それ以来、元々の自分が持っている、自分本来の自由に物を考える気持ちや、将来の希望、ささやかな普段の楽しみや、ささやかな欲望は全部捨てました。

母親に、心の中で悪い事を「思っただけ」「考えただけ」でもハルマゲドンで滅ぼされてしまうとしつこく教わってきましたから、私のこの2重人格のアイデアは今でも誇れるグッド・アイデアでした。足りない頭の小学校2年でよく考えついたもんだと思いますよ。

今の自分が昔の自分の頭をなでなでしてやりたくなります(^^)

(そしてこの反動で、JWをやめてからの私は自分の気持ちに正直になって、爆発的に遊び出すわけですが、それはまだまだずーっと先の話しです。)

私の母親は当時の女性にしては行動力のある女性で、風の向くまま気の向くままに移動するので、私は転校を繰り返しました。都会派だった私は、母親のせいで次々転校する転校先の学校ですぐに友達を作れるという特技を発揮、転校は私にとって気分転換で楽しい生活でした。幼稚園から中学卒業まで転校すること12回、これで友達はすぐできるが大事にしないという特種な性格を身につけます。

(画像)
1966年9月30〜10月2日北海道夕張大会の帰り9歳

転校すると教科書が全部変わるので、前とダブって教わる教科と、完全に抜けてしまう教科があり、教科書によっては簡単な事をやたら難しく説明する教科書もあって頭の中がよく混乱しました。転校して新しい教科書に慣れるまでだいたい半年くらいかかるんですが、転校のしすぎで、先生から教わっていない空白が頭の中にたくさん出来てしまい、成績はいつも中ぐらいでした。(何故私がお馬鹿かと言う理由です。いいじゃん、そのくらい言わせろよー)

当時の小学生信者は毎月50時間の伝道が目標とされていて、私は小学校1年から6年まで確実に時間のノルマを達成していました。中学生になると月70時間が目標になり、夏休み(冬休み)は『休暇開拓者』となって月90時間の伝道が目標とされていましたが、これもだいたい達成していたかな?私は当時の『補助開拓者』のノルマである月90時間を目標に毎月やっていたんですが、3ヶ月目になると何故か必ず、腹痛,下痢,締め付けられるような胸の痛み、伝道に行く前になる必ず始まる偏頭痛になり、結局目標時間を達成できずに月75時間あたりをうろうろするパターンでした。ちなみにこの時間は「あんたやる気あるの?」って言われる寸前の数字です。当時の中学生信者は最低でも月80時間は伝道しないと周りが認めてくれません。

【小学校高学年の時、日本支部監督ロイド・バリー氏を諫言】

最近、ハワイで公演後に倒れてお亡くなりになった統治体メンバーで、元日本支部監督のロイド・バリー兄弟が若くて元気だった頃、私はロイド・バリー兄弟の膝の上で遊んだことがあるんですが、それがちょうどこの頃でした。

当時、北海道に正式な会衆は札幌会衆ぐらいしかなくて、他は全て群の時代でした。(他には旭川会衆だっけかな?もう忘れた)私のいた会衆も当時は群でして、集会に集まるのが14〜17人位の時代でした。ロイド・バリー兄弟が始めて群を訪ねてきた時はそんな時代で、その時は奥さんが調子が悪いと言うことでお一人でしたが、彼は子供にものすごく優しい人でした。

私も小学校3年位だったと思うけど、ロイド・バリー兄弟の膝の上で遊んだ記憶があります。でも、この特権はすぐに他の小さい子に取られちゃいましたけどね(笑)その反面、彼は大人にものすごく厳しい人のように感じましたが、あのころの大人達はきっと大変だったんだろうなぁ。

ロイド・バリー兄弟って暇さえあれば街頭伝道してて、ものみの塔と目ざめよ誌を手に持って、誰も道にいなくても、例の独特な甲高い日本語を使って「読んでくぅださい、読んでくぅださい」って大声で伝道してたの知ってます?それが有名になって、NHKのドキュメンタリー番組で好意的に紹介されていましたよね。

当時のロイド・バリー兄弟って「読んでくぅださい」だけが日本語で、あとは全部英語で証言始めちゃう人でしたから、証言に熱中すると、普段の片言の日本語も完全に忘れちゃって、全部英語で相手に証言し始めて、回りで見ている全然関係のない英語のわかる人が、ロイド・バリー兄弟の代わりに通訳し出すぐらい、すごいパワーと人間的魅力のある人でした。

で、当時私と日本支部監督のロイド・バリー兄弟はお友達でして、当時の私は夏の大会だけ、北海道ではなく東京の大会に参加していたんですが、ロイド・バリー兄弟は大群衆の中から私だけを見つけて握手してくれて、まわりの子供達がたまげてしまい、私のJWの特権階級的なエリート意識を十分に満足させてくれたものです。

それが大会で会うたびに毎回続くので、私は、いつも必ず私を群衆の中から見つけ出して声をかけてくれるロイド・バリー兄弟は私のお友達と思い、子供らしい勘違いをしてまいした。

で、当時はムチが会衆内で常識化していまして、小さい子は王国会館の外で、大きい子は家に帰ってからのムチでした。子供が「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません」と外で大声で悲鳴を張り上げるので、子供の悲鳴を聞いた近所の人が警察に通報して、警察官が王国会館に来る事態になります。

(日曜日の集会になると、パトカーが必ず王国会館の前に常駐するようになるのはもう少し先で、私が中学3年の頃からでした。)

それを見た私は、この異常な事態はきっと日本支部監督のロイド・バリー兄弟のあずかり知らない事に違いない。本来のエホバの組織とはこういうはずではないはずだ、今度ロイド・バリー兄弟に会ったときに、何とかしてくれと言わなくてはと堅く思ったのでした。


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