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【インナーチャイルド・プログラム 第一部】
傷ついた内なる子供をどのように癒すか


目次

1.わたしたちの内にある子供

1)「内なる子供」とは何か
2)偽りの共依存的自己
3)「内なる子供」はどのように成長が図られなければならないのか
4)わたしたちの成長に役立つもの

2.どのように内なる子供は傷つくか

1)内なる子供を窒息させる親の状況
2)機能不全家族は「内なる子供」をどのように押しつぶすか
3)共依存的自己が形作られる

3.内なる子供はどのように生き延びるか

1)トラウマが与える影響
2)複合型PTSDの特徴
3)傷ついた内なる子供と嗜癖行動
4)嗜癖の心理回路
5)嗜癖の様々のタイプ
6)傷ついた内なる人が作り上げる人格の型

4.内なる子供をどのように癒していくか

1)生き残ってきた「内なる子供」
2)不健全な自我防衛が表れてくる
3)気づきの出現
4)回復の苦しみは無駄ではない
5)「カミング・アウト」
6)安全な場の発見と確保
7)グリーフ・ワーク(トラウマを思い出す・喪の作業)
8)「インナーチャイルド」との出会い(怒りと悲しみを受け止める)
9)「インナーペアレント」との別れ(今の自分を受け入れる)
10)人間関係の再構築
11)回復の目標
12)回復はらせん状に登っていく

5.中心となる課題に取り組む

1)わたしたちは独りで取りくむのではない
2)否認の傾向と取り組む
6.取り組むべき中心課題の棚卸しと回復
1)恨み
2)恐れ
3)抑圧されたあるいは不適切に表現された怒り
4)承認を求めようとすること
5)世話を焼くこと
6)コントロール
7)見捨てられ不安
8)権威のある人たちを恐れること
9)凍りついた感情
10)無責任
11)孤立
12)低い自己評価
13)過剰に発達した責任感
14)不適切に表現された性(セクシュアリティー)
15)性格上の強さ

※以下の二つの章はTHE 12 STEPS A Way Out / RPI publishing,Incを参考に
しています。
5.中心となる課題に取り組む
6.取り組むべき中心課題の棚卸しと回復


1.わたしたちの内にある子供

1)「内なる子供」とは何か

 どれほど微かで、とらえにくくても、わたしたちの中には自分を創造してくださった方に似た、創造的で生命にあふれ、心から自分に満足している自己(わたし)を持っています。与えることを喜び、憐れみ深く、他の動物や人間に近づいて自然に親しもうとします。不公正には怒りを感じても全般的には他 人を信頼します。遊びや楽しみを大切にします。感受性が鋭いので傷つきやすい面も持っています。自分をのびのびと表現し、成長することを求めます。これらがあなたの中にある真の自己です。これを「内なる子供」と呼ぶことにしましょう。そしてわたしたちが真の自己「内なる子供」である時、わたしたちは自分が自然に生きていると感じるのです。わたしたちは大人になると様々の役割を果たさなくてはならなくなりますが、「内なる子供」が生き生きとしている人は、それが話し方や行動そして他の人との関係に表現されるのです。のびのびとして自信があり、人を受け入れ親しみ、色々なことに興味を持ち、また創造的です。そのような大人でいつもありたいと願います。

2)偽りの共依存的自己

 一方わたしたちは多かれ少なかれ、窮屈な感じのする自分も持っています。他人の目をびくびく恐れ、自分を出すのを嫌います。人に好かれようと自分を無理に他人に合わせようとする他人中心の自己を作り上げます。(共依存自己)ですから大体が理想主義者で完璧主義者です。「人なんか気にしていないよ」と言う人でも、しばしば人を妬み、批判し、攻撃的で孤立します。遊びや交わることを避けて、自分を大きく見せることを求めて人をコントロールしようとします。自分の無意識から来る感覚を無視しようとしますが、無意識の虜になって、様々な強迫的な行動にさいなまれます。このようなわけで自分自身に対して何か不自然で不快な感情を持っています。

 わたしたちが本来持っているはずの真実の自己「内なる子供」はどうして窒息させられるのでしょうか。「内なる子供」はその必要が十分に満たされ、成長させられなければなりません。しかし、残念なことに、わたしたちの親や教育者たち、ゆがんだ宗教や政治やマスメディアは「内なる子供」を押さえつけて無理矢理に偽りの自己を着させ、ぐるぐる巻きにして、わたしたちの真実な自己「内なる子供」を窒息させてしまうからです。

3)「内なる子供」はどのように成長が図られなければならないのか

 「内なる子供」の成長に大切な三つの段階を斉藤学は次のようにまとめます。

@HOLDING(抱擁)
 安心感:安全、精神的にも身体的にも性的にも脅かされないありのままの姿が受け入れられる:愛が保証される
ALIMIT-SETTING(懲らしめ)一定の規範を認めさせる教育
 家族、社会に適応させるためのしつけ、対人関係の取り方を教える自分と他人の境界線を引く
 行き当たりばったりでなく、一貫性を持つ、脅かさず、待つTIME-OUTを取る余裕
 適度の挫折感は、精神的な発達を促すので過保護にしない
BDETACHING(子別れ)親からの卒業
 口を出さない、外に送り出すことを喜ぶ
 親密さを保ちながら、魂のふるさとであり続ける

4)わたしたちの成長に役立つもの

 「内なる子供」の成長には以下のようなものが必要です。

@生き残ること、安全であること

A関心が払われ、ふれあうこと
 バージニア・サティアは健康のためには一日に何回かのハグ(抱擁)が必要であるとさえ言っています。

Bミラーリングとエコーイング
 どちらも適切な反響を得るという意味ですが、幼児、子供、大人を問わず、何かを感じたり考えたときに、それらが伝わっていることの承認を言葉によらずに表情や音その他の動きによって確かめられることは大切です。これが例えば母親の側の怠慢や病気のためになされないと、子供の側から親の必要を感じ取り、それを母親に供給し始めます。しかし、これは子供の側に大きな代償、真の自己の窒息を生じさせるのです。

C指導
 様々の形の助言、援助、適切な社会的なスキルを教えることが含まれます。

D聴くこと、参加すること、受容すること。その人のあるがままの理解できなくても話すことに耳を傾けてもらえること。その遊びや活動に一緒に加わってその世界を受容してもらえること。その人のあるがままの感情や考え方が敬意を持って受け入れられること。賞賛されることによって、真の自己は自分であること、成長する自由も持つことかできます。

E喪失を嘆き、成長すること
 実際の喪失であれ、喪失の脅威であれ、わたしたちにはそれを嘆き苦痛を体験する時間とゆとりが必要です。この過程を経験するとき、わたしたちは何かを手放し、その自由の手に何かを新しくつかみうるのです。喪うことはそれが正しく扱われれば、何かに出会うことでもあるのです

F支持されること、信頼されること、達成できること
 真の自己が何かを創り出したり成長するときそれを支えられることが必要です。それはエンパワーと呼ぶことがあります。また人を信じられること、自分を信頼できることも成長を続ける点で欠かせません。こうして何かに継続的に携わることにより、何かを成し遂げられること、とりわけ親密な人間関係を幾らかの人と保ちうることは大切です。

G意識を変えること、楽しみや娯楽を持つこと
 クスリやアルコールによらず、スポーツをしたり、何かの計画に没頭したり、笑ったり、居眠りをしたりして、周期的に意識状態を変えることは生物学的な要求であるのかも知れません。自発的に、遊んだり娯楽を持ったりしてこれを行えることは「内なる子供」の特徴なのでしょう。

Hセクシュアリティー
 単に性交の行為だけでなく、男であること女であることに満足を感じること。男性であれば自分の中の女性性を発見したり(育児や料理の楽しみを知る)女性であれば自分の中の男性性に気付く(計画を立てたり、チームワークを組んだり、少々荒っぽいゲームをして楽しむ)こともあります。

L自由であること、慈しむこと、無条件の愛を示すこと
 これらは創造された方に一番近くにいる印(しるし)となり、成長のゴールといえるものです。
※マズローやウイットフィールドら先人の業績による

2.どのように内なる子供は傷つくか

1)内なる子供を窒息させる親の状況

 次のような家庭の中では子供はのびのびと育つことが出来ず、内なる子供は窒息させられたようになります。

@アルコールや薬物依存、ギャンブルなどの嗜癖が見られる家庭
 このような家庭の中では子供たちは不適切な世語を受け、虐待を経験することが多いのですが子供たちの多くは問題のあったことを否認しています。

A共依存の見られる家庭
 共依存の発見はアルコール嗜癖者の妻たちの態度の研究からです。彼らには驚くほど似通った特徴があります。彼らは他人の欲求や行為に焦点を合わせ過ぎているため家族の中で機能不全を示しています。例えばアルコール嗜癖者の妻たちは、その人生を夫を支えたり世話をする事に関わりすぎるため、自分の欲求や子供たちへの真の世話はおろそかになってしまいます。

B慢性的な精神疾患や身体機能障害がある家庭
 例えば慢性的なうつ病の母親は子供に愛情を抱いていても表現する余裕がないかもしれません。子供は親の不機嫌さを自分のせいにしてしまい、自分を責める考えを身につけてしまいます。

C極端に厳格であったり、完ぺき主義的な家庭、夫婦の愛情の薄い家庭
 こうした家庭では、努力がほめられることが少なく、わずかの失敗が責められます。また夫婦の愛情が欠けていると、子供は驚くほど敏感に親の必要を感じ取りその必要を満たそうとします。こうして世語を受け安心感のある子供時代を過ごすことなく、幼少時期から世話焼きになってしまいます。絶えずわたしたちを罰する神を子供に押しつける宗教が家庭で教えられればそれも「内なる子供」を大きく傷つけることになります。

D虐待の見られる家庭
 緩やかな身体的虐待、あからさまでない性的虐待、子供のネグレクト、子供の成長を無視したり、妨げようとすることも子供の心に大きなトラウマ(精神的な傷)を残します。子供に性的な経験を話すこと、身体の不適当な部分を触ることなども性的な虐待であり、強烈な罪悪感や恥辱感を残します。

2)機能不全家族は「内なる子供」をどのように押しつぶすか

 この様な機能不全の家族の中では、なぜ「内なる子供」たちは押しつぶされるのでしょうか。そのメカニズムを一緒に考えてみましょう。

@感情の否認と秘密主義
 機能不全家庭の中では、恐怖感や失望が続くためにあきらめること、「何も感じないように」する事が無言のうちに求められます。また家の中にあることは「外部に漏らさないよう」、家族の中でも「話し合わないように」する事が無言のうちに求められます。こうして感情は凍っていき、人への信頼は奪われていきます。

A予測が出来ないこと、身勝手なこと、混乱していること
 機能不全家庭の中では、約束はしばしば破られます。家にほとんど規則らしいものは無く、あってもそれは身勝手に決められたものです。この家の中では金銭面での不足や暴力がしばしば見られるために、薄氷の上を歩くような不安と息を潜めて生きる毎目なのです。あまりにも厳格に規則を守らせようとする家庭があります。しかし、そんな厳格な家庭でも、ある人に対しては甘かったり、親も表裏のあることを示したりするので子供は混乱する場合が多いのです。

Bコミュニケーションの不足と境界のあいまいさ
 機能不全家庭の中では、成員は表面的なことを話し合うにしても根本的な問題は避けて通ります。また、それぞれの本心は隠しますが、自分の要求は強引にあるいはテクニックを使って通そうとします。家族はそれぞれが孤独でも表面は一体であるように振る舞うので、他人のことに絶えず口を出し、自分の問題に他人を巻き込もうとします。このために家族の中に争いや問題が絶えず起こります。こうした状況を纏綿状態(エンメッシュ)と呼んでいます。

C過度の羞恥心
 罪悪感は何か自分のした失敗を引き金にして起こされるのに対して、過度の羞恥心、恥辱感は「自分の存在が恥ずかしい」「自分などいない方がよい」といった感覚を抱かせます。ほめられることが少なく、絶えず否定的な評価をされた場合、「内なる子供」は傷ついていきます。「あなたのせいで離婚できなかった」「あなたのせいでわたしはしたいことが出来なかった」といったことを単なる愚痴として漏らした場合でも、子供は自分に当てはめて自分は価値がない存在であると感じてしまいます。

3)共依存的自己が形作られる

 のびのびと育つはずの内なる子供も、こうした体験を通して傷つき、周囲にあわせて生き延びる技術を身につけていくのです。次章でそのことを考えていきましょう。

3.内なる子供はどのように生き延びるか

1)トラウマが与える影響

 トラウマとは心に受ける深い傷のことです。身体的な外傷が治癒するのに時間がかかり、治った後も傷跡を残したり、神経の麻痺や運動の制限を残すのと同じように、心の傷も目に見えなくても、癒されるのに長い時間を要します。その上、傷跡を長く残してしまうこともまれではありません。

 例えば阪神大震災では多くの物理的な被害がもたらされましたが、幾らか落ち着きを取り戻した後、精神的な障害が色々な人に表れてきました。一人の婦人はマンションが壊れて、別の住居に移ることになりました。彼女は地震の直後の一ヶ月ほど、被害を受けた仲間を援助するために、走り回りました。食料の分配を行ったり、衣服に事欠く人を見ると、余震の中で家に戻り、取り出せた衣服を配ったりしていました。この時期には、余り眠る必要を感じなかったと言っていました。(過覚醒)しかし、周囲が少しずつ落ち着いてきた後、彼女は、倒壊した家に近づいたり、ものが傾いたりしているところへ行くと、冷や汗が出たり、寒気がしたり、鳥肌が立つという現象が起こってきたのです。家にいても一人でいると不安でたまらない状態になって、外にも出られず家にも一人でいられなくなりました。その後パニックは大分少なくなって来たものの、憂うつで淋しいという感情は長引きました。その後、完全に回復するには、かなりの時間がかかりました。

 これは、恐怖を感じさせる地震体験が、トラウマ(心的外傷)を起こした実例です。一度トラウマを経験すると、様々の症状が後から現れてくるのですが大きく分けて「侵入性反応」と呼ばれる過剰な覚醒と活動過多を特徴とする症状とその後に「感情鈍麻(どんま)性反応」と呼ばれる症状が現れるとされています。

 地震直後の彼女の活動に見られた興奮やその後、倒壊した家を見て起こったパニックなどは「侵入性反応」の主要なものです。またその後の憂うつな感情は「感情鈍麻性反応」と見ることができます。「感情鈍麻性反応」には@他の人から孤立するA慢性的反復的な抑うつB身体がどこか具合が悪いという「心身症」C感情の遮断D「失感情症」といって身体的にも精神的にも痛みを感じにくくなる・・・などが見られます。またトラウマが長引いたりすると、人格にも変化が生じてきて「解離性障害」として「離人症」や「多重人格」などが起きることが、経験上知られています。

 自然災害、事故、身近な人の死、愛する人との離別、失業、犯罪の犠牲者になったり目撃者になることなどは、いずれもトラウマ(心的外傷)となり、先に述べたような障害を後に残す可能性があります。そしてこうした人たちには、心を癒す助けが必要です。

 さて、子どもが親から受ける、身体的な暴力や性的暴力、そしてそれを直接に受けなくても、それらを目撃するといった経験は、どれも強いトラウマであり、深い心の傷を本人に与えます。(家庭内暴力)また、精神的な支えが得られず、感情的な必要が無視される経験(ネグレクト)も、将来に影響を及ぼすトラウマになります。

 児童虐待というトラウマは深刻です。トラウマは、ただの一度でも精神的に大きな後遺症を残す可能性があるのですが、それが家庭で毎日のように繰り返されているのです。また本来、子供がトラウマを受けても、親や周りの人が慰めればやがて心の中で整理され静まっていくものですが、家庭内のトラウマは慰める人がいないことが多いのです。この様に繰り返されるトラウマによる障害を特に複合型PTSDと呼ぶことがあります。

2)複合型PTSDの特徴

1.情動・衝動の調節に関する障害

a 情動の統制障害(抑うつ感、躁状態)
b 怒りの調整障害(わずかのことで怒りを爆発させるなど)
c 自己破壊性(自傷行為、嗜癖など)
d 自殺願望
e 性的関わりへの調整障害(過度で自己破壊的な性行動、性倒錯など)
f 危険な状況へ自ら飛び込む衝動(飲酒して危険な運転をするなど)

2.注意・意識に関する障害

a 健忘(忘れ物が多い、同じ失敗を繰り返すなど)
b 離人症(自分が生きていなように感じる、物をガラス越しに見ているように感じる)
c 一過性の解離のエピソード(一時的に記憶を失い、まるで他の人格であるかのように振る舞う)

3.身体化

a 消化器系(潰瘍性大腸炎など)
b 慢性痛(頭痛など)
c 心肺系(喘息など)
d 転換症候(歩行障害、失声、感覚脱失など)
e 性的症候(性的不能、性欲の亢進など)

4.自己認識に関する障害

a 無力感(自分は自分を守る力さえないと思う)
b 癒すことの不可能な自己損傷の感覚
c 罪悪感と罪責感(自分の過ちのためにトラウマが起きたと考える)
d 羞恥心(本当の自分は人前にさらすことが恥ずかしい存在だと思う)
e だれも自分を信じないと思う
f 自己卑下(自分など生きる価値がない存在だと思う)

5.トラウマの加害者についての認識に関する障害

a 加害者の歪んだ信念の取り入れ(パワーで人を支配するという考えなと)
b 加害者を傷つける願望にとらわれる
c 加害者を理想化する (加害者の言動をまねしたり、賞賛する)

6.他者との関係における障害

a 他人を信頼することが困難
b 他人を虐待し、犠牲者(被害者)にする
c 再び犠牲者になる(自分をうまく守れず、繰り返しレイプされる)

7.意味システム(世界観)における障害

a 自暴自棄、絶望感(信仰を築き上げることが難しい)
b 以前の自分を支えてきた信念体系の喪失
※ B ファン・デル・コルクらによる(注記は筆者)

3)傷ついた内なる子供と嗜癖行動

 「自分には価値がない」と感じながら、他の人の関心に合わせる生活は、絶えず緊張感がつきまとい苦しいものです。「自分の生活には何かが不足している」「こんな生き方は何か変だ、違う」と感じるようになります。これは「内なる子供」が叫びをあげている状態です。しかし、現実に直面し、自分に否定的な感情を持つことはもっと恐ろしいことなのです。他の人との関係でも、自分をオープンにし、あるがままであろうとすると、その度に、冷たい態度であしらわれてきました。このように拒否され続けた「内なる子供」は、次第に感覚を麻痺させ、感情を凍らせることを学んできました。しかし、わずかな時間であっても自分が自分でいられる、本当の自分を感じさせてくれる何かが欲しいのです。これを求めて、「内なる子供」は強迫的な行動をとるようになります。これを嗜癖と呼んでいます。これは、一時的に達成と解放を感じさせてくれます。しかし必ず、後から恥辱と不全感が戻ってくるのです。このように嗜癖行動を取っている人は、白分の中に無意識で未解決の内的な衝突を抱えているものです。

4)嗜癖の心理回路

 一時的な飲酒や薬物摂取、過食などがどのように嗜癖という強迫行動に変わっていくのでしょうか。傷ついた「内なる子供」は強い依存欲求を持っています。しかしこれが満たされることは余りにも少ないので、不安が生じその反動として「自分は強い」「誰にも頼る必要はない」と突っ張ります。人にそれを認めさせようとして大きなことに挑戦しますが、失敗します。ここで不安、他人への怒り、虚しさ、寂しさがどっと押し寄せます。これをパニックと表現することが多いようです。これはとてもつらい経験となりアルコールのような嗜癖に逃げ込みます。体質によって飲めない、環境的に許されないなどの理由があれば飲酒の代わりに他の嗜癖が選択されます。嗜癖によって一時的に不安が消失し、誇大傾向が助長されますが、また失敗するという回路が形成されていくのです。最初は精神的な依存を起こし、そのうちに身体的な依存を起こします。

嗜癖の心理回路

5)嗜癖の様々のタイプ

 嗜癖ははっきりそれと認めやすいものから、わかりにくくそれ故、ずっと続いてしまうものまで、様々です。いずれも自分で意識して抜け出さない限り、わたしたちから力を奪っていきます。

@人間関係の嗜癖
共依存−アルコール依存症とその妻、依存的な生徒と支配的な教師
電話中毒−一人が寂しく、不安になって誰かに電話をかけまくる
恋愛嗜癖−ハイな気分になるために相手を求めるが、満足を得ない
暴力嗜癖−配偶者、子供、動物の虐待など
性的な虐待−自分が性的な虐待を受けた犠牲者が虐待をすることも多い

A物質の嗜癖
アルコール−男性が多いが、キッチンドリンカーと呼ばれる主婦もいる
ドラッグ−シンナー、睡眠剤、覚醒剤など
甘い物−過食症、吐いたり、下剤を使って体重は落としている場合がある

Bプロセス嗜癖
仕事中毒−日本人に多い。仕事に逃げて家族や自分を省みない
ギャンブル嗜癖−パチンコ、競輪、競馬、賭麻雀など
買い物中毒−過剰な負債を抱えてしまう、不要なものを買い込む
万引き−摂食障害の人に不思議に多い
テレビゲーム−男の人たちに多い、漫画にふけるひともいる

Cムードへの嗜癖(斎藤学)
 抑うつ感情−抑うつであることで周りから認めてもらえるとホットする時がある。本人は苦しんでいるが、嗜癖と分かると逃れられる時がある。本当にうつ状態の患者に嗜癖と言うことは残酷であり言うべきでない

Dトラウマへの嗜癖
自傷行為−リストカット、薬を大量に服用する。抜毛癖
危険な行為へののめり込み
暴力的な人に惹かれていく

6)傷ついた内なる人が作り上げる人格の型

 機能不全の家庭の中で生き延びていくために共依存的な自己は様々のタイプを取っていきます。わたしたちがこれを掲げるのは、誰かをこのタイプだと決めつけるためにではなく、こうならざるを得なかった苦しさを理解するためです。また相手によってタイプをかえることがあるので、以下のタイプは一人の中に混在することもあります。誰かが家を出たりすると兄弟の間で役割の交代が行われることもあります。これらの役割は厳しい環境を生き残るための自衛の手段だったのですが、自分の家を出て、その環境から離れてもなおも生き続けて、その後の生活を生きにくくさせています。

@ヒーロー(責任をとる型)
 小さいうちから現実的な目標を立てて、普通の人より早々とそれを達成していきます。これはその人に、評判や名声を与えますが、その中でじわじわと問題が進行していきます。不安が増し、緊張の高まりを感じ、周囲の人々との間に見えない壁を感じていきます。リラックスすることや冗談が苦手で、人の中では居心地悪く感じます。何でも物事を取り仕切らないと落ち着かず、人間関係では上下の関係をはっきりさせようとします。並列な立場に立つことは、コントロールを放棄してしまうことになり、それは生き残ることを放棄することと同じくらい危険に感じます。人間関係が固く窮屈なので、オープンで分かち合う親密さを基調とした対人関係は苦手で、そこから逃げ出したいと感じます。寂しさを紛らわせるためにアルコールや他の嗜癖に走ることもあり自分の管轄下にある人々を暴力や刺すような言葉で支配しようとすることもあります。

Aロストチャイルド(順応する型)
 子どものうちに、問題があるとどこかに隠れて過ごすことが楽だったというような経験をした人たちは、大人になってもこの方法を使います。何か決定をしなければならない事態を避け、問題を聞かなかった振りをしたりします。何が起こっても無難に切り抜ける名人です。このタイプの人は自分の居場所を知られないように、家にいてもなるべく家族との関わりを避けます。自分の本当の問題に直面したり、自分の感情をきちんと分析したりはしません。人とうまくやることは出来ても人を信じることを難しく感じます。ゲームにのめり込んだり自己否定的な順応を続けていくと、抑うつ的になり孤独に陥ります。

Bイネブラー(慰め役)
 他の人の情緒的な必要を満たすことに忙しかった子供時代を過ごしたために、他人の感情に大変敏感で、世話焼きで人の悩みを良く聞くことが子供時代から顕著です。そして大人になっても他の人の世話をし続けます。他の人を良い気分にすることに長けているため、世話を必要とする人に自然に惹きつけられてしまいます。このように慰め役をしながら育った人は、人の感情は良く理解できても、自分の必要がなんなのか分かりません。かえって自分の必要を満たそうとすると、罪悪感が出てきて不安になります。強迫的に自分を犠牲にし続けること、それが安心感を与えるのです。

Cマスコツト、クラン(道化役)
 緊張しがちだった家庭を和らげるために、必死でおもしろいことを考えたり行ったりします。明るい雰囲気を持っていますが自分に満足しているわけではありません。場を盛り上げることはうまくても、自分はどこか受け入れられていないと感じてしまいます。本当の自分、自分の感情に直面することは苦手です。

Dスケープゴート(非行に走る型)
 子供の時も、大人になってからも自分に対して良い感情を持てず、自分の要求を表現することもうまくできません。絶えず怒りを感じ、周囲にトラブルを起こし続けます。実際にはアルコール依存の父親とそれを支えている母親にこそ、この家の問題の真の原因であるにもかかわらず、「この子のせいでこの家には問題が絶えない」と言われ、非難を一身に担う身代わりの山羊です。彼らは同じ性格を持つ子供たちに引き寄せられて仲間集団を作ります。肯定的な役割モデルを果たすことに興味がないので、破壊的になり、孤立していきます。回復する機会がないと、世の中の裏道を歩き続けることになります。

4.内なる子供をどのように癒していくか

1)生き残ってきた「内なる子供」

 厳しい環境の中で育ってきた「内なる子供」の中には、親により殺されたり、病気で死んだり、自分で死を選んでしまったものたちもあります。しかし、今まであなたが生き延びたとしたら、それには大きな努力が必要だったのですから、拍手を送りましょう。

 しかし、前の章までで学んできたように傷ついた「内なる子供」が生き延びるためには、本当の自己の上に厚い「偽りの自己」という鎧をまとって生きなければなりませんでした。そのために共依存者として生きるようになったり、様々の嗜癖や強迫的な行動を身につけてきました。逃げること、隠れること、何もなかった振りをすること、他人の世話を焼くこと、学んだり鍛えたりして偉くなろうとすることなどあらゆる方法で生き延びてきたのです。まず回復に当たって、わたしたちが自分に正直になり「偽りの自己」をまとって生きていることに気づかなければなりません。

2)不健全な自我防衛が表れてくる

 多くの人は正直に自分を認めることが出来ません。「わたしには問題がない」と否認したり、心理学的問題として理解し頭の中だけの問題(知性化)ですませようとしたりします。自分の感情を切り離したり(抑圧や分裂)、人や社会に怒りをぶつけて(投影)すまそうとするかもしれません。自分がはっきり分からないで手首を切ったり(アクティング・アウト)体の不調(心気症)を訴えたりします。こうした防衛は機能不全の家庭では機能していますが、大人になり家を離れた場所では通用しにくく、息苦しく感じさせます。この様な防衛を手離して初めて「内なる子供」は健全な回復と成長を始めることが出来るのです。

3)気づきの出現

 わたしたちの何かが違っていたという感覚は様々の方法で訪れます。回復を始めた友人や家族の話を聞いたとき、病院で医師やカウンセラーから知らされたとき、本屋で見つけた解説書や体験談を読んだりしたときに始まります。この時期にさしかかっている人とお話ししていると、「わたしは自分が分かりません」とか「自分がないんです」「わたしは嘘を生きているんです」という言葉をよく聞きます。本人がこういうことが自覚された時はとても苦しんでいる時です。ですから自分が何か他の人とは違っている、自分は何かおかしいと気づくこと、それは回復の一歩なのです。

 しかし、わたしたちは気づきを無視したい欲求に駆られたり、「自分にはそれほどの問題がない」と決めつけたり、かえってアルコールなどの嗜癖行動が強まるかも知れません。これは不健全な自我防衛の働きによります。わたしたちはこうした障害を乗り越えて真の自己、リアルな「内なる子供」に接触できるでしょうか。それは困難な旅の始まりかも知れませんが、勇気を出してください。報いは大きいのです。

4)回復の苦しみは無駄ではない

 わたしたちが「偽りの自己」という外套を脱ぎ捨て「真の自己」への出発をするのは容易ではないのです。あまりに苦しいので、「何も知らなければ良かった」という気にさえなるでしょう。しかし、のたうち回るような苦しみを経て、新しい「真の自己」の確立へと向かうのです。この過程は、毛虫が蝶に変身する過程に例えられます。毛虫は自分が蝶になることを知りません。変身をもたらすためには、幼虫の自分がいわば一度死に、繭の中で再生すること、そのすべてが経験されなければなりません。

 ある人が庭の木にぶら下がっている繭に気がつきました。その人は枝から繭を取って投げ捨てようとしたのですが、繭の端が開いて蝶がもがいて出ようとしているのに気付きました。その人は蝶が出るのを助けようとして、繭を丁寧に切り裂いてやりました。確かに蝶は開いた繭から弱々しく這い出して来ましたが、数時間の内に死にました。その蝶が独力で外の世界で生き延びるためには、もがくことによって得られたであろう力を必要としていたのです。同じように傷ついた「内なる子供」の回復はわたしたちが自分自身の力でやり遂げなければならない過程なのです。他の人が代わってやろうとしたり、わたしたちのために答えを見つけようとすることは、それがどんなものであっても、わたしたちが健康に機能するのに必要な、情緒的な力を獲得する可能性を弱めるものとなるでしょう。

5)「カミング・アウト」

 傷ついた内なる自分が抱えている心の問題の中心には、人への恐れ、自分が無力であると感じること、そして孤立感(自分のことは誰も助けてくれはしないという信念)があります。強い恥の感情(自分の内面は醜いので誰にも知らせてはならない、もし自分を知られたらみんな自分から離れてしまうだろう)といった根強い信念が横たわっています。これらに代えて、恐れなくていい人たちがいること、力を貸してくれる人がいることを知らなければなりません。また自分には力があると信じられるようになることができなければなりません。そして他の人との交わりを通して、人を信じ安心して自分をまかせたり、まかされることができることを理解し、時間をかけてそれに慣れていくことも大切です。そのように自分が問題を抱えていることをふさわしい他人に語ることは回復の第一歩になります。この段階を「カミングアウト」(誰か他の人に正直に問題を認める段階)といいます。

6)安全な場の発見と確保

 わたしたちが自分に向き合い、自分を正直に認め、カミングアウトし、さらに次の段階になる中心的な課題の取り組み(棚卸し)やグリーフ・ワークに進んで行くには安全な場所が必要です。これらの過程は多大なエネルギーを要求するので、自分か安全でいられる空間や、時間、支えを必要とします。本当に安全が確保されていない時や状況では、回復の過程に入ることを勧められません。しかし、もしあなたが引き込もりの状態になっていたり、すでに病気の治療を受けるようになっていたりしているなら、あなたはある種の安全を得ているのかも知れません。安全な場所をどうして見つけますか。

@グループ・ワーク
 インナーチャイルド・プログラムのようなグループ・ワークに参加することによって、同じ立場に置かれている人々との交流が得られます。このような集まりで、初めて「自分を安全に語ることができた」と語る人も多いのです。グループ・ワークでは、共依存的な自己にはどんな共通の特徴があるのか、自分の性格の弱点は何か、それらをどう克服できるかなど学びます。そして他の人と話し合い共に学んだことを実践することなどが含まれています。こうした集まりは、苦しい思いをして生きてきた多くの仲間を発見し、まるで自分そっくりの考え方をしてきた人に会うことでしょう。このようなグループの中で初めて、今まで自分にずっとつきまとってきた孤立感が和らぐことを感じるでしょう。また、すでに回復の過程にある人の経験を聞くことによって、自分も回復できるのだと信じることが出来るでしょう。

A身近に仲間を作る
 自分についての知識を得ると、自分の周囲にも、同じ問題を抱えている人々が多いことに気付きます。彼らとの交流を通して、助け合い、気遣いあう仲間を自分の周りに持つことができるかもしれません。彼らは、苦しい時に話を聞いてくれたり、電話に応じてくれます。彼らも安全な場を提供してくれる人たちです。グループと接触する機会がなければ同じような境遇にある方たちが小さな集まりを作ることもできるでしょう。わたしたちは概して自分の本心を明かすことが苦手です。それで仲間の中で自分が批判されたり、従属させられたりせずに他の人を信頼すると同時に自分をあるがままで受け入れてもらえる仲間を持つことは貴重な体験になるのです。

 ほとんどの文化は誰か他の人に自分の心情を吐露することの益を認めています。例えば、同様の状況に置かれた人同士で考えや体験を共有するのは益となることがあります。研究者たちは、感情面での孤立は病のもとである。正気でいるには胸のうちを明かさなければならない」という結論に達しています。霊感による次の箴言の正しさを裏づける科学的な研究は、ますます増えています。

 「自分を孤立させる者は利己的な願望を追い求める。その者はあらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」−箴言18:1。

Bハンモックにたとえられる支援システム
 傷ついた「内なる子供」は完全に頼れる人、依存できる人を持ちたいという激しい欲求を心に秘めています。またそうした人を独占したがるのです。しかし、それでは、依存された相手を疲れさせ、やがてその人を遠ざけてしまうか、共依存者に仕立て上げてしまうことになるでしょう。そしてそうなると、自分の回復も止まります。

 それで自分の安全な場を構成する、支援システムを作るようにしましょう。あなたのかかっている医師やカウンセラー、地域で相談にのって下さる年長者たちや、心優しい仲間の方たち、グループワークで知り合った仲間たちや、あなたが知識を分かち合った人々があなたの支援システムの一部になってくれるでしょう。そして今のところ、とても信頼できないと考えている、あなたの親でさえ実際の所、ある分野ではあなたを支えてくれる人たちであることが分かります。こうした人々の集まりは全体として、ハンモックに例えることができます。ハンモックはたくさんのひもと結び目からなっています。一本のひもだけに頼ろうとすると切れてしまいます。ハンモック全体に体重をかける時それぞれのひもはあなたを支えます。

C「エンパワメント」ということ
 傷ついた内なる子供が回復していくためには、自分の力を自覚することが大切です。このパワー(力)は自分の短所も長所も正直に認めて、それを肯定する力のことです。自分の持っている長所を伸ばし、短所を捨てていくパワーが自分にあることを自覚しましょう。また、色々な出来事において、人のせいにせず、自分が選択する力を持っていることを知ることです。このように本人が自分の力を信じることが出来るように助けることを「エンパワメント」と呼んでいます。

 援助する人もこのことをしっかりと知っていなければなりません。自分を頼ってくる人に代わって物事を決定したり、その人が感じるべきことやその人が取るべき責任を代わって負ってはなりません。それは一時的には頼ってくる人をホッとさせるかもしれませんが、真の「エンパワメント」になりません。結局その人の力を奪い、自立を妨げてしまうことなのです。

 また、傷ついた「内なる子供」の欠点ばかりに目を留めてしまう援助者や治療者はわたしたちをおびえさせ、その回復を結局は妨げてしまうことにしかなりません。欠点ばかり指摘されていると、自尊心が奪われ、挑戦に立ち向かう力がはぎ取られてしまうのです。傷ついた「内なる子供」はまるで援助者の忍耐力を試すように、同じ失敗を繰り返してきます。それで失敗をとがめるより、少しでも進歩した点に目を留めて、また立ち上がるように力づけることをすれば、彼らの中に自分の失敗を受け入れること、自分を許すこと、自分が自分を励ますことを教えることができるのです。

 歩くことを学んでいる子どもを見守る母親は、手を出さず、助けを求めて泣く声に容易には動揺せず、一歩、一歩、歩けたことに心からの賞賛を送ります。傷ついた「内なる子供」は自分をそのように見守ってくれる信頼できる人たちの、その瞳に映る自分の姿を見て、自分を励ます勇気を見いだすのです。彼らの苦しさに同情するのは良いことですが、助けて上げようとあわてて手を出し続けると、本人をいつまでも、母親に依存した子どもの様にしてしまいます。回復するのはあくまでも本人です。愛情を持って見守り、必要な時だけ手を貸す、そんな勇気が求められるのです。

 ですから傷ついた「内なる子供」の援助者は見守るための時間と心のゆとりが絶対に必要です。援助する人は援助する自分自身を見守ってくれる人を持つことが必要です。そうでないといつの間にか自分が彼らと共依存の関係に入ってしまう可能性があるからです。わたしたちも、このことを考えて誰かの援助を受ける時、その人があなたの成長を見守ってくれる人か、あなたをコントロール(支配)しようとする人かを見分ける必要があります。一見、親切に見えて、ただ自分に依存させようとする人たちからは注意深く距離を取るようにしましょう。

7)グリーフ・ワーク(トラウマを思い出す・喪の作業)

 安全な場所の確保ができると、回復の作業の中核である「喪の作業」に入ります。治療者との間で行ったり、グループで行ったりします。失ったものを嘆く時間や過程は絶対に必要です。この時に表れる悲しみや怒りを、周囲の人々は、「大したことはない」とか、「過去にこだわるべきではない」と語って、押さえるべきではありません。その時間を持てなかったことが問題だったのですから。しかし、あまりに感情が激しい時には、ゆっくり時間をかけるように助けてあげたり、医師の助けを借りて、薬を処方してもらって、それを一時的に緩和することはできるでしょう。

@グリーフワーク(治療者と共に)

家族の写真
 本人の選んだ数枚の写真が過去へとその人を引き戻すことがあります。
情緒の押さえられた回想
 淡々と語られる回想を余り急がせては行けません。その人は危険を感じているからなのです。その人の回復のテンポと話題についていくようにするといいでしょう。

手紙に書かれた回想
 手紙に書かれた回想は、きちんと読んで受け止めたことを示してあげる必要があります。早まって、間違った感想を述べると「分かってもらえていない」という幻滅を与えてしまいます。身近な存在に対しては愛と憎しみが混じり合っていることも多いのです。ですから、親への忠節心が妨げとなって、十分に自分の受けてきた傷を認めたり、怒りを表すことができない時もあるので、「怒りの手紙」だけでなく「感謝の手紙」「今の自分の気持ち」の三通の手紙を書くように勧めることが助けになることがあります。

ジェノグラム
 ジェノグラムというのは家系図ですが、自分の直系だけでなく父母の兄弟やその子供たちの関係を含めて広く作っていきます。そして誰と誰が仲が悪いなど人間関係も細かく調べていきます。この過程を通して自分の親に、親と深い関係のあった人々との関係を尋ねたりします。それを通して、自分の家族のそれぞれが抱えてきた問題や、依存・共依存関係が分析でき自分を見つめる助けになります。

Aグリーフワーク(サバイバルグループの中で)
 治療者と共に行う他に、上記のような方法を使って同じ経験をしたサバイバル・グループ仲間の中で行うことができます。こうしたグループの中での方が、否認の殻は早く破れやすく、また安全です。

Bグリーフワークの各過程

第一相
 警戒と否認が目立っており、感情が表れることは少なく、涙や怒りは少なくて、淡々と語られることが多いです。

第二相
 「喪失とトラウマ」が表面に出て、これに伴って、身体的な痛みや、不調感、無力感などが表れます。喪失したものについて考え込み、それについて話したがります。自分を傷つけた人に怒りを表したり、「何をしていいか分からない」「何もする気になれない」と感じたりします。泣いたり、怒ったりが頻繁で、感情が激しく、精神病になったのではないかと心配したりします。

 この段階の後半では、喪失したことの細かい点や価値が描写され、同時に幼児期への退行が多かれ少なかれ見られます。これが無力感と抑うつを強めることがありますし、逆にその人を解放と希望に向かわせるきっかけになります。この時期、治療者の役割が大切で、周囲の人たちは本人の回復の可能性を信じて、回復を推進する際の手がかりとなる、パワーポイントを探り当て、そこに焦点を当て、エンパワーしていきます。

 この段階が終わりに近づく時、苦痛と悲嘆が軽くなって、喪失の意味を考えたり、その事実を受け入れて人生をやり直すことを考えるようになります。

第三相
 この段階で「喪失と嘆き」の統合が行われます。グリーフワークがうまくいけば、トラウマ体験を受け入れた上で、身体的にも心理的にも安定していきます。泣いたり怒ったりする回数は減っていき、程度も軽くなっていきます。自分の成長に気がつくようになり、自尊心が増してそれが態度や風貌に表れてきます。人生を楽しむ能力が増して、生活も多様で豊かになります。過去のトラウマを、自らへのいたわりと共に自由に回想できるようになり、新しいアイデンティティー(自分らしさ)にたどり着きます。

 第三相がうまくいかないと、グリーフワークで生じた抑うつが長引いて、身体的苦痛や心理的苦悩がその人の身に付いてしまったように見えるでしょう。その人の自尊心はさらに低下し、新しい別離や喪失トラウマに巻き込まれる可能性があります。

 この段階を長引かせる要因に、治療者との感情的なこじれがあります。気付かないうちに、過去の様々な人間関係で経験した様々の感情を、治療者に転移してきます。ささいなことに腹立ったり、わざと治療者から距離を取ろうとしたり、普通以上の親密さを求めたりしてきます。治療者は多くの転移をそれと認めて冷静に受け止めることができるでしよう。しかし、「あなたもいつか、わたしを見捨てるのでしょう」といったクライエントが投げかけるゲームに治療者が気付かないで巻き込まれてしまうと、新しいトラウマを治療者が作ってしまうことになります。

 「わたしは何が期待されているのですか」「わたしは治療者で、あなたを導く仕事をあなたから委ねられているのではありませんか」「たとえ治療が終わっても、一緒に戦いを戦い抜いた一生の友人でいることはできるのではありませんか」というように、依存−共依存関係を柔らかくはがしながらも、いつでも支えになるという安心感を与えていく努力が治療者に求められます。落ち着いて対処していけばグリーフワークを長引かせてしまうことはないでしょう。

8)「インナーチャイルド」との出会い(怒りと悲しみを受け止める)

 グリーフ・ワークをしていると、不意に小さいときの自分にイメージとして出会うことがあります。「インナーチャイルド」は超自然の現象ではなくて、無意識のうちに否認され無視し続けられてきた「内なる子供」の記憶の一部です。ノーマルな人は「内なる子供」が意識せずに自由に生きているので、「インナーチャイルド」として意識されることはまずありません。それでも祈りや黙想の時間などに、自分を取り巻くしがらみから解き放されると、力強く素直な考えや感情があふれる経験をすることがあります。こんな時にはきっと、「内なる子供」が素直に表現されているのでしょう。聖書も自分の中のもう一人の自分を子供のように扱っている場面を次のように、優しく描写しています。 「まさに母に抱かれた乳離れしたばかりの幼児のように、わたしは自分の魂をなだめ、静めました。わたしの魂は、わたしに抱かれた乳離れしたばかりの幼児のようです」。詩編131:2,3

 あなたの出会った「インナーチャイルド」は全く口をきかなかったり、後ろ向きでうつむいていたり、凶暴であったり、泣きわめいたり、甘えたりすることがあります。それだけ、あなたは子供時代にもっと暖かい世話を必要としていたのでしょう。長い間無視されてきたことへの怒りや、満たされてこなかったことへの悲しみや欲求が吹き出してくるのでしょう。わたしたちは、これに困惑して無視したり、叱りつけ、また沈黙の世界へと追いやることをしてはなりません。泣いていれば「悲しいんだね」と声をかけ、怒っていれば「怒りたいんだね」と声をかけると良いでしょう。甘えていれば「甘えていいんだよ」と語ってやります。子供はそのように扱ってあげればいいのです。しばらくするうちに、強い要求はおさまります。

 しかし、いつまでも「インナーチャイルド」の言いなりになるのは、健全な回復を助けることではありません。わたしたちは自分と、自分の魂である「インナーチャイルド」と共に真の父のもとに還ることが必要なのです。そして愛ある世話や正しい意味でのしつけ(精神の規整)を受けることが必要です。もちろんニコニコしている「インナーチャイルド」に出会うこともあります。本当の自分はこんなに明るかったんだと驚くこともあるのです。

9)「インナーペアレント」との別れ(今の自分を受け入れる)

 傷ついた「内なる子供」は日本では仕事依存で家族に対しては責任を果たさない機能減少の父親と、家族の世話を一身に背負って機能過剰になってしまう母親によって作られることが多いと言われています。クリスチャン家庭の中にも、子供にほとんど関心を払わない(?)未信者の父親と、自分と子供たちの信仰を守ろうと必死になって機能過剰になっている信者の母親のケースは多く見られます。こうした親の姿は、子供の心の中にしっかり住み着いて、あなたのものの見方や感じ方を縛ります。

 「インナーペアレント」というのは大人になって、時に家を離れた後でも、なお自分にしっかり住み着いて、あなたを縛ろうとしている自分の心の中の親のことです。「ひとに負けてはいけない」「いつもよい子でなければいけない」「誰にでも好かれるようでなければいけない」「一流の大学を出なければ価値はない」等々。こうした価値観は親元を離れてもあなたを縛り続けます。

 子供の時に、「わたしは絶対に親のようにはならない」と決意していたのに、結婚して子供ができると、いつの間にか親と同じように自分の子供に接している姿を発見することがあります。これは「インナーペアレント」の働きです。もし、それが自分と家族を傷つけているのであれば、この心の中の親と自分との間にしっかりとした線を引いて整理し、親の人生観と自分の人生観の間にくさびを打ち込むことが大切です。これは実の親を捨てることでも、親を憎むことでもありません。

 機能的な家族に招かれたり、外国でホームステイをする時などに、親と子供が自由に意見を交わしたりしていたり、わいわい食事をしているのを見ると、「こんな家もあるんだ!」とびっくりすることがあります。まずそのびっくりが大切です。「自分の知っていた家とは違う生き方がある」という基本的な認識ができると、親との間に少し距離が取れます。もちろん、親への怒りや、のびのびとした家庭を得られなかったことへの悲しみや不安などが吹き出しますが、そういう自分を非難せず、むしろ「良いこと」であると考えて支えてあげることが大切です。この「感情の放出」は自然であり大切なことなのです。

 治療者やグループの中で親についての「ストーリー」を話していきます。自分の親のイメージや、親との関係の「ストーリー」です。何度も繰り返して話していくうちに、親の前ではとても表せなかった感情を表現することが出来ます。これを批判されずに受け止めてもらっていくことが出来ると、「怪物のように巨大だった親」は段々小さくなっていくものです。初めの「ストーリー」では親が主役ですが、徐々に自分が主役になっていって親は脇役になっていきます。自分のなかに棲みついた「インナーペアレント」に支配され、親の人生の共演者になっていた人が、「自分の人生の主人公」になるのです。

 実際の親とは和解できない場合が少なくありません。実際に虐待してくる親を許すことは難しいでしょう。それがふさわしければ、憎んでもいいし、闘ってもいいのです。折り合いをつけてもいいし、追い出してもいいのです。自分が「自分の人生の主人公」になるには親を自分のストーリーの単なる一登場人物として整理していければいいのです。安全な場所で語り続けるうちにストーリーは必ず変わってくるものです。

 他にもロールプレイを用いてのサイコドラマも役立ちます。自分の気持ちを親の役割をしてくれる人に表現したり、相手役になる方に自分が期待している親の役割を与えることを通して感情的に区切りをつけて「インナーペアレント」との別れをする事ができます。

10)人間関係の再構築

 この過程では、自己を守り、自己を傷つける相手と戦うことを学習し、トラウマに再び出会うことを防ぐ技術を身につけます。自分の限界をわきまえた上で、自己に備わった力を自覚し、それを着実に伸ばすようにしていきます。もちろん、この過程が平坦であるとは限りませんが、身に付いてしまった「偽りの自己」から離れたさわやかな生き方の体験は傷ついた「内なる子供」がもはや他の人に対して強い鐙(よろい)に頼らずに生きても良いことを教えてくれるのです。それは確かに「楽」な生き方になるでしょう。「気楽に生きよう」は回復していく人々の合い言葉です。

 この生き方から戻っていかないためには「アサーティブネス」(正しい自己主張のあり方)を学んだり、コミュニケーションの技術の学習が役に立つでしよう。これらを通して学べることには、次のことがあるでしょう。

 @自分を襲うものを見分けて戦い、自分を守ること
 A戦ったり逃げる必要のない人を見分けて、共に過ごせるようになること
 B最も重要なこととして、忌み嫌ってきた自分自身を暖かく受け入れること

11)回復の目標

 何をもって回復というかは難しいのですが、斎藤は回復した人たちの持つ特色を次のように示しています。


@ひとりで居られる。ひとりを楽しめる。
Aさびしさに耐えられる。
B親のことで過剰なエネルギーを使わない(憎んだり、依存したりしない)。
C自分にやさしい(あるがままの自分を受け入れている)。
D他人(世間)の期待に操られない、他人の評価にとらわれない。
E自分で選択し、決定できる。
F自分で選択したことに責任を取り、他人のせいにしない。


12)回復はらせん状に登っていく

 回復は殆どの人にとって、順調に一直線に進むものではありません。ずいぶ ん良くなったと思った後から、深いうつがおとずれることもあります。むしろこの揺り返しは必ずあるものだと、最初から理解しておく方が益になります。忘れていた、つらい過去が新しく思い出されてきたり、あなたの回復を、家族や会衆の人々が受け入れてくれず、止めさせようとする事もあるでしょう。人間関係で今まであなたを支配していた人たちがあなたの大胆な態度に反発して、嫌ったりすることもあるでしょう。しかし、あきらめなければ確実にすこしずつ成長は続きます。回復への成長はらせん状に上昇することを知ってください。途中で右や左に振れることはあっても、必ず昇って行くことが出来るのです。

5.中心となる課題に取り組む

1)わたしたちは独りで取りくむのではない

 わたしたちは意識していようと、意識できないものであろうと、解決しなければならない課題を幾つか抱えています。そうした課題に一つ一つ立ち向かっていかなければなりません。膨大な仕事を前にして気が滅入ってしまうかも知れません。しかしあなたは自分一人でそうするのではありません。実際もし、わたしたちが独りきりで暮らしていて、目が見えなかったとしたら、自分の家を自分自身ですっかりきれいにするのは難しいことでしょう。わたしたちは、誰か目の見える友達に、「助けてくれるように」頼むでしょう。その友達は、わたしたちが見落としていた、掃除の必要な部分に気づいて問題となるところを指摘してくれ、さらにうれしいことに掃除も手伝ってくれるのです。

 今わたしたちは、自分の人生において注意を向けるべき未解決の課題があることを理解しています。否認のために、わたしたちは、自分の中の隅の方に追いやっていた汚いものに対してずっと目をつぶってきました。また低い自尊心のためにわたしたちは、自分の人生の価値や美しさについてずっと知らずにきました。わたしたちの創造者エホバはちょうど気遣いを示す友達のようにわたしたちのところにやって来て、わたしたちの生き方の中で変化の必要な「弱さ」の部分に対してわたしたちの目を開き、そして、わたしたちの「強さ」をさらに築き上げていくよう助けて下さるのです。

 わたしたちはこうした助けを得て、自分のいわば「影」のように、わたしたちが長いあいだ隠してきた、自分で認識しにくい抑圧された性質とも連絡をとることが出来るようになります。自分の中心的課題の棚卸し表を作る過程の中で、わたしたちは自分の行動についての正しい理解を育て、また広げていきます。わたしたちの「影」の部分は、恨みや恐れまた他の抑圧された感情を隠しています。

自分自身を見つめるようになるにつれ、わたしたちは自分の人格全体を良いところも悪いところも受け入れることを学びます。こうして、傷ついた「内なる子供」が持ってきた「生き残りのための行動」を見つけ出すことができるようになります。幼い頃のかき乱された環境の中では、そうした行動がわたしたちを守ってくれましたが、大人になってもこれを続けることは、今や、わたしたちに有害な影響を及ぼしてしまうのです。

2)否認の傾向と取り組む

 

否認は、わたしたちがコントロールすることのできなかった子供時代から始まりました。これは、わたしたちの周りにいた大人たちの暴力、混乱、不安定さに対処するための、わたしたちの方法だったのです。わたしたちは起きてい る事柄に勝手な口実をつけ、彼らの受け入れ難い行動を受け入れる理由を考え出しました。これを行なうことによって、わたしたちは混乱した状態を無視し、圧倒されるような問題を否定しました。成人してもなお、否認はわたしたちを現実に直面する必要性から逃れさせ続け、わたしたちが妄想と空想の中に逃避するのを助けています。

 否認は、子供としての自分を守るためにわたしたちが用いたたくさんの方法の中の一つです。それには多くの面が含まれており、容易に隠すことができます。それは様々な仕方で表われ作用します。その見分けられる形として次のようなものがあります。

@単純な否認:ある物事が本当はあるのに無い振りをすること
(例:問題があることを示しているかもしれない身体症状を、これは関係ないと軽く見る)

A矮小化:問題は認めるが、その重大さについて見ることを拒むこと
(例:実際には明らかに嗜癖があるのに、処方箋の薬物を多めに飲んでいるだけだと言う)

B非難:問題を認め、それからその原因として誰か他の人を非難すること
(例:あなたの孤立する傾向について、他の人のせいにする)

C弁解:自分や他人の振る舞いについて弁解したり、アリバイを言い立てたり、正当化したり、その他の説明をつけて言い訳すること
(例:パートナーが行けないことの本当の原因は酔っ払っているからなのに、病気だからと電話する)

D一般化:問題を一般的に扱い、概して、状況について個人的にまた情緒的に見ることを避けること
(例:根本の原因はその無責任さであることを知っているのに、友達の失業にだけ触れて同情する)

Eごまかし:脅威を感じるような話題を避けるために主題を変えること
(例:配偶者が借金について話し合おうとすると、天気について話す)

F攻撃:今現在の状況に話が及んだときに怒り、いらいらし、そうすることによって問題を避けること
(例:上司が遅刻について注意すると、仕事の条件に関して逆に議論しかける)

 中核となる問題に取り組んで個人的な棚卸しをすることは、クローゼットを掃除するのと似ています。わたしたちは、自分が何を持っているのか在庫を調べ、何をとっておくか吟味し、もはや不要になったものを捨てます。一度につき小さな部分ずつ行ない、長い時間をかけて行っていけば結果は一層良いものになります。衣服が過去の記憶を呼び起こすきっかけになることがあるのと同じように、わたしたちの棚卸しも、プラスとマイナス両方の記憶を呼び起こすかもしれません。過去について熟考することは、わたしたちの現在の行動パターンを理解する点で助けとなるでしょう。わたしたちの主要な関心は、過去にこだわることではなく、わたしたちの現在と将来に関してなのです。

 自分が育てられた方法について次第に気づくようになるなら、わたしたちの現在の行動は、コントロールできない環境の中で生きて来なければならなかった結果であるということを理解できるようになるでしょう。成人した大人として、わたしたちは今、自分自身のために異なるライフスタイルを選ぶことができます。わたしたちは、自分を養い育てるような方法で、自分自身を導いていくことを学ぶことができます。

 中心的な課題に取り組むとき、わたしたちは正直に自分を見つめる作業のた めに、一時的に自分がみじめで無価値なものと感じてしまうことがあるでしょう。しかし、否認の殻をうち破って正直に自分を見つめる勇気は称賛に値します。課題を急いですべてを終わらせようとしてはいけません。試験勉強のように終わらせることに価値を置いて、後でみな忘れてしまうようなことをしてはなりません。それは誰かを周囲の人を喜ばせたり、感銘を与えるためでなく、あなたとあなたの創造者を喜ばせるものであるべきでしょう。ゆっくり取り組み、徹底的に一つ一つ自分を見直していきましょう。

 つらくなったら、一時的に休憩することは良いことです。休憩することと、否認しその作業から離れてしまうことには大きな違いがあるからです。

 例を参考にしながら、ノートに書き出してゆきましょう。あまりにも多くあるので、一つを終わらせるのに時間がかかるようであれば、今一番自分の問題となっているものだけを取り上げ、次の課題に進み、後でもう一度戻ってもかまいません。これはあなたが鏡を見ながら自分の姿や形を整えることに似ています。最初はおおざっぱに、後で細かいところに取り組んでも良いでしょう。

 課題の後半には回復したときの感覚や行動の変化が描かれています。あなたの到達したところをまたノートに書き出してみましょう。少しの変化でも大きな進歩です。どうぞ、存分に自分を誉めてやりましょう。

6.取り組むべき中心課題の棚卸しと回復

1)恨み

 恨みは、様々な形であらわれる霊的な病気の原因となります。わたしたちの精神的、身体的な病は、この不健全な感情の直接の結果である場合がしばしばです。確かに他の人はわたしたちを傷つけてきましたし、わたしたちには恨みを感じる正当な権利があります。しかし、恨みという感情によって害を受けるのは、他の人ではなく、わたしたち自身なのです。恨みを持ちながら同時に癒しを経験することはできません。悪いことを行なった人を許す力を神に求めることによって、自由になるのが最善の道です。恨みの健康的な取り扱い方を学ぶことは、回復の過程の重要な要素です。

恨みを持っていると、わたしたちは次のようであるかもしれません
・傷つけられたように感じる
・侵害されたように感じる
・無視されたように感じる
・仕返しする
・自己個値の低さを経験する
・怒る、あるいはつらく当たる
例:わたしは上司を恨んでいる。なぜなら、彼はわたしがどうして落ち込んでいるか聞いてくれようとしないからである。この事はわたしの自己評価に影響を与えている。この事は表すことのできない怒りをかきたてる。この事はわたしをさらに落ち込んだ気分にさせる。

 回復すると、わたしたちは、自分をふさわしく扱ってくれなかった人に関して、彼らもまた霊的な病気だったのだということを理解しめるとき、恨みから解放を経験します。わたしたちは、神がわたしたちに示して下さった寛容さと許しを、彼らに向けて広げます。自分の課題の棚卸しに注意を集中するとき、わたしたちは、他の人の過ちを自分の思いから締め出し、他の人の失敗ではなく、自分の失敗に焦点を合わせます。

恨みから回復するにつれて、わたしたちは次のようになりはじめます
・他の人に対し寛容な気持ちになる
・自分の棚卸しに焦点を合わせる
・仕返しする必要から解放される
・自分を傷つけた人を許す
・ある場合には非難を受け入れる
・他の人に対して同情を覚える

2)恐れ

恐れは、霊的な病気の根底にある原因です。それは、わたしたちがある状況をコントロールできないときに最初に感じる反応です。かなりの範囲の精神的また身体的な病は、この不健全な感情の直接の結果であることがしばしばです。恐れはしばしば、問題を効果的に解決する方法を阻みます。恐れを健全な仕方で認識することを学ぶのは、回復の過程の重要な要素です。

恐れを持っていると、わたしたちは次のようであるかもしれません
・脅かされるように感じる
・生き残るために闘う
・変化に抵抗する
・死ぬべき運命に直面する
・拒絶を経験する
・失敗を予期している
例:わたしは配偶者を恐れている。なぜなら、わたしがどうしても彼/彼女を喜ばせることができないように感じるからである。この事はわたしの低い自己評価と性(セクシャリティー)に影響を与えている。この事はわたしの見捨てられ不安をかきたてる。この事はわたしに怒りや自分には価値がないという気持ちを持たせる。

 神に対する信仰が育っていくにつれ、わたしたちにとって、恐れという問題は小さくなっていきます。わたしたちは、自分の恐れを一つずつリストに挙げ、なぜそれらがわたしたちに対して力を持つのかを考えます。とりわけわたしたちは、自分だけしか頼れないというわたしたちの間違った態度のゆえに大きくなってしまった恐れに注目します。わたしたちができなかったところは、神が扱って下さるのです。わたしたちの信仰は、自分だけを信頼する必要を手放すことや、それに伴う恐れから解き放たれるよう、わたしたちに力を与えてくれます

恐れから回復するにつれて、わたしたちは次のようになり始めます
・脅かされるように感じることが少なくなる
・変化を喜んで受け入れる
・神に頼る
・自分の恐れと正直に向き合う
・喜びをさらに感じる
・さらに祈る

3)抑圧された、あるいは不適切に表現された怒り

 怒りは、わたしたちの人生での多くの問題の主要な源泉です。それは、認めると自分が不安に感じるので、わたしたちがしばしば押し隠す感情です。混沌とした家庭の中では、混乱があまりにも激しかったため、わたしたちは怒りを否認するか、または不適切に表現しました。わたしたちは自分自身を守り、ただ自分の感情がどこかへ押しやられているほうが安全だと感じました。抑圧された怒りは、重大な恨みや抑うつにつながりかねないことに、わたしたちは気づいていませんでした。それはストレスに関係のある病気に発展しかねない身体的な症状を引き起こすのです。怒りを否認したり、不適切な方法で表現したりすることは、人間関係においてしばしば問題を引き起こします。なぜなら、わたしたちは自分の感情に正直であることができず、いつも欲求不満を感じてしまうからです。

怒りを抑圧したり、不適切な方法で表現すると、次のような感情を経験するかもしれません
・恨み
・抑うつ
・不安
・自己憐憫
・ねたみ
・ストレス
例:わたしは、息子に対して怒りを不適切に表現している。なぜなら、彼の行動によって恥ずかしい思いをさせられているからだ。この事はわたしの自己評価に影響を与えている。この事はわたしの拒絶に対する恐れをかきたてる。この事はわたしに親としての資格がないと感じさせる。

 怒りの適切の表現方法を学ぶことは、わたしたちの回復における大きな段階の一つです。それは、多くの隠された感情を解放し、癒しが行われる道を開きます。怒りを表現することは、わたしたちの限界を他の人に気づかせ、自分に対して正直であるようわたしたちを助けてくれます。怒りをより適切なやり方で表現するようになるにつれて、わたしたちは、自分の敵がい心や他の人の怒りに対して、それまでより上手に付き合えるようになります。自分自身を表現することで気持ち良さを味わい始めるにつれて、わたしたちの人間関係は改善されていきます。ストレスに起因する問題は減少していき、体が健康になったようにさえ感じます。

抑圧されたあるいは不適切に表現された怒りから回復するにつれて次のようになり始めます
・怒りを適切な仕方で表現する
・自分自身に限界をおく
・傷ついた感情を見定める
・内的な平和を楽しむ
・道理にかなった要求をする
・ストレスと不安を減らす

4)承認を求めようとすること

 わたしたちの多くは、承認されなかったり、批評されたりすることを恐れます。わたしたちは、積極的な方法で承認を求めるというよりも、むしろ自分の不安をなだめるために、また人に自分を気に入ってもらうために、強迫的に保証を求めます。この事は、わたしたちが自分の感情や欲求に接触しないようにしてしまい、自分の欲するものや必要とするものに気づくのを妨げます。わたしたちはすべての人を楽しませようと努力し続け、自分自身にとって害となる関係から自由になれません。

他の人からの承認を必要とするとき、次のようであるかもしれません
・人の機嫌をとる
・批評を恐れる
・自分白身の必要や欲求を無視する
・失敗を恐れる
・自分を無価値に感じる
・自信を失う
例:わたしはわたしの友達からの承認を求めている。なぜなら、自分のことをより良く感じられるからだ。この事はわたしと友達との関係に影響を与えている。この事はわたしの拒絶に対する恐れをかきたてる。この事はわたしに自分は誰にとっても大切ではないような気持ちにならせる。

 自分自身の承認と、エホバの承認に頼り始めるとき、承認を求めること自体はOKなのだということが分かります。そしてわたしたちは、他の人を操ることなしに承認を求める仕方を身につけます。他の人たちの褒め言葉を受け入れて、率直に「ありがとう」と言えるようになります。そう言うのが心地よいときに「イエス」と言います。「ノー」というのがふさわしい時には、進んで「ノー」と言います。

適当でない承認の求め方から回復するにつれ次のようになっていきます
・自分の必要を認める
・自分自身に対して忠実になる
・自分がどう感じているかについて本当のことを言う
・自分の自信を築く

5)世話を焼くこと

 子供のとき、しばしば自分が到底取り扱えない他人の関心や問題に責任を取ることも当然のことと思っていました。その結果、わたしたちは普通の子供時代を過ごすことができませんでした。わたしたちに課せられた非現実的な要求と、わたしたちが「小さな大人」であることから受け取った賞賛とは、自分は何でもできるのだとわたしたちに信じ込ませました。他人の世語焼きをすることはわたしたちの自己評価を押し上げて、自分はなくてはならないものだと感じさせました。それはわたしたちの人生に目標を与えました。世話焼きとしてわたしたちは、他の人から自分が必要だと保証されるような状況にあるとき、最も快く感じます。わたしたちは、他の人たちは受けるだけで与えてくれないとよく恨みますが、実際に他の人たちがわたしたちを世話をしてくれようとすると落ち着きません。わたしたちは自分自身の世話をする喜びをも経験していません。

世話焼きとしてわたしたちは次のようであるかもしれません
・共依存になる
・人々を救う
・自分のアイデンティティーを失う
・非常に責任を感じる
・自分自身の必要を無視する
・なくてはならない気持ちになる
例:わたしは付き合っている人の金銭的な問題に世話を焼いている。彼にもっと愛されたいからだ。このために自分の手持ちの資金は影響を受けている。これはわたしの恨みの原因になっておりわたしを非常に孤独な気持ちにさせる。

 回復と共に、わたしたちが他人の世話焼きをする人の役割から降りるにつれて、すべての人またすべての事に対して責任を感じることが減っていき、一人一人が自分の道を見つけるに任せるようになります。わたしたちは他の人を、彼らの導きや愛また支援の最良の源であるエホバの配慮にゆだねます。すべての人の必要に応えるという荷を下ろすことによって、わたしたちは自分自身の人間性を発展させる時間を見つけます。他の人の世話をすることに対しての強迫観念は、究極的にわたしたちは他の人の生き方に関して全く力がないのだ、という事実に置き換えられます。わたしたちは、人生で一番責任を取らなければならないのは、自分の福利と幸福であることに気づきます。わたしたちは他の人たちを、神の配慮に引き渡します。

他の人の世話を焼く人であることを止めるにつれて、次のようになっていきます
・他の人を救うのを止める
・自分自身のアイデンティティーを発展させる
・自分自身を配慮し世話する
・依存的な人間関係を認識する

6)コントロール

 子供のころ、わたしたちは自分の環境や起こってくる出来事を、ほとんどあるいは全くコントロールできませんでした。成人した大人として、わたしたちは自分の感情や行動をコントロールすることを異常なほどに必要とし、他の人の感情や行動をコントロールしようとします。わたしたちはかたくなになり、生活の中であるがままでいたり、自然に振る舞えません。わたしたちは、他の人が自分たちを承認するように操縦し、コントロールのバランスを取って初めて安心できるのです。わたしたちは自分や他人を管理する立場を捨てると、自分の生き方がめちゃくちゃになってしまうのではないかと恐れます。自分の権威が脅かされたときにはストレスを感じ、不安になるのです。

コントロールに対するわたしたちの欲求は、次のようなことを生み出すかもしれません
・変化に対して過剰に反応する
・信頼を失う
・人を裁く傾向があり、かたくなである
・他の人を操縦する
・失敗を恐れる
・寛容でない
例:わたしはわたしの19歳になる、息子をコントロールしようとしている。なぜなら彼を失うことを恐れているからだ。この事は彼とのコミュニケーションに影響を及ぼしている。この事はわたしの見捨てられ不安をかきたてる。この事はわたしを非常におびえさせ、無力な気持ちにさせる。

 自分が人々や物事をコントロールしようとしてきた仕方に、わたしたちがもっとよく気がつくようになるにつれ、自分の努力は無益だったことが分かり始めます。わたしたちは、自分自身を除けば、誰もまた何もコントロールしていませんでした。自分の安全の源として神を受け入れ始める時、わたしたちは自分の必要を満たすための、さらに有効な方法を発見します。わたしたちが降伏して、自分の意志と命を神の配慮に委ね始める時、ストレスや不安を経験する度合いは小さくなっていくでしょう。結果にばかり気を取られることなしに、いろいろな活動に参加することが、前より良くできるようになります。コントロールに対する欲求や必要がまた起こっていることに気がついた時には、いつでも、平安の祈りを口に出してみることが役立ちます。29ページ参照

コントロールを捨てるようになるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます
・変化を受け入れる
・ストレスが減る
・自分を信じる
・楽しむ方法を見つける
・他の人に権限を与える
・他の人たちをそのままに受け入れる

7)見捨てられ不安

 見捨てられ不安は、わたしたちが幼児期に発達させてきた、ストレスに対する反応です。子供のころわたしたちは、無責任な大人たちの予測できない行動を観察してきました。両親がわたしたちのためにそこにいてくれるかどうかなどは、一日一日決して定かではありませんでした。わたしたちの多くは、身体的にまたは感情的に見捨てられました。親たちの嗜癖がどんどん激しくなるにつれて、彼らはますます親らしいことが出来なくなりました。子供として、わたしたちは重要な存在ではなかったのです。成人になってもわたしたちは、自分を捨てるのではないかと心配させるパートナーを選ぶ傾向があります。見捨てられる痛みを経験しないですむように、わたしたちはパートナーの必要や要求にすべて答えることによって、完璧であろうとします。見捨てられる可能性を減らすことのほうが、問題や葛藤を扱うことよりも先行してしまいます。この行動は、ほとんど交流のない緊張した人間関係を生み出します。

見捨てられ不安があると、次のようになっているかもしれません
・安全でなく感じる
・過度に心配する
・共依存になる
・世話焼きになる
・拒絶されるように感じる
・一人になることを避ける

例:わたしは夫から見捨てられることを恐れている。なぜなら彼はわたしにあまり注意を払ってくれないからだ。この事はわたしの思いの平安に影響を与えている。この事は彼に対するわたしの世話焼きとコントロールをかきたてる。この事はわたしをとてもおびえさせ、傷付きやすくさせる。

 わたしたちが、常にそこに存在している神の愛に、より多くを頼り任せることができるようになるにつれて、人生や未来に対するわたしたちの自信は増していきます。わたしたちの見捨てられ不安は減少していき、自分は生まれながらに価値のある人なのだという感情に置き換わっていきます。わたしたちは、自分自身を愛し、大事にしている人たちとの健全な人間関係を求めます。感情を表わすことを、もっと安全に感じるようになります。わたしたちは、以前持っていた他の人への依存を、神に対する信頼へと移行させます。わたしたちは、自分を取り巻く社会の中での、育み愛し合う友情関係を理解し受け入れるようになります。神がわたしたちの人生の中におられるなら一人ぼっちになってしまうことはもう絶対にないのだ、ということを実感し始めるにしたがっ て、わたしたちの自信は成長していきます。

見捨てられ不安が小さくなるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます
・自分の感情に正直になる
・人間関係において自分の必要を大事にする
・一人でいて快適に感じる
・世話焼きの特質が少なくなる

8)権威のある人たちを恐れること

 権威のある立場の人たちを恐れることは、親たちの非現実的な期待(わたしたちができる以上のことを求めたこと)の結果であるかもしれません。わたしたちは権威ある人たちを、その人たちがわたしたちに非現実的な期待を持っているかのように思ってしまい、それゆえに、彼らの期待に添えないのではないかと恐れてしまいます。他の人が単に何かを主張しただけなのに、わたしたちはしばしばそれを怒りと誤解してしまいます。この事で、おどされたように感じたり、過度に敏感になったりするかもしれません。自分がどのくらい有能であるかに関わりなく、わたしたちは自分と他の人とを比べ、自分は不十分で不適当であると結論するのです。結果として、わたしたちは、自分の能力を発揮できないでいるのです。

権威のある人たちを恐れることは、次のような問題を引き起こしているかもしれません
・自分を他の人と比べる
・不適当、または無能であると感じる
・行動するより反応する
・批判や拒絶を恐れる
・物事を個人的に受け取ってしまう
・ごまかすためごう慢に振る舞う
例:わたしは上司を恐れている。なぜなら、わたしが自分のことをどれほど無能だと感じているかを知られたくないからだ。この事は上司の近くにいるときのわたしの動作に影響を与えている。この事は孤立の欲求をかきたてる。わたしは目立たないようにしている。この事はわたしに自分が大人気ない、未熟者であるかのような気持ちにさせる。

 権威のある立場にいる人たちと一緒にいて、楽に感じるようになり始めるにつれて、わたしたちは焦点を自分白身に合わせ、わたしたちには恐れるものは何もないをことを発見するようになります。他の人たちもわたしたちと同じような人間であり、彼らなりの恐れや防御や不安感を持っているのだということが分かります。わたしたちが自分自身についてどう感じるかを、他の人の行動が左右することは、もはやありません。わたしたちは、他の人に合わせて行動するのではなく、(自分から)行動することを始めます。わたしたちは、究極的な権威は神であり、神が常にわたしたちと共にいて下さることを認識します。

権威のある人たちと一緒にいて快適であるようになってくるにつれて、わたしたちは次のようになっていきます
・高まった自己評価をもって行動する
・自分自身のために立ち上がる
・建設的な批判を受け入れる
・権威のある人たちと楽に交際できる

9)凍りついた感情

 わたしたちの多くにとって、自分の感情を表現することは困難であり、感情が凍っていることさえ気づいていません。わたしたちは、深い感情的な痛みや、罪悪感や恥といった感覚を心に隠しています。子供のとき、わたしたちの感情は、非難や怒りや拒絶に出会いました。生き残るための目的で、わたしたちは自分の感情を隠すか、完全に抑圧することを学びました。大人になったわたしたちは、今も自分の感情に接触を持っていません。わたしたちは「安全」な場所にとどまり続けるために、「持って良い」感情だけしか自分に許すことができません。そうすることによってわたしたちは実際に起きている現実から自分を守っているのです。歪んだ、抑圧された感情は、恨みや怒りや抑うつの原因となり、しばしば身体的な病気を引き起こします。

感情が凍りついていることは次のような問題を引き起こしているかもしれません
・自分の感情が分からない
・歪んだ感情を持っている
・人間関係で苦労する
・会話することを押さえてしまう
・抑うつになる
・病気になる
例:わたしは配偶者に対して感情を抑圧している。なぜなら、傷つけたくないからだ。この事はわたしの行動に影響を及ぼし配偶者とコミュニケーションするわたしの能力を制限している。この事はわたしの孤立する欲求をかきたて、わたしは鈍感で愛情がないと非難されるようになっている。この事はわたしを非常に孤立させ、孤独な気持ちにさせる。

 自分の感情に触れ、それを表現するようになるにつれて、奇妙な出来事が起こり始めるでしょう。自分自身を正直に表現することができるようになるにつれて、わたしたちのストレスの度合いは低くなり、わたしたちは自分自身を価値ある者とみなすようになり始めます。自分の本当の感情を表現することは、人と対話するための健全な方法であることが分かり、自分自身の必要や欲求が更に満たされてきていることに気づきます。わたしたちがしなければならないのは、ただ求めることだけなのです。感情を解放し始める時、わたしたちはいくらかの痛みを感じるでしょう。しかし、勇気が増すにつれ、痛みは消え去り、平和や平安という感覚が培われます。自分の感情を進んで解放しようという気持ちが強ければ強いほど、わたしたちの回復はさらに効果的なものになるでしよう。

自分の感情を経験し表現するようになるにつれて、わたしたちは次のようになっていきます
・自由に泣くことができる
・自分の真の自己を経験する
・より健康に感じる
・自分の必要を他の人たちに表現する

10)無責任

 子供の頃、生活があまりにも混沌としていたため、わたしたちは自分にとって実際に関係のあることなど何もないと感じていました。わたしたちの手本とすべき人々は、信用できず無責任だったため、わたしたちには、何が正常であるのか分かりませんでした。わたしたちに課せられた期待は、達成できる能力を越えたものでし た。みんなが望んでいるような人になることができなかったので、わたしたちはもう努力するのをやめてしまいました。上手にできる兄弟姉妹と競争するよりも、わたしたちはこつこつ努力するのをあきらめました。成人した大人としてもわたしたちは無責任です。わたしたちは自分が率先してやり始める前に物事が変わってくれることを待っています。わたしたちは、人生はわたしたちに対してあまりにも不公平だと信じているので、自分の今の状況を変えてくれるよう要求する気も起こりません。わたしたちは自分の問題に圧倒されますが、どうすれば変えて行けるのかわかりません。

無責任であると、わたしたちは次のようであるかもしれません。
・孤立するようになる
・自分を気遣ってもらいたがる
・気にかけないように見える
・低い業績しか上げない
・犠牲者のように感じる
・偽りのプライドを持っている
例:わたしは自分にあまりにも多くのことが要求されると無責任に振る舞う。なぜなら家族が望んでいるようなことを自分はできないと分かっているからだ。この事は、わたしの自己評価に影響を与えている。わたしは孤立し、隠れたいと思う。この事はわたしの恨みと怒りをかきたてる。わたしは、こうしたことをわたしに期待する彼らを憎んでしまう。この事はわたしに罪悪感と恐れを抱かせる。

 実際的な目標を達成するため、神がわたしたちを助けて下さることを理解するにつれ、わたしたちは神とパートナーを組んで自分の将来のために動き始めます。わたしたちは、他の人がわたしたちに対して持っている期待に重きを置かず、人生における目標を達成するための自分自身の願いに重きを置きます。わたしたちは、自分が競争する相手は自分自身だけであること、そして、神はわたしたちが人生において勝つために必要なことを行なえるようにして下さるということを、理解しています。わたしたちがコントロールを明け渡すにつれ、神はわたしたちの人生に秩序をもたらし、わたしたちが意味深い仕方で貢献できるようにして下さるのです。

無責任から回復するにつれ、わたしたちは次のようになり始めます
・献身(公約)を保つ
・責任を引き受ける
・自分自身に関して目標を定める
・自分自身に関してより良く感じる

11)孤立

 わたしたちは大抵、自分にとって快適でない状況から引きこもることでより安全になったと感じます。自分を孤立させることによってわたしたちは、他の人がわたしたちの本当の姿を見ないようにしています。そのようにして自分は価値のないものであり、したがって愛されること、注意を引くこと、受け入れてもらうには値しないものだと自分自身に告げています。さらに自分の感情を表現しなければ罰せられたり、傷つけられたりしないのだとも言い聞かせています。わたしたちは危険を冒すよりも隠れることを選び、そうすることで不確実な成り行きに直面しなくてすむようにしています。

自分を孤立させていることは次のような問題を引き起こすかもしれません
・拒絶を恐れる
・孤独になる
・臆病で内気になる
・ぐずぐずと先延ばしにする
・負け犬のように感じる
・自分が違っているように思う
例:わたしは配偶者から孤立している。なぜなら、彼/彼女はわたしに対してとても消極的だからだ。この事はわたしの自己評価に影響を与えている。この事は自分のことを消極的に話す傾向や怒りをかきたてる。この事はわたしに自分は価値がなく愚かであるように感じさせる。

 自分自身についてより良く感じるようになり始めるにつれて、わたしたちは以前よりは積極的に、たとえ危険を冒しても新しい環境に自分をさらけ出していくようになります。わたしたちは、育んでくれ、安全で、支えてくれるような友人や人間関係を求めます。わたしたちはグループとしての活動に参加し、それを楽しむことを学びます。より高い自己評価を培うにつれ、自分の感情を表現するのがもっと楽になっていきます。わたしたちは、人々があるがままの自分を受け入れてくれることを認めます。自分を受け入れることができるようになったことの結果として、さらに快適に落ち着いて生活するという、貴重な贈り物を楽しむことができるようになっていきます。

自分を孤立させることがより少なくなってくるにつれて、次のようになっていきます
・自分自身を受け入れる
・支えてくれるような人間関係を造り育てていく
・自分の情緒を自由に表現する
・積極的に他の人とかかわる

12)低い自己評価

低い自己評価は、わたしたちの幼い子供時代に心に植え付けられたものです。この期間中、わたしたちは自分のことを「ふさわしい」あるいは「大事である」と信じるようにしてはもらえませんでした。いつも批判されてきたために、自分は悪く、自分が家族の問題の原因のひとつなのだと信じ込みました。受け入れられていると感じるために、わたしたちは人を楽しませようとさらに一生懸命努力しました。一生懸命やればやるほど、わたしたちの欲求不満は大きくなりました。低い自己評価は、目標を設定し、それを成し遂げるわたしたちの自信に影響を与えました。わたしたちは失敗を恐れています。物事がうまく行かないと、その事に責任があるように感じてしまい、うまく行ってもその事に対する功績を自分に与えようとしません。その代わりに、自分はそれに値しないと感じ、それは続かないだろうと信じているのです。

わたしたちの自己評価が低いと、次のようであるかもしれません
・他の人を救うあるいは楽しませる
・無能のように思える
・否定的な自分像を持っている
・主張できない
・他の人たちから引きこもる
・失敗を恐れる
例:わたしは他の人たちの前で話すように頼まれた時に低い自己評価を感じる。なぜなら、わたしが心の中で自分のことをどれほど価値がなく重要ではないと感じているかを、みんなは分かっていると思うからだ。この事は理知的に話すわたしの能力に影響を与えている。わたしは口ごもり、言い訳し、自分のことを謝る。この事は自分への憎しみや自分の事を消極的に話す傾向をかきたてる。わたしはその後どこかへ隠れたくなる。この一事はわたしを何の希望もないような気持ちにさせる。

 わたしたちがエホバと共同して、自分自身と自分の能力に対しての自信を築いてくにつれて、わたしたちの自己評価は高まります。他の人たちと交際できるようになり、自分をあるがままに受け入れることができるようになります。自分の限界と同じように自分の強さにも気づきます。進んで危険を冒す気持ちを以前より持つようになります。そして、前には可能だとは夢にも思わなかった多くのことができているのに気づきます。他の人と感情を分かち合うことをさらに快適に感じるようになります。他の人たちを知り、他の人たちに自分を知ってもらうようになるにつれて、わたしたちはより安全に感じます。自分を信じ、自分を保証できるので、人間関係はさらに健全になります。保証してもらうために他の人をあてにする必要はもうないのです。

わたしたちの自己評価が高まるにつれ、わたしたちは次のようになり始めます
・もっと自身がつく
・より積極的に行動する
・他の人と楽に交際する
・自分を愛する
・感情をオープンに表現する
・危険を冒す

13)過剰に発達した責任感

機能不全の家庭の子供として、わたしたちは親の問題に対して責任を感じていました。わたしたちは「手本になるような子供」となり、他の人たちが望んでいると思える方法で物事を取り決めようと努力しました。わたしたちは、他の人の感情や行動に対して出来事の結果に対してさえも責任があると信じ込みました。今もって、わたしたちは他の人の必要に対して非常に過敏なままであり、彼らの必要を満たす責任を引き受けようとします。わたしたちにとって完璧であることは重要なことです。わたしたちは人々が自分たちに感謝してくれるよう、物事を進んで行なうと申し出ます。過剰な責任感のために、わたしたちはできないほどの約束をしてしまい、とてもさばき切れない程たくさんのことを引き受ける傾向があります。

責任過剰であると、わたしたちは次のようであるかもしれません
・人生を重大にとりすぎる
・他の人を操る
・完全主義者である
・頑固に見える
・高い業績にこだわる
・偽りのプライドを持っている
例:わたしは仕事で物事がうまくいかないと過剰に責任を感じてしまう。なぜならそれはわたしの失敗だと思うからだ。この事はわたしの健康に影響を与えている。わたしは極端に緊張して張り詰めており、頭痛がする。この事はわたしの恨みと怒りをかきたてる。わたしはすべての仕事をわたしにさせる人たちを憎んでいる。この事はわたしに罪悪感を抱かせる。

 わたしたちは他人の行為や感情に責任はないという事実を受入れると、自分自身に目を向けざるをえなくなります。他の人に変化を強要することはできないこと、人は自分に対して責任があることをわたしたちは理解します。自分自身の行動に責任を持つようになると、わたしたちは導きを求めて神に頼り、自分自身の必要を気遣わなければならないことに気づくようになります。それからわたしたちは、自分自身を支え養うための時間とエネルギーを見つけるようになるでしょう。

過度に責任を取るのを止めるにつれて、わたしたちは次のようになり始めます
・自分を気遣う
・自分自身の限界を受入れる
・余暇を楽しむ
・責任を委譲する

14)不適切に表現された性(セクシュアリティー)

 わたしたちは、自分の性的感情が、不自然で異常であると考えるように教えられてきました。自分の感情を他の人と分かち合うことが不器用なため、わたしたちは自分自身の性についての健康的な態度を育てていく機会がありませんでした。わたしたちが小さい子供のとき、子供風士で身体的な性的探求をして、厳しく叱られたかもしれません。与えられたメッセージは、「性は汚い、話すべからず、避けるべし」と言うものでした。わたしたちの中のある人たちは、それで親のことを性を全く容認しない人、あるいは全く性的でない存在とさえ見なしていました。またわたしたちは、自制の欠けた親か近親者に、性的に辱められたかもしれません。その結果わたしたちは、自分の性的役割について、不安で気詰まりを感じます。わたしたちは誤解されたり、見捨てられたりするのではないかと恐れて、パートナーと性について自由に話しません。親として、わたしたちは性について自分の子供達と話すのを避け、性的な面で主体性を示すことを避けているかもしれません。

不適切に表現された性によって、わたしたちは次のようであるかもしれません
・道徳感を失う
・親しい交わりを避ける
・冷感症または不感症になる
・他の人を誘惑する
・好色である
・罪と恥を感じる
例:わたしは配偶者が親しい交わりを必要としているときに自分の性を不適切に表現する。なぜならわたしは汚れていて愛してもらえるわけはないように感じるからだ。この事はわたしたちの関係に影響を与えている。この事は理解してくれないことのゆえに配偶者に対する恨みをかきたてる。またその結果、わたしはこうしてしまう自分自身を憎んでいる。この事はわたしを孤独な気持ちにさせる。

 エホバの絶えない愛に信頼を置くようになるにつれ、わたしたちの自己価値は高まっていき、わたしたちは自分自身を価値ある者とみなすようになります。自分を愛する気持ちと、自分を気遣う能力が増大するにつれて、自分を愛し、大切にしている健康的な人たちと一緒にいることを求めるようになります。誰かと関わることを恐れる度合いが小さくなり、情緒的、精神的、性的に、健康な人間関係に入っていく準備が以前よりもできるようになります。自分の感情や強さや弱さを分かち合っても、もっと安全に感じるようになります。自分に対する信頼感が成長し、自分が傷つきやすいことも許せるようになります。わたしたちは、自分や他の人が完全でなければならないという必要や欲求を放棄し、そうすることによって、自分自身を成長と変化に向けて解き放ちます。わたしたちは自分の性(セクシュァリティー)について、子供たちにも正直です。わたしたちは彼らの知りたいという気持ちや彼らが健康的な性的存在であることを受け入れます。

自分の性(セクシュァリティー)を受け入れると、わたしたちは次のようになり始めます
・性についてオープンに話す
・自分自身の性的な必要を考慮する
・性的な自己を受け入れる
・親密な感情を分かち合う

15)性格上の強さ

 次の分野であなたがすでに持っている積極的な性格上の強さについて考慮して下さい。

感情的:自分自身あるいは他の人に対する健康的な感情あるいは愛情深い反応 (例:わたしは配偶者や子供に対して、愛を感じそれを表現することができる。)

霊的:神を身近に感じる方法(例:わたしは祈りの習慣を持っている。)

人間関係:他の人たちとの積極的で援助的な相互関係(例:わたしは親友と対等で健全な友情を持っている)

道徳的:思いや行動の上での適切な倫理と行ない(例:わたしは仕事での業務に関して良心的に働いている。)

知的:精神的な活動のために費やす質の高い注意力とエネルギー(例:わたしは朗読と勉強のために時間を費やしている。趣味の花作りについて学ぶようにしている。)

自分の世話/養育:自分に対する健全な関心と世話(例:わたしは散歩をしたり、ショッピングをしたり、自分のために物事を行なうための時間を取っている。)


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