唯一相談できそうなのは大人の研究生だけど、この人達はJWの内部事情を全然知らないからアドバイスされても全然使えない話しで駄目。結局絶対に誰にも何も喋れないし相談できないので、信用できるのはただ1人、自分だけです。

当時の私は自分がどんなに苦しくても死にそうでも、絶対に誰にも喋れないし何も相談できない、そして、苦しいからってもし誰かに相談したら、かえって状況が悪化してしまうのが見えている完全な四面楚歌状態になっていました。

その上、完全な女性不信で女性嫌いで人間不信でしたから、本来救われるはずの宗教で絶対に救われないという惨めな状況になっていました。

【思春期の頃】

さて、この頃の私は、周防猿回しの会の反省ザルの次郎君みたいなもんで、猿回しの親方である母親にしっかりと首輪を付けられて、親方の延ばしてくれるロープの範囲だけで、不満だけどそれなりに満足して生活していました。しかし私はだんだん成長していって、声変わりの時期になり、その後中学2年になっておちんちんに毛が生えてくる時期になってきます。反省ザルのゆーじ君は、自由になりたいからこのロープを外せと抵抗し始めます。ここで初めて、私はそれまで親と組織により芽のうちに完全につみ取られて絶対に出来なかった、生まれて初めての反抗期が始まります。

当時の組織の出版物は若い人向けに、やれ結婚していない若い男女は「舌を入れるキス」はいけないの「ペッティングは駄目」だの「ネッキングは駄目」だの、「婚前交渉は排斥の対象」だの、夫婦間の性行為は「正常位以外の性行為」は犬のセックスと同じだから絶対禁止だの「口腔交接(フェラチオ)禁止」だの「イマラチオ禁止」だの、「肛門交接(アナルセックス)」はソドムとゴモラで繰り返されたサタンの行為だから排斥だの、若い人は「オナニーは聖書により絶対禁止」で、組織として正式に許可されているのは「夢精」だけだのと、性に目ざめてない純真な子供達に要りもしない余計な性情報を、うんざりするほどたくさん与えてくれるわけです。

で、それを聞いて疑問に思った私が「ペッテイングとかネッキングって何?」と聞くと、周りは「男の人が女の人に抱きつくこと」としか答えてくれず、よくわからないからもっと詳しく聞こうと思って「イマラチオって何?」と聞くと、「お前はサタンになりたいのか?」って話しになってしまうので、疑問が疑問を呼び、頭の中は常に女の体の妄想でいっぱいで、人間不審で女嫌いなのに、女の体にだけは異常に興味を持つ変な子供になってしまいました。(これが、私がJWを辞めてからナンパ師になる遠因になります)

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※当時はこういう話ばっかりでした。

*** ものみの塔1973年 6月15日号 382〜383ページ ***
夫婦が性関係を持つ自然な方法は,創造者が付与した男女おのおのの性器の作りそれ自体からして明らかですから,正常な性交のさい男女両性の性器がどのように補足し合うかをここで述べるには及びません。『結婚関係のわく内であれば,何でも行える』という考え方を教え込まれた人びとを別にすれば,大多数の人びとは口腔交接のような行為を,肛門交接の場合もそうですが,普通嫌悪すべき行為として退けていると,わたしたちは考えます。もし,この種の交接が『不自然』ではないとすれば,どんな行為が不自然な行為なのでしょうか。そうした行為をならわしにしている人たちは,夫婦相互の同意の上でそうするからといって,その種の行為が自然な行為でなくなるというわけでもありません。

わたしたちは,どこまでは『自然』な事がらで,どこからは『不自然』なことになるかを決める厳密な一線を引くつもりはありません。しかし,クリスチャンは,聖書の諸原則を思いめぐらすことによって,はなはだしく不自然なことを少なくとも見分けられるようであってしかるべきであると,わたしたちは考えています。他の分野でも,クリスチャンは自己の良心を指針としなければなりません。それには,性交前の愛撫や『愛の前技行為』に関する問題が含まれます。

確かにクリスチャン会衆内の長老あるいはその他のだれにも,結婚した夫婦の私生活に詮索する責任は課されていません。とはいえ,口腔あるいは肛門交接などの行為のようなはなはだしい不自然な行いに関する問題が今後長老たちの注意を引く場合には,長老たちは他の重大な悪行の場合と同様,いっそうの害がもたらされないうちに事態を正すように処置を講ずるべきです。

もしエホバ神の定められた結婚の取り決めに対して故意に不敬の態度を示すなら,そのような人は,他の人びとを汚すおそれのある危険な『パン種』として会衆から除外されなければならなくなります。


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