26歳の頃に海上自衛隊時代にナンパして同棲していた今の妻と正式に結婚です。それまでずっとナンパを続けてきたんですが、ナンパに完全に飽きちゃって、「女はみんなどれも一緒、結局一番大事なのは価値観の一致と性格」と達観してしまい。遊び人だった私に何故か別れず付いてきた今の妻と結婚です。で、それからナンパは完全に封印して、別の世界に入って行きます。

.....え、封印したなんて信じない?
ホントだってばさ。私の言う事信じなさいよ。
そう言っとかないと、カミさんがここを見た後で俺に何て言うと思う!

あんたは俺の家庭に不和を持ち込む気か!ヽ(`Д´)ノ

私は車の運転が大好きなので一生運ちゃんをやるつもりでしたが、30歳頃に重いクラッチの踏みすぎで椎間板ヘルニアになり、運ちゃんをあきらめる事になります。そして手に職が何もないので、車好きな私は自動車板金の小僧に修行に入ります。(給料は運ちゃんの半額以下になるが修行修行!)ところが自分に板金センスが全然無いのがわかり愕然として板金小僧をあきらめます。(私は手で鉄板の張りが読めない人だった)

そのころには腰の具合も良くなって来たので、今度は腰に負担の少ない、エアクラッチを使う大型トレーラーの運ちゃんになろうと思って自動車教習所に行きますが、たまたま知り合いの船長が船に乗らないかと誘ってくれたので船の甲板員になります。(急ぎの船員募集だったので、結局トレーラーの免許は取れずじまいでした)ここで海上自衛隊の経歴が役に立ち、機関長の試験を受験してタンカーの機関長になります。

このとき30歳。このころ自分のJW問題を完全解決して、自分にとってJW問題は完全に過去の話しになります。これで若い頃からの長い夢であった平凡な生活を手に入れ、32歳の時に待望の子供も産まれました。

(画像)
第一次峠ブームの時、ドリフトに命をかけた峠屋だった頃車両本体価格より改造費の方が高かった愛車MR-2とともに。(ちなみにNA1600ccでLSDと5速フルクロス組んであります。)日曜日の朝5時頃の箱根三国峠にて30歳

でも子供が生まれてからは遊びは完全に卒業です。この車の前と直後にAE-86レビンの新車(2ドア)と新古車(3ドア)乗ってました。ハチロクも峠仕様で車両本体価格より改造費の方が高かったなぁ。

で、なんでこんな命かけた馬鹿な遊びやってたかって言えば、JW時代の競技活動絶対禁止の反動なんですよ。子供の頃から、人と競技で争って「勝って嬉しい」って経験をJWの教理で一切禁止されていたから、自分が努力した後の勝利の嬉しさを何も知らずに育ってしまい。大人になってから車の勝負で勝ったら、その時始めて勝利の味の美味しさに目ざめちゃったんですよ。(笑)

で、そんな事やってて怖くないのかって質問には、JW時代のハルマゲドンの死の恐怖に縛られるのに完全に免疫が出来ちゃって、「どうせ人間は生まれたら必ず死ぬの!それまでに何が出来るかが問題なの!」って自分の命を粗末に扱って投げやりに思う癖は未だに止まりません。(苦笑)

車のバトルで勝つとめちゃくちゃ嬉しくてね、こんな嬉しい事やってて、バトルで勝てれば事故で死んでも本望だって思って命かけて遊んでました。でも、危ない目には何回も遭ったけど、無茶はしてても無理は絶対にしないから、峠では一回も事故らずに済みました、

そういえばこの「無茶はしても絶対に無理をしない」ってのは海上自衛隊の応急班での戦闘訓練で学んだのでした。応急班ってのは戦闘中に寝ててもいいんだけど、敵の弾に被弾したら「火事だぁ!浸水だぁ!艦が沈むぞぉ!」って大騒ぎの時に、火を消したり穴を塞いだりって応急処置の仕事をする配置です。

で、私は応急班の電話員でしたので、みんなが大騒ぎしている時に。クールに作業状況を応急班指揮所の幹部に報告する仕事ですので、全体の作業状況がよく見えてね、「ノコギリどこっ!どこに消えたぁ!」って誰かがパニックになって大騒ぎしてる時に「目の前にあるだろが!このアホォ!おめえは目をどこに付けてるんだぁ!少し落ち着けぇ!」とか大声で言ってました。(笑)

そんな非日常な毎日が日常生活だった時代があったので、いつも自分を第3者のように他人事にクールに見る事が出来るようになったのが、無茶しても、無事故に繋がったのかもしれませんね。

私って昔から転んでも只では起きない人だから、いろいろ経験した時に、拾える物は全部拾わないと損しちゃうって思う人なんですよ。(^^)

で、子供が出来たら父親としての責任が出来ますし、不幸な子供は自分一人で、たくさんですから、子供が生まれたのをきっかけに、無茶な遊びからは完全に足を洗いました。


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