【排斥後の親子関係】
さて、JWでは排斥になると、JWの教理により親子関係は完全に終わります。もう母親とは親でもなければ子でもありません。これは組織がそうしろと命令してるからなんですが、私の親子関係も完全に終わりました。一日中一言も口を聞かない変な親子になってしまいましたが、私は自分から志願して排斥されたから最初から覚悟の上で、それが当然だと思っていました。
で、そんな日々が続いていたら、自分が親元に住んでいる意味がなくなっちゃってね、再婚して東京に住んでいる父親を頼って、一時的に父親にひさしを貸して貰って東京で就職すれば自分の今の状況から脱出できるなと考えて、父親に電話で連絡しました。しかし父親は「お前は絶対に来るな」の一点張りでした。私は世の中を甘く見ていたので、父親の事情は一切無視して東京に行きます。
でも来られた方はたまったもんじゃないわけです。父親は再婚して2人の子供がいるわけで、そこに前妻の子供が無理矢理訪ねてくるから父親の家庭は大混乱。でもこっちはこっちで父親の事情なんて考えている余裕がゼロですから「行けば何とかなる」ってガキらしい甘い考えでボストンバック一つで15歳の夏に青函連絡船(函館-青森)に飛び乗りました。
・・・・・ここまでが私の現役JW2時代の経験です。
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そして、これから時間をかけて私がだんだん世の人になっていくわけです。
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【東京へ行く】
離婚した父親を頼って東京に着きます、しかしこの父親がとんでもない酒乱で、最初の1日だけはお客さんでしたが、次の日から酒を飲んでは旧日本陸軍式鉄拳制裁(いわゆるビンタ、げんこつで右、左、交互に下顎を思いっきり殴る)が始まり、毎晩ビンタ50発倒れるとさらに追加20発を受けるようになります。(これ、殴られても下顎のリンパ腺が赤く腫れ上がった感じになるだけで、殴った後が絶対に他人にわからないんですよ。あなどりがたし帝国陸軍伝統の私的制裁。)
この鉄拳制裁の日々が毎晩1ヶ月続き、そして何を思ったのか父親が、突然頭を5厘で(3ミリ位)で丸坊主にしろとの命令が下ります。(それが陸軍の初年兵のヘアスタイルだとわかったのはずーっと後の話し)こっちは出ていきたくても就職するまで食べて寝る場所が無いわけですから、とにかく我慢して頭を丸坊主にして父親の家にいさせて貰うんですが、1ヶ月後にやっと就職が決まり、東芝の家庭用電話機製造工場の工員になり寮に入ります。
しかし父親の命令で毎週土曜日の晩に父親の元に行かねばならず、行けば必ず酒を飲んでの鉄拳制裁50発の嵐になるわけです。(これにより完全に暴力恐怖症になってしまって、そのせいで未だに喧嘩は苦手です。喧嘩を始めるタイミングがいつも遅くて、立ち上がりでぼこぼこに負けると、相手をいつまでも追い回して殺すまで止まらなくなる自分がいるから喧嘩は嫌い、だけど売られると絶対に逃げれないのは何故?だから夜の繁華街はマジで怖いですよ、自分が。)
【水商売の世界へ浸かる】
約一年この状況に我慢するんですがいつか必ず父親に殴り殺されると思い、2度目の家出をして水商売の世界に入ります。喫茶店を皮切りにホストやキャバレーのボーイをやり、どっぷり首まで水商売の世界につかるんですが、知れば知るほど水商売のどろどろの世界に嫌気がさし、堅気になろうと決心して、募集もしてない洋服屋に履歴書持参で無理矢理面接させてもらって、洋服屋の店員になったりしますが、まだふらふらしていて、また水商売の世界に戻ったりしていました。
16才頃の生活。(1974年)
喫茶店の給料:時給250円×8時間×25日、月給5万円(当時はこんなもん)
アパートの家賃:1万円(4畳半,トイレ共同,風呂無し)
光熱費(ガス,電気,水道,銭湯代):約5千円
食費:約4千円(1ヶ月ぶんのインスタントラーメン60個のみ)
貯金:なんだそりゃ?どうせ来年のハルマゲドンで死ぬんだぜ
健康保険:そんなものに払う無駄金は一銭も無い!
残り:ぜ〜んぶ遊びで使い切る
当時の食生活
・給料を貰うとまず一番最初に袋入りインスタントラーメンを60個買う
(朝)インスタントラーメン1袋だけ(30日分)
(昼)職場の喫茶店支給の昼食、厚切りバタートースト1枚とコーヒー1杯だけ
(夜)インスタントラーメン1袋だけ(30日分)
・腹が減ってインスタントラーメンをつい余計に食うと給料日前は金が無いから絶食
この食生活を2年近く続けたら背中まであばら骨がきれいに浮き出ました。それでもやっと宗教から離れれて毎日が自由だから本当に幸せでした(^^)
この時期はJWの事を思い出すと必ず頭の中がパニックになりましたから、JWの事は絶対考えないようにしていました。でも、何かのきっかけで思い出すと、それはもう大変な騒ぎだったんですが、私は精神科に治療に行くって発想が頭の中に最初から全然無かったので、自力でパニックを押さえるのは大変でした。(結局時間がかかっても最後まで精神科には行かず、全部自力で自分の心を直しちゃいましたけどね。)