり懲らしめたりするときだけでなく,子供たちの真の友だち,真の仲間となって十分の時間をいっしょに過ごしているでしょうか。いつも「非常に忙しくて」子供たちといっしょにいたり遊んだりする時間がないでしょうか。子供といっしょに物事をする機会はいったん逃したらもどって来ません。時間は一方向に進みます。子供はひとところにとどまってはおらず,絶えず成長し変化し続けています。月日は矢のように過ぎて,息子が歩き始めたのがついきのうのように思えても,ふと気づいたときにはその子は若者に,そして幼女だった娘は若い婦人になろうとしています。時間の用い方に平衡を保ち自己訓練をするなら,この大切な時期に得られる貴重な機会を軽視せずにすみ,また子供が小さいうちに自分から離れていくのを防ぐことができます。―箴 3:27。

20 テレビを見ることをレクリエーションにしている家庭では,制限を設けることが必要かもしれません。テレビに子守りをさせる親もいます。それは便利かもしれず,安くつくように思えるかもしれませんが,実際には非常に高いものにつく可能性があります。テレビの番組はしばしば暴力と性で満ちています。問題の解決方法として暴力が許されるような印象を与えますし,不倫な性は,日常生活の一部で別に悪い事ではないようにうつります。そのために人々,それも特に若い人々は,暴力と性に対して鈍感になることを多くの調査は示しています。親は子供に汚染されていない健全な食物を食べさせるように気を配ります。では子供の思いがどんなもので養われているかについてはさらに注意を払うべきです。イエスがおっしゃったように,食物は心に行きませんが,思いに採り入れるものは心に入り得るからです。―マルコ 7:18‐23。

21 どんなテレビ番組を見るか,どれぐらいの時間テレビの前で過ごすかを監督することは,子供の発育に大きな相違をもたらします。テレビは楽しい気晴らしになり教育的な面すら持っています。しかし,用心しないと中毒になり,多くの時間を奪われます。時は命です。テレビを見る時間の一部をもっと有効に用いることができることは確かです。というのはテレビの場合は,物事をする代わりにただ見るだけになるからです。体を動かす活動はもとより読書や会話も締め出されてしまいます。家族には心の通じ合いとだんらんが必要ですが,一つ部屋にいても黙ってテレビを見ているだけではその必要は満たされません。テレビの見過ぎが問題であれば,親はテレビに代わる活動,たとえば健全な遊びや読書や家族ぐるみの活動に子供の関心を向けさせることができます。もし親自身が率先して模範を示すなら,それはなおのこと容易でしょう。


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