インナーチャイルド・プログラム 第2部
JW組織が心理学の技術を応用して信者の信仰を強化するための内部資料
【インナーチャイルド・プログラム 第2部】
傷ついた内なる子供の居場所づくり
目次
1.傷ついた内なる子供は居場所を求める
1)自分の空間をつくってみよう
2)わたしの中の他人の目、他人の声
3)親しい人を少しずつ集めていこう
4)わたしが確信したいこと
2.誰かがわたしを本当に愛してくれるのだろうか
1)愛についての見方が歪められる
2)愛する能力が与えられている
3)エホバは乳をふくませる母親のように愛される
4)エホバの示して下さる同情心
5)エホバがわたしを愛してくださっていることが信じられません
6)わたしの祈りが聞かれるとは思えません
7)祈りが聞かれているのに、気づかないことがありますか
8)本当の父の住まいに還る
3.わたしにエホバは公正を施してくださらないのですか
1)エホバは無感覚な方ではない
2)公正と同じほど大切な自由という贈り物
3)公正を施行されるエホバを待とう
4)時を定められる神
5)輪の時間と矢の時間
6)その日その時、一日だけ
4.罪悪感に取り絡む
1)罪悪感は必要か
2)なぜわたしたちは過度の罪悪感に悩まされるのか
3)不安、罪悪感は警報装置
4)過度の罪悪感がわたしたちに害になる場合
5)嗜癖と罪悪感
6)過度の罪悪感を非とする聖書的な根拠を考える
7)罪からの解放−どのように
8)理想と現実−そのギャップはどう埋めていけばよいか
9)わたしたちは邪悪を抱えて生きていかなければならない
5.親密さと羞恥心−境界線と秘密をめぐって
1)秘密またはプライバシーの持つ価値
2)エホバはどのようにわたしたちを観察されるか
3)エホバはどのようにわたしたちと関わられるか
4)親密さを築くための時間とプロセス
5)秘密が守られるべき領域
6)境界線のジッパーの鍵はあなたが持ちなさい
6.健全な自己主張をすることアサーティブについて
1)あなたの感情を理解する
2)好きということ嫌いということ
3)怒りについての正しい見方
4)怒りと攻撃性
5)不完全な人間はなぜ怒りや恨みを抱きやすいか
6)怒りとうつ感情
7)怒りはどう表現すればよいのか
8)怒りとアサーティブネス
9)アサーティブネスは聖書的に正しいか
10)攻撃的、アサーティブ、ノンアサーティブの違い
11)アサーティブな生き方を身につける方法
12)アサーティブを行使しない自由と権利
7.無力感や絶望感とどう取り組むか
1)まず自分のあるがままを受け入れよう
2)無力感はなぜ身に付いてしまうのか、しかし回復は可能
3)わたしたちのゆがんだ考えを知り考えを変える
認知のゆがみの定義の一覧表
4)ゆがんだ考えを書き換える
感情を変えるために自分の気分や考えを書き出す(トリプルカラム)
5)自尊心(効力感)を高めるものを取り入れる
6)病気で活動が制限されている中で絶望感と戦う
7)根深い無力感との戦いは、敗北ではない
敗北感に打ちのめされて抜け出せないと感じる時、試みること
「わたしは生きていていいの…どう生きていけばいいの…わたしには居場所がないの…」傷ついた内なる子供(インナーチャイルド)は不安げにこうつぶやきます。落ち着かなくてソワソワとうろつくかも知れません。大声で当たり散らしたり、怒りをぶつけたくなるかも知れません。自分が居ても良いと思える場所がないのです。「あなたの居場所を見つける」これが第二部でわたしたちが取り組む課題です。
第一部で自分がどのように傷つき、どのように生きてきたか、どのように生きていくべきかのアウトラインを見ることが出来ました。では自分を癒し、成長させていく場所をどのように見いだせるのでしょうか。
「自分を休める空間がない…家では絶えず騒音が絶えない…」これで悩む人たちも多いと思います。物理的な空間、それがたとえ自分を横たえるだけの狭いところでも誰の目からも遮断されて静かになれるところは欲しいと思います。もちろん完全に人気のない所へ行くことや、音から遮断されてしまうことは、むしろわたしたちを狂わせるでしょう。それは独房に閉じこめられることと変わりがないので大きなストレスを与えます。そのかわりに自分の目をくつろがせるような植物、動物の動き、自然の作り出す風の音や雨だれの音、虫の声や鳥の鳴き声、人の笑い声やリズミカルな仕事の音はかえってわたしたちに安らぎをもたらすのです。
小さいスペースでも自分の空間づくりをしてみるのはどうでしょう。出来るだけ、お金をかけないで出来ることはあるはずです。まず、余分なものを捨てましょう。もう読むことのない本や雑誌、一年間着なかった服、使わなかったものはよほどの愛着がない限り思い切って捨てることが出来ます。何かを捨てることは、自分がこれから変化することへの決意のようなものです。
こうして出来た空間をお気に入りのもので飾ることが出来ますか。花や動物の写真、友達の写真、行ってみたい土地の写真、ぬいぐるみやマスコットを飾ったりする人もいます。感覚の敏感な人は棚のガラスに中が見えないように無地の壁紙を貼ったりしてすっきり仕上げる方が気分が良いかも知れません。それはお好きなように。
くつろげる歌手の音楽や、自然の音をテープやCDで流したい人もいるかも知れません。光にこる人もいるし、かおりがくつろげる人もいるのです。なんであれ自分の空間と時間を自分が好きなように作り出してみるのも良いかも知れませんね。いっぺんにあれこれするより、たとえば一ヶ月に一目位を取り分けて少しずつ自分の周りを変える日にするのも良いかも知れません。
せっかくお気に入りの場所に座っても、音楽をかけてもくつろげないのはなぜなのでしょう。頭にノイズ(雑音)が入って来る。それが騒がしくて落ち着けないのかも知れません。「あんたなんか嫌いよ…生まれてこなければ良かったのに…太ってる…気持ちが悪い…」いつか誰かに言われた言葉がこだまのように響いてきます。目をつぶると自分一人が置き去りにされた場面や、怒っている鬼のような親の顔、小馬鹿にされた時の薄笑いを浮かべた誰かの顔、それらが頭の中をぐるぐる周りするのでしょうか。何が問題なのでしょうか。これらが、耐えられないほど強かったり、実際に耳に聞こえたり見えたりするのであればこれは幻覚です。医師と相談して薬を使って和らげてもらうことが必要かもしれません。
しかし、あなたが出来ることもあるのです。「これを見ているのは他人の目だろうか、それとも自分の目だろうか」と尋ねることです。「これを聞いているのは他人の声だろうか、それとも自分の声だろうか」と尋ねることも出来るでしょう。これらの声がたとえ誰か別の人の声で聞こえるように思えたとしても、あるいは完全に誰か別の人の声であったとしても、それはあなたの記憶の中にあるものであり、それを呼び出しているのはあなた自身なのです。だからそれをストップさせることも、それを受け入れることもあなた次第なのです。
あなたは実際に、かつて、その声を聞いた時があり、その顔を見た時があったことでしょう。しかし、それを聞いたり見たりした時と情況は大きく変わっているのではないでしょうか。立場を替えて考えてみてください。あなたが何気なく話した言葉が誰かを傷つけ、あなたのした何かの何気ない表情が相手を傷つけたことがあるとします。しかし、あなたはその人にずっと同じ感情を抱き続けていますか。そのようなことはないでしよう。感情が変わりやすいことはあなたが一番良く知っているでしょう。誰かが近づいてきて「八年前にわたしに言った言葉を覚えていますか…その時にした表情を覚えていますか…あなたはその時とちっとも変わらないはずです…キットそうです」と言われたら困ってしまうでしょう。
傷つけた当人が再確認しない限り、その記憶と同じことを現在もその人が抱いていることは大変にまれなことです。ですからそのことが現在でも間違っていないと信じているのはあなただけであることが多いのです。ところがその言葉や表情が今もあなたを縛っているのです。
それであなたから安心できる場所を奪い、あなたを生きにくくしているのはあなたの考えと感情かもしれません。これを変えなければならないし、出来るはずです。他人の考えや感情は変えられません。でもあなたの考えとあなたの感情とは変えられるのです。
あとから親密さについて学びますが、無条件でわたしたちを受け入れてくれる人は簡単には作れません。あなたもだれかが好きになったとして、その人があなたの弱点に触れたり、あなたのいやがることをしはじめれば、やがてその人から離れたくなることでしょう。時間をかけて色々な経験を共有して、許したり許されたりして、率直に話し合える仲になり秘密も分かち合えるのでないでしょうか。
わたしたちの多くは敵か味方かにすぐに区別を付けたがります。多分あなたの周りにいる人はほとんどが敵でも味方でもありません。時間をかけて味方度を0パーセントから5パーセント10パーセントと上げていくことです。安心はそんな人たちに少し寄りかかれる時に生じてくるのです。
安心できる居場所をつくるためにあなたが願っていることは何ですか。次のようなことを考えてみました。以下の章ではこれらのことを一緒に考えていくことにしましょう。
@あなたが危害から守られること
Aあなたが愛され、受け入れられ、関心を払ってもらえること
Bあなたが癒されたり、成長することを見守ってもらえること
Cあなたが間違ったら正してもらえること
Dあなたが何かに役立つことを認めてもらえること
Eそして、こうしたことをあなたに確信させてもらえること
両親共にアルコール依存症の家に育ち、親からの暴力、かかりつけの医者からの性的虐待、学校時代のいじめを経験した一男性は、そのような少年時代の経験が災いして、長老として奉仕していても「天の父エホバがわたしを愛してくださるということが、なかなか信じられないでいました」と語りました。またある女性は愛が十分に表現されない家庭で育ったため、このようにいつも感じていました。「わたしは自分がエホバの愛に価するとは一度も考えたことがなかったので、その愛を獲得する方法として、奉仕を増し加えることに努めました。しかし、わたしを動かしていたのは罪悪感と屈辱感でした。ですから、宣教にどれほど多くの時間を費やそうと、どれだけ多くの人を援助しようと、まだまだだと思っていました。わたしは自分の足りないところだけを見ていたのです」。
こうした経験が示しているように、サタンは愛という重要な特質を感じたり表したりするわたしたちの能力を損なうために、家族の絆を攻撃しています。それは、家庭が、愛についてのわたしたちの最初の、そして最も永続的な印象が形成される場所であることを知っているからであり、また、人が幼いときに学んだ事柄は成人した後にもその人の価値観として残るという原則も知ってるからです。
ですから、成長する過程で愛を十分に受けられなかったわたしたちの多くは、愛について歪んだ見方を身につけてしまいました。しかし、それは矯正できないわけではありません。
もともと人を愛する能力はわたしたちの脳の中に植え込まれており、脳の中の様々のホルモンが働いて、人を好きになったり、子供をかわいがったりするのです。これらは良い環境の下ではうまく発揮されるのですが、うつ病のような病気であったり、また正常な人間関係を歪めるきつい経験をすると、恐怖感を引き起こしたその記憶が愛を感じ取ったり、表現する能力を妨げてしまうことがあります。
生命や生殖能力をわたしたちに与えてくださり、愛する喜び、そして愛される喜びを感じる能力をわたしたちに植え込まれた方は、愛することも愛されることも熟知しておられるのは、いうまでもありません。
「愛する者たちよ、これからも互いに愛し合っていきましょう。愛は神からのものだからです。…愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」。ヨハネ第一4:7,8
母親になったことがある人は、夜が更けて家族が寝静まったころ、赤ちゃんに乳をふくませるとき、この取り決めを作られた創造者のことを考える事が出来るかも知れません。授乳を可能にする体の複雑な働きは理解できなくても、母乳を与えて子供を育てることのすばらしさは、創造者の知恵と愛を知る助けになることでしょう。母乳で育てるというのは、母子双方にとって喜ばしい経験であることも考えてみてください。食物を与えること、語りかけたり肌が触れ合ったりすること、授乳時に感じる肌のぬくもりなどは、すべて親子の強い愛情のきずなや親愛の情を深めるのに役立つのです。
それでエホバは母親は愛や注意を求める赤子のひっきりなしとも言える要求に素早くこたえ応じることを知っておられ、ご自分もまたそのようにすると言われています。
「妻が自分の乳飲み子を忘れて、自分の腹の子を哀れまないことがあろうか。…しかしわたしがあなたを忘れることはない」イザヤ49:15
エホバに見習う男性も母親のそのような暖かさや柔らかさを持つことを期待されますか。エホバはモーセに語られたことがありました。
「そこでモーセはエホバに言った、『どうしてあなたはこの僕をつらいめに遭わせられるのですか。…わたしがこの民すべてをはらんだのでしょうか。彼らを産んだのはわたしなのでしょうか。そのために、『子守り男が乳飲み子を運ぶように彼らを懐に入れて運べ』と言われ、その父祖たちに誓われた土地に連れて行かせるのでしょうか」。民数記11:11,12
またイエスに見習ったパウロも会衆を扱うに際して母親のように愛ある関心を示し続けました。
「乳をふくませる母親が自分の子供を慈しむときのように、あなた方の中にあって物柔らかな者となりました。こうして、あなた方に優しい愛情を抱いたわたしたちは、神の良いたよりだけでなく、自分の魂をさえ分け与えることを大いに喜びとしたのです。あなた方が、わたしたちの愛する者となったからです」テサロニケ第一2:7,8
ところで、実の父親から虐待を経験した人はエホバを父として愛したり敬うように言われることに抵抗を覚えます。ではエホバが母親のようなやさしい関心を示されることを知るともっと近づきやすくなるかも知れませんね。
エホバの属性に愛、知恵、公正、力があります。「神の知恵」とはいいますが、「神は知恵である」とはいいません。しかし、愛に関してはそれがエホバを代表する特質であるゆえに「神は愛である」といいます。エホバの示される同情心については、例えばこんな聖句があります。
「エフライムはわたしにとって大切な子なのか。またやさしい扱いを受けた子供なのか。わたしは彼らに敵して語れば語るだけ、彼のことをなおも必ず思い出すからである。そのゆえに、わたしのはらわたは彼のために騒ぎ立った。わたしは必ず彼を哀れむであろう」エレミヤ31:20
この聖句について、ヘンダーソンはその解説の中で「ここでエホバは戻ってきた放蕩者に対する、親らしいやさしい感情を表現しておられる。エホバは偶像崇拝を続けた彼らに敵して語られたが、決して彼らを忘れたわけではなく、むしろ彼らの最終的な回復を期待して喜んだ」と述べています。エホバは同情を覚えられるとき、はらわたで感じると言っておられるのです。
イエスはエホバと大変に長く生活してこられました。そして、彼はエホバを愛し、またエホバが大好きだったので、エホバそっくりに考えたり行動する方になられました。それで彼を見るとき、わたしたちはエホバがどんな方かが分かります。
イエスは放蕩息子を待ちわび、彼が帰ってくることを信じ、日に何度も村の入り口にその姿を求め続けた父親としてエホバを描きました。また、遠くにいるうちに、変わり果てた姿の息子をすぐにそれと見分け、矢も楯もたまらず、走り寄ってその頸をしっかり抱きしめ、泣いて喜ぶ父親としてエホバを表現しています。息子の、肩身が狭く感じている気持ちを百も承知で、黙って受け入れます。彼が「もう息子として扱われる資格がないので、使用人の一人として扱って欲しい」と語ると、すべてを許し、完全に息子として受け入れます。すぐに身奇麗にさせて、家族や知人を招いて豪華な歓迎の宴をもうけます。こうして、これがエホバのやり方なのだと教えてくださいました。ルカ15章
イエスが憐れみ深い方であったことは明らかです。らい病人を癒された時の扱い方、耳の不自由だった人をおびえないように群衆を避けて癒されたこと、流血を患った女性を律法の違反をとがめずに癒されたこと、フィリスティア人の娘のために区域の範囲を喜んで超えて癒されたことなどにそれを見ることができ、数え上げればきりがないほどです。
そして、そのイエスがある人から「善良な先生」と呼びかけられた時、彼は「どうしてわたしを善良というのですか。エホバの他に善良な方はいません」(マルコ10:17,18)と即座に善良という称号を自分に関して否定して、道徳的な卓越と他の人々の益を考慮に入れて行動する能力であるこの善良という称号を、ただエホバにのみ帰されました。
これらすべてに加えて、エホバがご自分の独り子を犠牲に差し出してくださったという、否定できない事実を重ね合わせてみると、エホバがわたしたちを、徹底して愛してくださっていることが明白ではないでしょうか。それをもし疑うとしたら、疑う方がエホバに大変失礼になるでしょう。
わたしたちのある人は「エホバが他の人を愛されていることは分かるけれど、自分を愛してくださることが分からない」と言います。「自分は誰からも愛されていないし、愛されるにも価しない」。このつらい認識が消しがたいまでに染みついてしまったのは、わたしたちの人生の初期に十分に愛情を表現してもらえなかったためなのでしょう。「それにエホバに愛していただけるようなことは何もできません」と言います。でもエホバはお返しにご自分の愛を小出しに与えてくださるわけではありません。
「ご自身のみ子をさえ惜しまずに、わたしたちすべてのためにこれを引き渡してくださったその方が、どうしてそのご親切によって、み子と共に他のすべてのものを与えてくださらないことがあるでしょうか」ローマ8:32
またエホバはわたしたちの生み出す結果だけに目を留めるのではなく、その努力の過程を見てくださいます。これについてダビデの詩から学べます。
「エホバよ、あなたはわたしをくまなく探られました。あなたはわたしを知っておられます。あなたご自身がわたしの座ることも立ち上がることも知るようになり、遠くからわたしの考えを考慮されました。あなたはわたしの旅することも、横になって寝ることも測りわけ、わたしのすべての道を親しく知るようになられました」。詩編139:1〜3
「わたしの道を親しく知る」ということには「わたしの道を慈しむ」という意味が含まれているようです。しかし、実に不完全で罪深いわたしたちの道をどうして「慈しむ」ことなどできるのでしょうか。
「エホバがわたしを測りわけられる」と述べた言葉には、「ふるい分ける」または「あおり分ける」という意味があります。ある参考書は、「それは、もみがらを全部ふるい分けて穀粒を全部残す、つまり価値のあるものを全部保存することを意味している」と述べています。エホバはわたしたちの生み出す無価値なものを吹き飛ばして、あとに残る、実質的な価値のあるものだけを、わたしとして見てくださるという意味です。
エホバはわたしたちを、泥にまみれていて磨かれていない宝石の原石のように見てくださっています。わたしたちにこびりついた泥のようなものや、深い傷を、エホバはもちろんそれを知っておられますが、修復できないものとはご覧になりません。洗ったり、磨いたりすれば、エホバの光を反射できる有用で美しい宝石に変えられるのです。そして、その仕事はエホバがなさいます。わたしたちは、邪魔をしないようにしてそれに協力すればよいのです。箴言25:4
「苦しいときに祈ったのに全然聞かれませんでした」という人もいます。あなたもそんな経験をしたことがあるかも知れません。「祈り続けているのに答えられません」という人もいます。「もう祈る気になれません。決まりきった祈りしかしていません」という人もいます。クリスチャンであるわたしたちは幾らかそんな気持ちを持つときはあるものですね。
しかし、祈りを聞かれるのはエホバですから、その方がどうわたしたちの祈りに接してくださっているかを知ることが大切です。
「わたしたちは[神]に対してこのような確信を抱いています。すなわち、何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば、[神]は聞いてくださるということです。さらに、何であれわたしたちの求めているものについて[神]は聞いてくださるということを知っているなら、わたしたちは、[神]に求めたからには、求めたものは得られるはずだということも知るのです」ヨハネ第一5:14,15
これがエホバの祈りに対する答えです。であれば、祈りが聞かれていないと思うときは、「自分の求め方が悪かったのかな」と考える方が自然でしょう。
わたしも子供を育てるようになって、子供が何を欲しがっているのかには敏感になりました。親として、子供の話す言葉を無視するようなことはまずできません。その場でその要求に応えられることが多いとはいえ、後でふさわしい時を選んでこの願いに答えることが出来たこともあります。人間の愛の薄い親ですら子供の願いにはそれほど敏感なのです。ではあなたがすでに心の願いを、愛の深いエホバに祈りを通して伝えたのであれば、後は待つ態度を示しましょう。必ず聞かれており、必ず答えられるからです。
後になってからそれが祈りの答えであったのだと気づくこともあります。それに、エホバはさりげなく贈り物をしてくださることを好まれます。どうすれば祈りが聞かれていることを確かめられますか。
祈りのノートを付けてみるのはどうでしょうか、ある北海道の姉妹は祈りが聞かれているという実感を一度も味わったことがありませんでした。この姉妹は旅行する監督から祈りの要旨を書き留めておくように勧められ、それに従ってみました。そして、あとで調べてみると、祈ったことさえ忘れていた祈りを含めて、エホバが彼女のすべての祈りを聞いてくださっていたことを知りました。
実は、わたしはこれを聞いて「本当だろうか」と疑いました。それで自分で一ヶ月半試してみました。そしてその通りであることを知りました。エホバの愛を強く感じることができました。同時に反省したのは、エホバに「求めて」祈ることが少なかったということでした。あなたも一度、是非体験してください。
さらに別の方法は、祈りの答えを含めてどんなことでもエホバの祝福を数えて感謝することです。あなたは、自分より多くの時間をささげて働いている、たとえば開拓者たちや旅行する監督たちのほうが、普通の奉仕者より多く祝福されて良い経験をいっぱいしており、エホバに愛されているはずであると思ったことはありませんか。
経験の深い一長老はこう教えました。「エホバは公平な方なので、誰かをより少なく愛するということはありません。むしろ、エホバはわたしたちすべてを大変深く愛し、祝福しておられます。しかし、全時間奉仕者のほうがより多くそれに気付くのかもしれません。より多くの時間個人研究をしたり、世と接する時間が少なかったり、またエホバの奉仕に十分に与っているため、彼らの方がエホバの祝福に気付くことが多いのです」。
そして、ノートを作り、毎目最低一つでもエホバがその目、自分にしてくださったことやエホバの祝福と思えることを記すように提案してくださいました。「毎日一つ、エホバの祝福を記しなさい。そうすれば君は一年間で365の祝福を覚えることができる。君が弱くなったり、気落ちしたらそれを見て思い出せば良いんだよ」と。
わたしたちの中には、親から愛情深く育ててもらうという点では、恵まれなかった人もあるかもしれません。それでも今まで生きてこれました。親に実際に捨てられた仲間たちもいます。それでも今、こうして真理にふれることができ、またエホバの愛に出会うことができました。「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても、エホバご自身がわたしを取り上げてくださるでしょう」とある通りです。詩編27:10
一般的に言って、親の子供への愛は生涯続くとはいえ、実際は子育てが終われば、親としての大半の仕事は終わります。動物を見ても、彼らは子育てをしている時は自分を危険にさらしても、必死に世話をしてゆきます。一日に何度も何度も餌をひなに運びます。敵が近づくと、自分が巣から飛び出して、敵の目をそちらに引きつけようとさえします。しかし、時が来ると、自分の子供を独り立ちさせるために、いわば邪険に子たちを巣から追い出します。巣から出なければ子供たちは独立できないし、親たちも次の世代を育てるための仕事ができません。
人間の場合も基本は同じでしょう。親は小さな命を独立して生きさせるためにある装置なのではないでしょうか。「それゆえ、男は父と母を離れて自分の妻に堅く付き、ふたりは一体となるのである」。創世2:24 一般的にいえば、子供は親から離れた後、親の感情的、経済的支えをいつまでもしなければならないわけではないでしょう。「子供が親のためにではなく、親が子供のために蓄えておくべきなのです」。コリント第二12:14
ですから、愛に恵まれて育った人も、恵まれなかった人も自分の肉の親からは離れて、本当の父、命の授与者、永遠の命の道を開いてくださった方、わたしたちを気遣い、真実に愛してくださっている方のもとへイエスの導きを受けながら還って行くべきなのです。
エホバはあなた個人を深く愛しておられます。それもあなたを一番最後に愛されるということではなく、他の人と同じように愛してくださっているのです。それを感じ取ってください。感じ取れるようにたゆまず、祈りに含めてください。
「あなたの神エホバがあなたの中におられる。強大な方であり、救いを施してくださる。喜びを抱いてあなたのことを歓喜される。その愛のうちに沈黙される。幸福な叫びをあげてあなたのことを喜ばれる」。ゼパニヤ3:18
冬の間、地面の中に眠っているように見える球根の中に確かな命があるように、エホバよ、あなたの深い沈黙のうちにも確かな愛があることを、どうかわたしにいつも感じられるようにわたしを成長させてください。
「お前は余計な子だ」「生まれてこない方がよかった」こんな言葉を何度も聞かされたり、気まぐれで殴られたり、懲らしめの名目でひどく鞭を与えられたりしてきた子供にとって、あるいは性的虐待を繰り返し経験しなければならなかった人にとって、成人した今も、「神がおられたらどうして助けてくれなかったのか。自分は神から愛されてなんかいなかったのだ」と言いたくなるでしょう。また、「わたしがこれほどのひどい目に遭わなければならなかったのは、わたしの落ち度に違いない。それほどひどいことを経験したということは、元からわたしが醜く、汚れており、そのような扱いに値する人間なのだ」と推論するかもしれません。
また、あなたは、世界の不平等に怒りを覚えることでしょう。あなたが虐待に耐えていたとき、はるかに恵まれた子供時代を送った入たちが大勢いました。もちろん同じ時に、いいえ今でさえ、あなたが経験したどんな災いより過酷な扱いを受けて苦しんでいる子供たちが多くいることに気付いています。エホバがこの不公正をつくり出したのですか。いいえ、断じてそのようなことはありません。それはすべてエホバに反逆したわたしたち人類家族が産み出してきた実です。
エホバはあなたが経験した苦しみや、今苦しんでいる大勢の人々の涙に無感覚であるわけではありません。ご自分の怒りを抑えておられたのです。こう言われています。
「あなたに触れている者はわたしの目の玉に触れている」ゼカリヤ2:8
あなたは、あなたを虐待した親を虐待の最中にエホバがなぜ即座に滅ぼさなかったのかと言いたいかもしれません。しかし、すべての人のために公正を施行することは難しいことなのです。エホバの公正に疑問を抱いたヨブにこう語りかけられるのです。
「どうか、強健な人のように、あなたの腰に帯を締めるように。わたしはあなたに尋ねるので、あなたはわたしに知らせよ。実際、あなたはわたしの公正を無効にしようとするのか。あなたは自分が正しい者とされるために、わたしを邪悪な者とするつもりか。あるいは、あなたには[まことの]神のような腕があるのか。[神]のような声で雷鳴をとどろかせることができるのか。どうか、優越性と気高さで身を美しく装うように。尊厳と光輝を身に着けよ。あなたの怒りが激しくほとばしり出るように。すべてごう慢な者を見て、これを低くせよ。すべてごう慢な者を見て、これを卑しめ邪悪な人々をその場で踏みにじれ。彼らを共々に塵の中に隠し、彼らの顔を隠れたところにつなぎ留めよ。そうすれば、わたしもまた、あなたをほめよう。あなたの右の手はあなたを救うことができるからだ」。ヨブ40:6−14
わたしも虐待者の行為を決して弁護しようとはしていません。傷つける行為を心から憎みます。しかし、そのひどいと思える虐待者たちも実は、彼らの親から虐待され、愛を学ぶ機会が与えられなかった犠牲者であることが圧倒的に多いのです。また、虐待者自身が精神的な病気を抱え、経済的にも大変でストレスの多い環境の中で生活しており、自制することが難しい環境で苦闘していることが多いのです。
厳密に見てみると、虐待した者を責めているわたしたちが今、自分の子供をあるいはわたしたちより弱い誰かを、自分の感情を制御できずに、心ならずも虐待しているかもしれません。厳密にエホバに公正を要求すると、わたしもまた、エホバから即座に滅ぼされるべき存在と裁かれてしまうのかもしれません。虐待や不公正そのものを憎みながらも、神は虐待する人間をさえ「ひとりも滅ぼされることなく、すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので」辛抱してこられました。
では、虐待する親やきちんと子供を育てる資格のない者の生殖力を奪ってしまったらどうですか。実は、そう考えた人々がいました。ナチス・ドイツは彼らが好ましくないと考えた人々を殺したり、その生殖力を奪おうとしました。そして、彼らが考えた優秀な若者同士を国家が管理して結婚させ、良い子供を生ませようとしました。あなたはこうした介入をどう思いますか。実のところ、身震いするほど嫌うのではありませんか。
それは、公正と同じほど大切な、人間に与えられた素晴らしい贈り物である自由を著しく侵すことになるからです。それで、エホバは人間を自由道徳行為者に作ってくださったので、今のところ、ご自分の目的に資することでない限り強制的に介入はされないのではないでしょうか。
それでは、エホバは何もされないのですか。いいえ。エホバは愛の神ですから、愛がどれほど良いものを生み出すことができるのかを知らせるために、み子イエスや、彼に固く付き従う者を通して粘り強く教育活動を行っておられます。それはあなたも参加しておられる仕事かもしれません。
それで、エホバは今も不正と闘っておられますし、永久にそれを除き去ることを決意しておられます。エホバは虐待されたあなたを無視したことはありませんし、あなたを一番最後に愛そうと考えておられるわけでもありません。
エホバはわたしたちの造りをご存じですし、またわたしたちの回復に必要なすべてのことを可能にするご自分の霊がなし得ることに自身を持っておられるのです。
それで、エホバはわたしたちや親たちを含めて、寛大にもすべての人が悔い改めることを望んでおられるのです。エホバは虐待するわたしたちや、わたしたちを虐待した人たちを見るとき、その現在の姿だけでなく、その人の中にある将来の姿、教育され謙遜に変化を受け入れ変化した姿を見ていてくださるのです。
焦ってエホバに問題の早期解決を求めたヨブにエホバは優しく諭されます。
「実際、あなたはわたしの公正を無効にしようとするのか。あなたは自分が正しい者とされるために、わたしを邪悪な者とするつもりか」。ヨブ40:8「訴えは[神]の前にあるので、あなたはひたすら[神]を待つべきである」。ヨブ35:14−15
これらを見るとき、エホバが、人間の母親に期待しておられる温かさやもの柔らかさを持って、わたしたちを扱ってくださっていることは明らかです。もちろんエホバは感傷におぼれて、人を傷つけることを恐れて邪悪さがはびこることを弱々しく見守るという方でもありません。必要であれば細心の注意を払って悪い部分を取り除く外科医のように裁きのメスをふるうことをためらわれることはありません。ですからエホバの裁きを待つようにしましょう。最善の時と方法をエホバが選ばれることに疑いはありません。
太陽や月の運行で人間は時を作ってきました。鳥が渡りをする時や、花が咲いたりする時も、かなり厳密に定められています。そして「何事にも定められた時がある」といわれているのはエホバです。「神はすべてのものをその時にかなって美しく造られた」のです。伝道3:1,11
神の僕たちはそうしたエホバの時を待つことをしてきました。ヨセフは牢獄から放たれる時を、ヨブは自分の訴えが取り上げられる時を、モーセは羊を飼いながら解放者として用いられる時を、ヨシュアはモーセがシナイ山から下りてくる時を待ちました。信じることには待つことが含まれています。
待つ時間はどのように過ごしたらよいのでしょうか。じりじり苛立って待ちますか。そのようであってはなりません。時間は輪の時間としても流れているのです。これは毎日のライフサイクルを大切に扱うという意味があります。動物はほとんど自分のライフサイクルを変えません。決まり切ったことをして過ごします。
律法の時代のユダヤ人たちは、朝、城壁で囲まれた町の門から耕作地や牧草地に出かけ、夕方にはそこから帰ってきて早い夕食を済まして、それからしばらくは町の門の所でゆっくりとおしゃべりをして過ごしました。この時は情報を交換したり、歌を歌ったり、若者が老人たちの知恵を学んだりする大切な時だったようです。時はゆっくりと流れていたのです、「エホバご自身が、あなたの出てゆくことも、入ってくることも、今より定めのない時まで守ってくださる」詩編121:8
わたしたちも同様に決まったサイクルを持つことは良いことです。朝起きる時間、食事、仕事、おしゃべり、親しい交わり、…人になる時間、やり遂げたと感じられる活動の時間、祈りや勉強、眠る時間など良い予定を持って、毎日を過ごします。奉仕の時におしゃべりすること、集会の後での何気ない会話を軽んじてはいけないのでしょう。そのように一日を、一ヶ月を、一年を大切にして輪のように流れる時間の中で過ごしながら、同時にエホバの目的が成し遂げられてゆく時間や自分がゆっくりと成長する矢のように流れる時間を待つのです。
輪の時間を生きることは神の目的から目を離すことを意味しているのではありません。ハバククの中にある見張りの者のように「わたしは終始見守っている」のです。「この幻はなお定めの時のためのものであり、終わりに向かって恩をはずませてゆくからである。それは偽ることがない。たとえ遅れようとも、それを待ち続けよ。それは偽ることはない。それは必ず起きるからである。遅くなることはない」ハバクク2:1,3 わたしたちはエホバの目的を離れては生きられませんし、それから目を離すこともしません。
わたしたちはエホバに自分を委ねました。それで、エホバが働かれる時と時間に従わなければなりません。「手を放して、エホバにまかせなさい」。エホバが定めておられることは、わたしたちがいくらもがいても早めることはできませんし、逆らって遅くしてもいけません。自分が期待した時に合わせて物事が進まなくても苛立ってはいけません。わたしたちに関しても、エホバ以上にわたしたちは良い時を選べるでしょうか。またエホバはすべてのことをご自分の意志と調和して行われるので、わたしたちも自分のことだけを見ていてはいけませんし、エホバはわたしたちが考えている以上にわたしたちに関して必要なことが何かも知っておられるのです。
それで、矢のように流れて行く時間にばかり気を取られて、輪のような時間を今の瞬間を大切にしないとすればどうでしょう。期待していた日が訪れた時、その日をわたしたちは本当に感謝して味わうことができるでしょうか。
若い人たちには一日が長く一年も長く感じられます。しかし、寿命の終わりに近づいている人にとっては一日は恐ろしいほど早く去っていくように思えます。もし、自分の命があと一月しかないと宣告されたとしたら、あるいは一日しかないとしたら、あなたはどのように生きるでしょうか。砂漠に迷っている人が水筒の貴重な水を飲むように、わたしたちに残された、有限の、一日の命を感謝して飲もうとするでしょう。その一滴一滴を味わうようにするでしょう。
ですから過去を振り返って、教訓を得るのは大切なことですが、戻ってこない過去を悔やみ、不満を持って過ごし、今を生きようとはせずに、一日一日を無駄に過ごしてはなりません。わたしたちが生きられるのは今だけだからです。
もちろん、わたしたちが将来に備えることは良いことです。しかし、今を大切にしなければ意味がありません。例えば自分に何の楽しみも許さず、老後のために、ひたすらお金を貯め続ける人をあなたは知恵のある人とは見ないはずです。そのお金を有意義に使える時が残っているでしょうか。このように過去は既に過ぎ去っているし、未来はまだ来ていません。今の命を、大切に生きなければなりません。命が有限であれば今を大切にすることはよいことです。
また子どもたちには、今日という日に時間と愛を贈りものにして、あげなければなりません。それを何かのために惜しんで、一日延ばしに延ばしていくと、子どもはもう何も受けとらなくなってしまうかもしれません。今日という日は二度と戻ってこないのですから。ある雑誌には次のようなことが書かれていました。
「わたしたちの社会には、今を生きることを教えてくれるものが全くありません。この社会のあらゆるものはこの問題を避けて通っています。学校にはいった時から、親や先生は、さあ次の用意をしなさいといい続けます。大学にはいると、さあ次は、という圧力が強くなります。幼い時から、先のことを考えるようにならされて、その考え方をどこへ行ってもあてはめるのです。これは考え方の型になりました。どこかへ到達することを望みますが、どこでもいいのです。いつか、自分を夢中にしてくれる人が現れるのを待ち望み、それが終わると、子どもが大きくなって手が離れることを、次には退職する日を待ち望みます。いつも宙ぶらりんで、待ち望んでいた日がいざ来てみるとそれは今日と少しも変わらないことに気付かされるのです」。
「もっと大きな喜びや意識を持って、また高められた自覚を持って生き、それによって、一刻一刻を掘り下げ、それを満足感で満たすという、異なった種類の生活を育むことができるはずです。いやできなければなりません。わたしたちは一刻一刻を軽く見て、明日に目を向けますが、今わたしたちの手中にあって、可能性を秘めてふるえているのは、この瞬間であって、まだ訪れていない将来ではありません。一刻を味わい、注意を払って今の瞬間を生きてはじめて、わたしたちは本当に生きていると言えるのです」。
わたしたちが接する自然や、出会う人々。もしそれに出会うことが最後の機会になるのであれば、その機会を良い思い出として残したいのではないでしょうか。そのように見方を少し変化させてみると、毎日のありふれた光景が色彩を変えてくることが分かるでしょう。確かにわたしたちの世界は多くの驚嘆すべき事柄で満ちていることが述べられています。壮大なもの、小さなもの、精巧なもの、それらは確かにわたしたちの心をとらえますが、それに加えて簡単な物事の大切さが強調して述べられています。
この記事ではさらに、成功は行程であり目的地ではないことを洞察しています。
わたしたちが何かをする時、目標だけに目を留めてそれを追い求めるのではなく、その途中の過程を味わい深いものにするように薦めています。例えば山を登るのであれば、途中の景色や動物、植物、人々との出会いを大切にしていくことができるのです。
そのような簡単で小さな事柄に含まれている輝きを見いだせる人は、一瞬の大切さを知っている幸福な人なのでしょう。
ここで、わたしが出会うことのできた一人の兄弟のことを話したいと思います。小林太也兄弟は、小学校の高学年で脳腫瘍を患い、手術を受け化学療法をし、再発して5年間の闘病の後になくなりました。車椅子に乗ってバプテスマを受けた時の笑顔は忘れられません。ご両親は彼との病院でのやりとりを「小さな小さな箱から」という本にまとめられ、その序文の中お母さんがこう書いておられます。
かなり病気が進行して、私共周りのものが落胆していた頃だったと思います。あらゆる点で不自由になってきた頃、太也が突然「幸福って、中にいっぱい小箱がつまった箱みたいなものだと思うよ。その箱を見つけだすことができたら次々と箱が開くように幸福が見つかるんだよ」。「えぇ?どういうこと?」「あのね、たとえばね、僕、一番奥の病室で最初はいやだったんだよ。淋しいし、トイレは遠いし…。でも遠いということは、たくさん歩くということだし、足の訓練になると思ったら幸福になったんだよ。それにトイレに行くたびに、たくさんの病室の前を通るでしょう。あいさつしたり手を振ったりできるんだよ。あいさつすると僕も気持ちがいいし、他の患者さんたちもうれしいと思うんだ。僕も人から声をかけてもらうとうれしいもん。これも幸福の一つだよ」。「点滴でじっと寝ていなければならない時は辛くない?」「大丈夫。ベッドに寝ていても楽しいんだよ。目がだんだん見えなくなって聖書も読めなくなってきたけどさ、耳を澄ますことを覚えたよ。たとえばね、だれの足音かな、なんて想像すると楽しいんだよ。次はどの看護婦さんが点滴を取り替えてくれるのかなあ…なんてね。パパやママの足音なんかすぐにわかるようになったよ。パパはゆったり来るしさ、ママは一目散にやってくるんだよ。こんな事が、本当の幸福だと思うな。だから、どこにでも見つかるんだよ」。
エホバは幸福をたくさん用意してくださっているんですね。そして欲張りには決して見つけられないように「小さな小さな箱」に詰めておられるんですね。
自分に居場所がないと感じさせる一つの要因に「自分はふさわしくない、汚れている、みんなを汚してしまう…だからここにいてはいけないんだ」と言い張る人がいます。あなたはそう感じることがありますか。それで次に罪悪感のことを考えましょう。
罪とは神の性格、基準、方法、意志などと調和しない事柄をさしています。人間は「神の像また栄光」(コリント第一11:7)となるために作られました。したがって、わたしたちは神の栄光を反映するような行動をすること、創造者の特質を表し、神に似たものになることが期待されています。わたしたちはその基準からはずれる時違和感を覚えます。「何かが間違っている」という感覚です。これが罪悪感ではないでしょうか。
罪悪感は創造の初めから植え付けられていましたか。アダムが罪を犯した直後、自分たちが裸であることを感じたり、エホバの呼びかけに身を隠したりしました。このことからすれば罪悪感は人間として創造されたときから、わたしたちの心と身体のシステムの中に組み込まれていたものと思われます。
ですから罪悪感には益があるに違いありません。ウィラード・ゲイリンは罪悪感は人間にのみ、見られる経験であるという事だけでなく、それが人の中で育まれると、「羞恥心」とあいまってわれわれの種族の特長をなす、最も崇高で、最も寛大かつ人情のある性格となる」と述べています。
ところで、わたしたちは成長していくにつれ、自らのうちに独特の、あるいは自分のひな型を造ります。そして自分をこの内なるひな型と同一のものと見なします。それは、わたしたちが自らを測る基準または理想像となります。この内面的理想像は植え付けられている良心、親との交わりや親の教えと模範によって築き上げられ、また自分が賞賛する他の人の模範や教えも、成長するわたしたちの内面的理想像の形成に一役買うことでしょう。さらに、聖書を研究すればエホバ神のご性格や物事の扱い方、キリストの模範、周囲のクリスチャンの仲間の示す態度、研究の司会者の指導などが内面的理想像の形成に関係してきます。
わたしたちが適切な理想像を持ち、自分がそれに近づいている、調和していると感じられると、自尊心が深まり、自分を愛することができるようになります。一方自分がこの内面的な理想像に調和しないとき、わたしたちは罪悪感をおぼえてしまいます。
ですから、わたしたちはいつでも良心を保つことと罪悪感という貴重な能力を失わないようにしなければなりません。それと同時に、自分の内面的理想像は高すぎないようにし現実的で、健全なものにしていかなければなりません。
過度の罪悪感は問題があります。それは、私たちを価値がない、生きるに価しない、人間のクズと断罪し続けるのです。正しい罪悪感と、過度の罪悪感との間には大きな隔たりがあります。正しい罪悪感は人を罪から離れさせますが、過度の罪悪感はその人を罪に縛り付け、その人を一層の堕落へと導いてしまうのです。
わたしたちの多くは、どうして過度の罪悪感にとらわれやすいのでしょうか。一つには内面的理想像が混乱している事にあります。子供の頃、何か一生懸命に努力しても親に満足してもらえないどころかその日の親の気分でどなられたりした経験を持っているかもしれません。そうであると、非常に不安定な親の感情を損なわないことだけが許されるという、極端に狭い内面的理想像を造らざるを得なかったのです。そしてこの理想像に合わせようと、自分は必死の努力をしたにもかかわらず、その努力が評価されなかったり、「まだ足りない」といわれたり、「お前はダメだ」と殴られたりしていれば、罪悪感にさいなまれるようになったとしても無理はありません。
例えば、アルコール症の家で育った共依存的な傾向を持つ人が、回復のためにアルコール症の人から、物理的または心理的に距離を取って離れようとします。しかし、この時いい知れない罪悪感にさいなまれることを多く経験します。「親を悲しませるようなことは決してしてはいけない。親の言うことから離れることは良くないことだ」という自分の中に植え込まれてきた価値観が、離れようとするわたしたちを断罪するのです。「自分がわがままなだけなんだ」「自分一人が我慢すればすべてうまくいく」というように自分を納得させてしまいます。
その上、嗜癖にはまった人は自分自身が見捨てられ不安にさいなまれているので、相手を丸め込み、罪悪感を抱かせ、自分の言いなりにさせ、自分から離れようとする人を縛り付けようとするのです。「お前は親を悲しませて何とも思わないのか」「クリスチャンが夫に逆らって良いのか」といった感じで、離れようとするわたしたちに罪悪感を抱かせます。しかし、この罪悪感はまったく不適切です。
二つ目の理由として、わたしたちは、家にいるときは何かと不安感を抱いて過ごすことが多かったのです。その上、根拠もないのに「お前さえいなければ」とか「お前が悪い」と非難され続けてきました。そのために、不安と罪悪感の強い結びつきができてしまいました。それで何かの不安を感じると、はっきりした根拠がないのに自分は罪を犯していると感じてしまうのです。そして何か過去の罪を捜し始めたり、理由がないのに「ごめんなさい」とあやまってしまいます。これは感情のフィルターと呼ばれているものです。「わたしは罪悪感を感じる。(実際は不安を感じている)だからわたしは罪を犯しているに違いない」というわけです。この罪悪感も不適切であり、有害です。
三つ目に、わたしたちは育ってきた環境ゆえ、適切なモデルを身近に置いて自分を教えることができず、不適切な行動や習慣をすでに身につけてしまっていることが少なくありません。そして、ある場合子供時代を過ぎてから聖書を学びます。ところが、クリスチャンになった後に期待される内面的理想像はかなり高いものになります。そのために、新しく培った高い理想像や、仲間のクリスチャンと比較することが自分の過去や現在の道徳心、マナー、奉仕時間などの面で自分を劣っていると感じさせ、結果として強い罪悪感を抱かせます。
本来、アダムの子孫でこの現実と理想のギャップに苦しまない人はまずいません。しかし、機能的な家庭で育った人は、「時間をかけてこのギャップを埋めていけば良いのだ」と考えてそれほど悩みません。しかし傷ついたインナーチャイルドは「待ってもらえる」ということがなかなか信じられずすぐに結果を出そうとし、悩むのです。
不安はエホバが、危険から身を守るためにわたしたちに備えてくださっている警報装置です。これは危険なことから自分が逃れるべきか、それとも戦うべきかを教えてくれます。これがないとわたしたちは危険に巻き込まれ損傷を受けます。良心や正しい罪悪感は、間違いに近づかないようにわたしたちを守ったり、すでにしてしまった過ちを認めさせ、謝罪したり、つぐないをさせたり、二度と同じ。過ちをしないように守ります。
誰かから助言された場合を例に考えてみましょう。あなたが自分より上と感じてしまう長老たちや、別の人たちが近づいて、あなたに助言を与えたとします。その時に、わたしたちの多くがまず感じてしまうのは、自分に温かい関心が示されていると感じるよりも、むしろ不安とそして引き続いて起こる罪悪感でしょう。
「わたしはなんと言われるのだろう」「わたしは、どんな風に思われているのだろう」「これから、とんでもないことが起こるのではないか」などです。しかし「ここでストップ!この人たちは、ただわたしに不安を感じさせ、罪悪感を抱かせ、傷つける目的で近づいているのだろうか」と自問してください。不安が生じたとき、それを罪悪感としてではなく単なる不安の感情として直面するようにしてください。
壊れた警報装置のように必要のないところで鳴ってしまう不安は、わたしたちを身動きできないようにしてしまうことがあります。同様に、良心とそれによりもたらされる罪悪感はあくまで警報装置であり、方向を変えるように促す役割があることを学びました。しかし、過度の罪悪感は、警報があたえられ本人は変化を始めてさえいるのに、「すぐに、結果を出せ」と責めている状態であることが分かります。
たとえば高速道路で、車のスピードが制限速度を超えると警報が鳴る場合があります。しかし、周囲を見回して、安全のうちにスピードを緩めれば、警告の音が止むのが正常です。しかし、過度の罪悪感が働く人は、罪を認めて、いけないと気付いた後でも強い罪悪感で苦しめられることが多いのです。では、自分に言い聞かせてください。「ストップ!わたしは罪を認めたし、変化も始めました。時間をください!」エホバは喜んで待ってくださいますし、そのことの益も十分に知っておられます。
たとえ罪悪感は適切であっても、もし罪悪感が過度に強すぎると、現在の自分を圧倒してしまう結果になり、これは健全とは言えません。クレア・ウィークス博士は「過去の誤ちによって現在の行動が麻痺してしまうなら、それは破滅的になる」といっています。
過度の罪悪感が破壊的になるのは「罪悪感という罰金を払いさえすれば、それと引き替えに悪を行い続けても構わないという」サタンの罠というべき曲がった見方に陥らせる所にあります。アルコール症の人が自分の嗜癖に罪悪感を抱き、それを紛らわすために、また、アルコールに向かうというような行動をしてしまう場合がそれです。
勿論わたしたちは、だれもクリスチャンとして、自分の良心の叫びに耳をふさぎ、良心を焼き金で押されたもののように無感覚にしてしまうことは避けようと決意しているでしょう。
では次にマスターベ一ションを一つの例にとって、罪悪感を考えましょう。傷ついたインナーチャイルドは挫折感、不安感や孤独感を抱きやすいものです。また夫婦のコミュニケーションがうまくいかないために性生活の不満を持ちやすく、これらを紛らわすために、この習慣に陥ってしまい悩んでいる方は少なくありません。
確かに、これは汚れた習慣の一つです。(コリント第二7:1)しかし、淫行のように重大な罪ではありませんし、実際、聖書はこれについて直接に何も述べていません。それでマスターベ一ションを行ったとしても、許されない罪を犯したという事にはまずなりません。無論、聖書は汚れを避けるように勧めていますから、この習慣を克服するように努力するのは価値のあることです。
エホバは「わたしたちが何度もつまずく」こともご存じです。それで、努力して離れようとしていて、時に逆戻りしたとしても、非とされていると感じる必要はないのです。エホバはわたしたちが過度の罪悪感によって自分自身を責めるようにとは求めておられません。むしろわたしたちが問題を正すための処置を取るときに喜ばれるのです。
「ご覧なさい、あなた方が敬虔な態度で悲しんだそのことが、何という真剣さをあなた方のうちに生み出したのでしょう。そうです、汚れをすすぐことを、そうです、憤りを、そうです、恐れを、そうです、切望を、そうです、熱心さを、そうです、悪を正すこことを!この問題に関して、あなた方は自分が貞潔であることをあらゆる点で立証しました」。コリント第二7:11
パウロは罪の問題を真剣に考えた人でした。それゆえにエホバは彼に霊感を与えて、罪の問題を明らかにされました。では読む内容に、少し新鮮さを覚えるため、そして、わかりやすさのためにリビング・バイブルを使って考えてみましょう。
パウロは人間が罪という過酷な主人の奴隷状態になっており、それから自由になっている人は一人もいない、ということをはっきりさせ、それが人生の現実であるとも語っています。
「私は自分が全くわかりません。本当は正しいことをしたいのにできないのです。反対にしたくないこと、憎んでいることをしてしまいます。自分の行いが誤りであること、破っているおきてそのものはよいものであること、それはよくわかっています。しかし、どうにもできません。それをしているのは、もはやわたしではないからです。悪を行わせるのは、私のうちに住みついている、私より強力な罪なのです」。
一古い罪の性質に関する限り、私は自分が全く腐敗しきっていることを知っています。どんなにもがいても、自分で自分に正しいことを行わせることができません。そうしたいのですが行うことができないのです。良いことをしたいと思ってもできず、悪いことをしないようにと努めても、どうしてもやめられません。自分ではしたくないことをしているとすれば、問題点は明らかです。すなわち、罪がなお私をしっかり捕らえているのです」。
「正しいことをしたいと思っているのに、どうしても悪いことをしてしまう。これが人生の現実[わたしの本質にある法則 詳訳聖書]であるように思えます。新しい性質をいただいた私としては、神さまの意志どおり行いたいのです。ところが心の奥底に潜む低劣な性質には、何か別のものがあって、それが私の心に戦いをいどみます。そしてついに私を打ち負かし、いまだに私のうちに住みついている罪の奴隷にしてしまうのです」。
「これで私の実状がおわかりいただけたでしょう。すなわち、新しいいのちは「正しいことをせよ」と命じているのにいまだに住みついている古い性質が、罪を犯したがるのです。ああ、私はなんとみじめで哀れな人間でしょう。一体誰が、このひどい低劣な性質の奴隷状態から解放してくれるのでしょうか。ただ神様に感謝します!主イエス・キリストによって、私は解放されました。この方が自由の身にしてくださったのです」。ロマ7:9〜25
「今イエスを信じるようになりました。でも罪を犯す自分が変ったと思えません。一体どうして自分が罪から自由にされていると言えるのでしょう!」確かに、わたしたちの本質は変われません。相変わらず罪とは縁が切れず、邪悪さから離れられません。エホバも、わたしたちがどんなに努力しても自分の力で罪から縁を切れないことを知っておられます。わたしたち以上に、罪の力の強さを知っておられるからです。
そうではあっても、イエス・キリストの贖いの価値は大きいのです。これはどんなに強調しても、しきれません。ここでイエスの教えてくださったたとえを現代風に考えてみることにしました。仲間の罪を77回まで許すように求めた教えの後に出てきます。
王から寛大に許された男は100デナリの借金をした仲間の奴隷を許しませんでした。1デナリは一日の賃金です。わかりやすくするために仮に一日の賃金を1万円としましょう。確かに100万円は棒引きにするには小さい金額ではありません。しかし、そのために投獄を求めなければならないほどの額には思えません。わたしたちは確かに、時々仲間の罪を許すことに困難を覚えるのです。気持ちよく忘れることができません。
では、王で表されているエホバはわたしたちのどの程度の負い目を許されましたか。1万タラントつまり6000万デナリです。わたしたちの寿命が80歳であるとすると命の日々は3万日です。この計算からいくと、エホバはわたしたちの寿命の一日一日につき、2000万円の借金を帳消しにしてくださっていることになります。毎日2000万円です!これはすごい額ではありませんか。マタイ18章23−35
考えてみるとわたしたちはそれほどまで、エホバが初めに創ってくださった時の栄光から離れ落ちていることになるのでしょう。イエスの願いはすべての人類の罪を帳消しにする額なのです。ですから、わたしたちが永遠に生きるようにしてくださっているのは、わたしたちのどんな功績によるのでもなく、ただイエスの贖いに代表されるエホバの過分のご親切によるのだということを改めてはっきり銘記していなければならないのです。
たいていの場合、だれも自分の理想と自分の現実とのギャップに悩みます。一つは理想が高すぎること、またもう一つは自分を醜い、汚い、低いと見てしまう思考の型のためです。人はこのギャップをどう克服しますか。
理想と現実のギャップに対してある人々が取る方法は次のようなものです。
@強迫型人格の人−絶えず、自分を理想に追いつめて、ゆっくりすることを許さない。こういう人は罪悪感にさいなまれ、おどおどと生きていきます。
A境界型人格の人−理想の自分でいるかのようにうぬぼれたりすることもありますが、次の瞬間に劣等感にさいなまれます。周囲にあわせてころころ変わるカメレオンのような生き方、二重の裏表のある生き方をしていきます。
B自己愛型人格の人−自分をうぬぼれます。うまく物事が運ばないのは自分のせいではないといい張ります。間違っているのは周りの人々で、うまくいかないのは周りのせいにする生き方をしてます。
これらの三つの生き方はどれも有効な生き方ではありません。現実にしっかりと目を向けて直面し、自分の醜さを見つめるのは痛みが伴います。しかし、この苦しさを抱えていける人が、自分にも他人にも優しくなれる人です。
たいていの人はこの理想と現実のギャップの克服を十代の後半から二十代の半ば位までに行います。その間はとても苦しい、また動揺する時代を過ごすものです。この時期を「疾風怒濤(しっぷうどとう)の時代」と呼んだ人もいます。クリスチャンの場合でも理想像が高すぎたり、また融通のきかない親に見張られていたりすると、この時期が長引いたり、間違った処理の仕方に流れてしまったりすることがあるのです。
ではこのギャップをどう克服すれば良いですか。正しい克服の仕方は自分の醜い部分を「仕方がない」と受け入れることです。これが自分なのだ。今のところこれ以上になることはできない。もし、無理にしようとすれば自分を殺す以外に方法はない。「じゃーまーいいか」「この醜い自分をそのままにして生きていこう。すぐに変えるのは無理なんだから。そして時間をかけてゆっくり理想像に近づけよう」。ユーモアを交えて自分をいたわりながら生きていく、これが有効な生き方でしょう。
「義に過ぎる者となってはならない。また、自分を過度に賢い者としてはならない。どうして自分の身に荒廃をもたらしてよいであろうか。邪悪に過ぎる者であってはならない。また、愚かな者となるな。自分の時でもないのに、どうして死んでよいであろうか。一方をつかむことのほうが良いが、他方からも手を引くな。神を恐れる者はそれらすべてと共に出て行くからである」。伝道の書7:16−18(新世界訳)
エホバはわたしたちが罪(邪悪)から離れられないこと、それと共に生きていかなければならない現実を良く知っておられるのです。それで謙遜に、自分をエホバに明け渡して「わたしは自分の力で自分をどうすることもできないのです。あなたの尽きることのない過分のご親切と、イエスの貴重な贖いのゆえに、あなたの聖霊がわたしの死んだも同然の心と身体に働くようにしてください。そして、わたしをいのちの道に導いてください」と祈る以外にないのです。エホバは失敗に打ちひしがれ、嘆き続けるより、あなたがその中から、たとえ許しを何度願ったとしても立ち上がることを喜ばれるのです。
「神の御霊によって導かれるものはだれでも、神様の子供だからです。それで私たちは、奴隷のように、いつもびくびく恐れる必要はありません。神様の家族の中に、子供として暖かく迎え入れられたのですから、実の子どもらしく振る舞い、神様を『お父さん』と呼ぶべきです」。ロマ8:14,15
たとえ、あなたが機能不全の家庭に育ったとしても、親を恨んではいけません。わたしたちは誰も完全な親に育てられてはいないし、しばしばあなたの親はもっと過酷な環境で育てられていることが数少なくないのです。そしてあなた自身がつらい経験の中で培った我慢強さ、集中力、他の人の痛みを知る力などはあなたの貴重な財産力となっているからです。ヨセフの経験したつらい出来事は、ヨセフにすばらしい資質を与えることができたのです。(詩編105:17〜19)また親の悪い模範は、いつでも子供に悪い影響を与えるとは限りません。
こう記されています。「ここに人を自由にする偉大な真理があります。エホバ神は愛を表す無限の能力を持っておられ、わたしたちは神の像に造られています。ですからわたしたちはエホバを愛することを選べます。そしてその愛−つまり、自分のこれまでの生活ではなく、自分の一部となった欠陥でもなく、また間違ったことを行う受け継いだ傾向でもなく−その愛こそが自分の将来を決める鍵なのです」。エホバを愛することはわたしたちにすばらしい変化を与えうるのです。人は愛する者に倣いたいという強い願いを持つからです。
周りの人は気楽に人とつきあい生きているように見えるのに、自分は孤独で寂しく苦しくて仕方がない。絶えず「親しい人がいない…自分の存在を消したい…わたしが生きていては迷惑になるばかりだ…自分の存在が恥ずかしい…自分は出来損ない人間だ」と感じてしまうわたしがいます。これは過度の罪悪感とは違う過度の羞恥心が原因しているのかもしれません。
罪悪感が、何らかの行為をしたことあるいはしなかったことについて引き起こされるのに対して、羞恥心は自分の存在に対して引き起こされる感情です。特にこの感情は赤の他人に対しては起こりにくく、ある程度自分に期待を寄せてくれるような人との間に起こってくる感情です。自分が期待を裏切っていると感じる時、また大抵は自分が秘密にしていたことが知られてしまって自分の本性がばれてしまったと感じる時に起こりがちです。このような感情が強くなると「もう学校に行けない。集会には行けない。誰にも合わせる顔がない」と感じ「自分はダメな人間だ」といったレッテルを自分に貼りやすくなります。ではこうした羞恥心とどのように付き合ったらよいかを考えておきましょう。
もちろん、親しくなりたい人に自分のいやな部分を隠し通し、良い面だけを見せて生きることは出来るのかも知れません。でもいつ自分の本当の姿が知られるかが恐ろしいし、黙っているのも苦しいので、結局親しくなりたいと思っている人から自分を孤立させてしまいます。自分をさらけ出すことは、ほとんど普段接触のない人であれば出来ます。
もちろん誰に対しても自分をさらけ出す必要はありませんが、もし本当に親密な関係に入りたい相手の場合には、わたしたちは自分の恥ずかしさに耐えて、それを徐々に明らかにしていかなければなりません。自分の秘密、本当の自分、自分のプライバシーを分け合っていくこと、これが自分の居場所また友だちを作っていく大切な方法なのです。
プライバシーを尊重することは、「礼儀として大切である」ということ以上の意味があります。プライバシーの尊重は文化が生み出したものではなく、むしろ生物が生来持っている基本的なものであるようです。赤ちゃんでさえ、見知らぬ人から近づかれると、怖くなくても顔を隠す様子が観察できます。
ですから、もって生まれた羞恥心、恥ずかしいという感覚は、内気で傷つきやすい領域に誰かが踏み込んできたときに、危険を知らせて送られる合図なのではないでしょうか。過度に自分が露出されていると感じるときにそれから自分を守る手段なのです。そのため、正しい羞恥心を保護することを目指したプライバシーの尊重は個人的人格と自我を保つために欠かすことはできません。それは人間の精神の成長を助け、人生に深みを与え個人の尊厳を重んじる点でかけがえのない大切な事であるように思います。
誰からも入り込まれずに、独りで安全に過ごせる場所と時間、人間にはそれが必要なのですが、機能不全の家庭では家族間の境界が不鮮明であり、このプライバシーは大切に扱われることが少なかったのです。
「エホバの目はすべてのものの上にある」「すべてのものはエホバの目に露わであり」と書いてあります。では神は、隠しカメラのようにすべてのものを観察し尽そうとされているのでしょうか。人間の権威者が隠しカメラを使って、すべてのものを観察しようとするのは、自分の立場が脅かされるのを恐れるからです。しかし、エホバは全くその心配がありません。そのような訳で、エホバがすべてのことを隠しカメラで撮っておられるとは考えにくいのです。善と悪の基準を教えた後は、それに沿って歩むことを期待し続けておられるのです。もちろん、エホバの目を逃れ得るものはないわけですが、これはエホバがすべてのことを個々に暴露していかれるということを意味してはいないと思います。
エホバが個人を観察される場合を洞察してみると、一つの場合は、エホバご自分の関心事がきちんと果たされるのを見守られる時がそうでしょう。別の場合は、自分の保護のもとにある誰かが危険にさらされていて、その援助が求められている時がそのような場合でしょう。このような場合や取り分け、ご自身のみ名が関係している時などは、エホバは敵が事態をほしいままにすることを決して許されません。祈りに応えてくださる形でふさわしければ介入されます。
ですから、エホバは観察しておられても、そっとしておかれることもお出来になるのです。「もしエホバが目を留められることがとがばかりであれば誰がエホバの前にたつことが出来るだろうか」とあります。エホバはわたしたちが邪悪であることは承知しておられるとはいえ、それをそっとしておき、当面わたしたちの良い点に目を留めてそれをわたしたちであると見てくださるのではないでしょうか。
エホバは一人でおられた時、さびしく感じたり、不足を感じたわけではありませんが、自分と分け合う関係を持つものを創造しようとされました。低人と分け合うこと、与えること、受けること、これらが愛の形なのではないでしょうか。わたしたち人間は神のかたちに作られたので、神と分け合うこと、他の人間や動物や植物や自然と分け合うこと、それに与えること、それから受け取ることに喜びを感じます。そうして愛を感じ、成長していく能力を持っています。ヨハネ第一1:3
エホバがわたしたちと何かを分け合うとしても、無理にそうされることはありません。愛ある親は子供が成長するにつれて周囲にある興味深い物事に子供の関心をひいて、それに目を留めるように導きます。しかし子供がそれに関心を示さなければ無理に押しつけることはありません。その子が危険にさらされるのでなければ、子供が次に関心を示すまで待つことでしょう。しかし同時にエホバはわたしたちの中にあるすばらしい能力を知っておられるので、それらを引き出したいと願っておられます。そしてご自分が創造された興味深い物事を知り、それと関わることも願っておられるのです。エホバの愛はわたしたちがわたしたちの中の神の像を引き出すことを楽しみにして待つことなのです。
エホバに見習う親はたとえ子供が自分に対して何かの秘密を持ったとしても、それをそっとして、見守る時を持とうとするでしょう。子どもはいつか、その秘密を親と分かち合うようになるでしょう。卵が成長する時には卵は「卵の殻」の中にいなければいけません。その時間と空間が必要です。それと同様に、ひなが卵からかえって自分の力で殻から出て来る時を待たなければならないように、わたしたちのインナーチャイルドも保護を受けて初めて成長し、他の人と対等で親密な関係を築くことが出きるようになるのではないでしょうか。親密な関係を築くには信頼して待つことと時間がかかるのです。
親密さを築くためには幾つかのプロセスが必要です。次のプロセスに進むことが大事なのではなく、自分にとってどのレベルの関係が気持ちが良いかということです。様々の人と様々のレベルの関係を持っていることが人間関係が豊かであるということです。またそれぞれのペースがあるので互いが不安にならないペースを探ること。そして相手が自分の望むレベルを越えようとしたりそのペースが速いと思ったときはストップをかけても良いのです。その上で決められるプロセスは次の通りです。
@挨拶などをする対等な関係
職場の仲間、隣人など
Aおしゃべりをする何かを共有できるものがある関係
趣味の仲間、子育てを共にしているなど話し合うがそれ以外のつきあいはしない。
B気を許しあう関係
ちょっとした悩みや心配事をうち明けるなど相手に弱みも見せていく。
ただし衝突しやすいがオープンに謝ったり許し合えると信頼は深まる。
C何でも分かち合える友人関係
じっくり互いの話を聞いて、そのままを受け入れてもらえる。
つらいときにそばにいてもらえる。信頼と愛情がある関係。
D性的に惹きつけあう関係
早い段階で性的関係までにいってしまうケースもあるが、失敗も多い。
BやCをじっくり味わってからこの段階に入るのが安全かも知れない。
E心と体と人生を共有する関係
わたしたちの成長には、守られるべき秘密が必要であると考えてきました。それが守られないと、わたしたちはいつでも自分の恥部がさらされているように感じて、過度の羞恥心を持つようになるのです。過度の羞恥心を持つと他の人に近づくことが困難になるし、隠さなくてもいいことまで隠すようになります。そしてコミュニケーションが難しくなって孤立しやすくなります。それでは、守られるべき秘密にはどんなものがあるのでしようか。
@セクシャリティー
わたしたちの住んでいる時代は、性が暴露され、商品化さえされるようになってきました。こうして、性において、互いの間に恥じらいの感情がなくなってしまうと、性のパートナーが物質化されてしまい、性は欲動のはけ口にしかなりません。このために、性が本来持っている機能、親密さや一体感が失われて、快楽が刹那的になってきました。
性は幼児期から少しずつ発達していきます。幼いときの性は大切に保護され、内密のものとして保たれ、個人の人間性が成熟し成人になり異性と対等の人間関係が恐れなく築けるようになったとき開花されるべきものでしょう。
幼児期の性的虐待は痛ましい経験になります、秘密にされるべきものが無理矢理に開かれ、奪われていきます。この経験は、「世界は安全ではない」「人は信頼できない」との抜きがたい信念を植え付けられることになります。同時に、自分は価値がない、大切にされるのに価しないと信じるようになります。
本来、性は新しい命の誕生に欠かせないものであるだけでなく、夫婦の親密さを増し加えるのに役立つ大切なものです。しかし、性がゆがんだ形で利用されてしまうと、人間の最も内密にされるべき部分がおかされてしまうことになるので、その被害者は今度は、性を自分または他人の欲望を処理する道具にしてしまいがちになります。結果として、性の非行に走ったり、性を商品として利用したり、他人を誘惑するのに用いるようになることがあります。あるいは、他の人との親密な関係を築くことが難しく、夫婦の性関係においても不感症になることもあります。
神の言葉が「近親の裸を見てはならない」としているのはこのプライバシーを守ろうとしているからに他なりません。また、「『愛がその気になるまでは、わたしのうちにそれを目覚めさせたり、呼び起こしたりはしない』と誓いを立てさせました」とソロモンの歌でうたわれているのも、性をゆっくりと開花させることの益を神の民が知っていたということでしょう。
A自分の神との関係や祈り
秘かなところで祈るように勧められています。
B出生、臨終や死
親しい人だけが立ち会います。
C身体の機能
排泄、食事の姿は見られたくないものです。
D自己の誇り
名前、顔、身体
E成功と失敗、資産
有形と無形を問いません
F親密さ
家族の団らんや恋人の睦まじい中には、入り込んではいけません。親密さを築くには、時間と手間がかかります。そのようなところに第三者が許し無く、割り込んではいけません。
G子どもの秘密
悪意がなくても、秘密は漏らされると子供の信頼を損ないます。
H同世代間で保つべき秘密
例えば、経済上の問題や、親の恋愛関係、親の不仲など。子どもに打ち明けるとこれらは子どもには負いきれない秘密になります。それは、同年代の間で相談されるべきです。
I夫婦の秘密
例えば子どもが自分と親とどちらが大事かと尋ねてくることがあります。自分が配偶者を愛していることを、言葉と行動で示すべきでしょう。そうしないと子どもは親への心配のために親から離れにくくなります。また親とのふさわしい境界が作りにくくなるのです。もちろん子供への愛は惜しみなく確証してやりましょう。
I家族の秘密
上記の領域の秘密は家族として守るべきものです。
この章を通して、わたしたちが固有のプライバシーを持っていること、しかし人間は他人から孤立するのではなくそれを分かち合う時に喜びを持てることを学びました。しかし何かを分かち合う相手や、何を分かち合うかはそれぞれが選んで良いことも知りました。わたしたちはこうした自由を重んじなければなりません。もちろん同時にわたしたちの持つ自由はわたしたちが関わる人も持っているので、それも尊重したいと思います。
自分のプライバシーや秘密に関してその中に誰かを入れるか閉め出すかの鍵はあなたが持っています。過度の羞恥心を持ちやすい人は自分と他人の境界線を形作るジッパーが外に付いていると感じます。他人はいつでも好きな時にわたしに侵入してくると感じるのです。でもジッパーは内側に、自分の中に付いているのです。あなたが許可を与えた時にだけ誰かを入らせることが出来るのです。あなたがジッパーの鍵を持っています。それを決して忘れてはいけません。嫌な時は「ノー」といって拒んでよいのです。
生きていれば様々の感情が湧いてくるのは、当たり前です。悲しくなったり、うれしかったり、不安になったり、ホッとしたり、ねたましくなったり、ちょっと誇らしくなったり、様々の感情は生まれては消えていきます。あなたは自分の感情に責任を持つことはできないし、そうする必要もありません。
例えばお腹がすいているときに、おいしい食べ物のにおいがしてきます。この時に、唾液がたまってくるのは当たり前です。その時自分を「いやしい」とか「恥ずかしい」とか思う必要はありません。それは身体の自然の反応で、どうすることもできないものです。ですから、唾液がたまれば、わたしたちはそれを飲み込んでしまえばいいのです。でもそれを部屋の中や、相手に吐きかけることはしてはなりません。それで唾液と同じように、感情も自分を傷つけず、また他の人を傷つけたりしなければ、どう表現しても構わないのです。「女はもっと怒れ!男はもっと泣け!」という言葉は、男女がそれぞれ感じているにもかかわらず、表現しにくい感情をうまく言い表しています。
人を好きになることは良いとしても、人を嫌ってはいけないのではないかと考える人もいます。しかし、誰かを無理して好きになろうとすると身体が拒否するので、その人を避けようとしてしまいます。好きとか嫌いとかの感情ももっと素直に受け入れても良いのではないでしょうか。わたしたちは他の人と関わる時、もし安心感を感じられれば、その人を好きになります。安心感を脅かす者、その人をわたしたちは本能的に嫌い、避けようとします。
わたしたちは自分より弱い人たち、その人たちからは脅かされることが少ないので好きになります。自分より強い人がもし自分を大切に扱ってくれれば、その人が好きになるでしょう。エホバはわたしたちよりはるかに優る方ですが、わたしたちを大切に扱い、わたしたちに侵入しようとされません。わたしたちの目が曇らされていなければ、エホバに安心感を抱くことができ、エホバを好きになるのが当然です。「あなたの謙遜さがわたしを大いなるものにします」とダビデはエホバに語りました。(サムエル第二22:33)
嫌いな人を嫌いでいるのは当たり前なことです。変えようとする必要は当面はありません。無理に好きにならなくてもいいのです。この人は苦手なんだ。だから嫌いなんだとはっきりさせましょう。不思議なことにいつまでも誰かを嫌いでいるのはまた難しいのです。その人が自分を脅かすような存在でなくなる時、例えば自分が力を付けてきた時、わたしたちはその人が好きでも嫌いでもなくなるでしょう。別に警戒する必要もなくなるからです。
では怒りはどうですか。普通怒りは、良くない感情のように言われます。それは、怒りが強い感情なので、表現されるときに他の人を傷つけることが、よくあるからです。それで、少しでお怒りを表すと、「怒るんじゃない」とか「みっともない」などと、すぐに怒りを消しさるようにし向けられてしまいます。しかし、怒りにも正しい場所があり、怒りを感じられないことは、その人の自尊心を大いに損なうことがあるのです。
それで、すべての感情と同様に、怒りにも正当な場所があります。そしてそれを理解しておくことが大切だと思います。まず、最初に義にかなった正しい怒りがあることを調べてみましょう。
怒りは神の際だった特質ではないものの、聖書の中でエホバが怒りを感じられたり、表されたりする方であることは繰り返し描かれています。故意に行われた不義に対して激怒されます。例えば、外人居留者や、やもめや孤児など立場の低い人を虐待した場合、エホバはその人々の「叫びを間違いなく聞く」と言い「わたしの怒りはまさに燃える」とも語られます。出エジプト22:21〜24
イエスも、子供を愛しておられたので、子供たちがイエスに近づくことを悪気なく止めようとした使徒たちに、「イエスは憤然とし」子供たちを抱き寄せておられます。マルコ10:14〜16
モーセも怒って律法の板を投げつけましたし、ピネハスは厚かましくも不道徳を会衆に持ち込もうとしたカップルを怒って刺し殺しました。この行為はエホバによって是認されています。こうした点からも分かるように、怒りは不正が行われたときに感じるべき正しい感情といえます。
怒りの表し方について考えるときに、攻撃性のことも考えておきましょう。動物が持つ攻撃性はエホバから与えられています。それは、自分や群や家族を守ろうとするときに発揮されます。しかし、動物には一般的に抑制力も同時に働いているので、いったん相手が引き下がれば、それ以上は攻撃できない仕組みも与えられています。−これを詳しく知りたい人には「ソロモンの指輪」コンラート・ローレンツ著を勧める
動物と違って、人間には本能的に怒りを抑制する回路が知られていません。怒りにかられると、言いたくなかったことを言ってしまったり、するはずではなかった事をして、相手やひいては自分を傷つけてしまったと言う経験は珍しくありません。それで、怒りは理性でコントロールする必要があります。怒りに正しい働きをさせたら、さっさと引き上げる技術を身につけなければいけないのです。しかしこれはすごく難しいことです。パウロは「憤っても、罪を犯してはなりません」(エフェソス4:26)と書いています。怒りが火に例えられるとおり、有用ではあっても扱い方を間違えると甚大な被害をもたらすことも覚えておかなければなりません。
今、「怒りの感情」を取り上げるのはなぜでしょうか。それは、機能不全の家庭では長い間、怒りの感じ方や表し方に関して不適切なモデルを見てきたために、怒りの感情に関して極端な態度を学習してしまっているからです。
例えば、人からさんざん踏みつけにされているのに、怒りを感じることなく言いなりになってしまう場合がありませんか。そうかと思うと一方では、相手が何か一つの点を主張しているだけなのに、それを自分に対する全面的な攻撃だと感じて、あわてて自分を守ろうとして、その相手を無視したり、怒りをぶちまけてしまいます。
こんな時穏やかに「それは違うと思うよ」とか「自分はそれにはついていけないよ」とか、一言いえばいいのに、それが言えないために、相手をいつまでも恨んで根に持ち、色々の場面で相手に抵抗をしたり、意地悪く振る舞って、言いたいことを暗に伝えようとすることなどよくあることではありませんか。
自分を主張することは養育的でない親の前ではとても難しいことでした。そのような家庭では、あらゆる感情、とりわけ怒りを感じることは危険ですらあったので、怒りの感情すべてを抑圧して否認して来たことがよくありました。こうした人が回復に向かうには、どうしても一度は否認している感情を認めて表現していくことが大切です。怒りを含めて様々の感情をゆるめて、感じるようにしていかないと回復には向かえません。
恨みは、怒りが正しく扱われなかったために生じてくる思考の型であって、単なる感情ではありません。もし、怒りが正しく扱われていれば、誰かや、何かの組織を恨むことはなかったでしょう。それで、怒りが恨みの形に凝り固まってしまわないうちに、怒りを感じ、それをふさわしく表現し、恨みが自分の思考の一部にならないようにしましょう。
怒りは長く強く抑圧されてしまうと本来、怒りを向けるべき相手に向かわずに、自分に向けられ、うつの感情になることもあります。「怒っている自分が悪い」「自分など生きていない方がいいのだ」と考えて自分を責めてしまいます。これは、怒りが自分に向いてしまっているのです。本当は誰が悪いのでしょうか。たとえ自分に悪いところがあるとしても、100パーセント、自分が悪いと自分だけを責めなければいけないのでしょうか、60/40位の割合で相手にも責任があるのではないでしょうか。公正の感覚、怒りの感覚を正しく働かせて、自分だけを責めないようにしていきましょう。
怒りに占めるべきふさわしい場所があることを認め、また自分のうつにも抑圧された怒りの影響があることを知り、こうして状況によって正しく怒りを感じられるようになっても、それですべてかうまくいくわけではありません。次には怒りを正しく制御しながら表現することができなければなりません。
怒りは誰にとっても一番表現が難しい分野なので、時間をかけて技術を習得しましょう。よくある失敗は、自分が機能不全の家庭の出身で、親から受けるべき愛情や訓練を十分に受けられなかったことを知ると、自分の弱点の原因をすべて親のせいにしてすぐに親への攻撃を始めることです。これはかえって相手の反発を招いて、一層の困難に直面することになるでしょう。それで、回復に取り組んでいるあなたは、親に腹が立ったとしても、それをすぐに親にぶつけないようにしてください。怒りはどう表すのがふさわしいのですか。経験のある人はこんなことを考えます…
●「言いたいことを心の中で言う」(詩編:4:4)方法があります。 自分は怒っている、そしてそれは正しいことだ、と言い聞かせます。声を出して言えばすっきりするときもあります。怒りを感じて、しかし今それを表現すべきでないと感じたら、その場所を離れて、外に出て叫んだり、歩き回ったり、身体を動かして、エネルギーを発散させると良いでしょう。怒りの感情はアドレナリンを放出しているので、身体を激しく動かせばそれを収まらせることが出来ます。
●信頼できる円熟した友に自分の気持ちを打ち明ける(箴言15:22)こともできるでしょう。でも、うわさ話をするためではありません。
わたしについていえば、野外奉仕でひどい言葉をかけられて強い怒りを感じたことがありました。その後でこの感情を、一緒に奉仕している仲間と少し分かち合って(つまりその人の悪口を多少漏らして)その怒りの感情がどの位の時間でおさまるのかを測ってみました。15分位で半分になり30分ぐらいでほとんどなくなりました。その感情を過ぎ去らせましょう。思い出さないように、ほおっておくのです。
●可能なら、その相手や悪行者と穏やかに話し合えるかもしれません。(マタイ5:23,24)
アサーティブネスとは積極的な自己主張のことです。あなたが不公正に扱われて怒りを感じたとしても、もしすぐにそれを受け入れてもらえれば、あなたはアサーティブネスを身につけていたことでしょう。実際に物事を正す手段を講じて、それが受け入れられれば、怒りは解けてしまうだけでなく、むしろ自分は自分を守れた、正しいことを守れたという満足感が生まれるでしょう。このように、自分が正しいことをしっかり主張することをアサーティブネスといいます。
子どもの時に、家庭で正当な自己主張をきちんと受け入れてもらえなかったりすると、その後の自分の生活の中で、例えば学校や職場やグループ、また緒婚して作る新しい家庭の中で自分の気持ちを主張することをとても難しく感じます。
また日本人は、率直に物を言うより、えん曲に断ったりする事を文化的に高く評価してきました。とりわけ女性がはっきりとした態度を示して行動することは、慎みがないと考えられてきました。確かにこうした文化的な影響は無視できにくい力があります。しかし結局きちんと自己主張ができるアサーティブな男性や女性は信頼されますし、何にもまして自分自身に自信をもって生きることができるので幸福に過ごせます。ぜひこの生き方を身につけましょう。
真にアサーティブな人は自分を敬い、他の人を敬います。ですから自分の意見をはっきり伝えます。また他の人が自分に対して率直に発言することを恐れずに聞くことができます。自分が間違っている場合は、いつでも自分の意見を悪びれずに撤回します。自分を変えるときもがっかりしません。間違いは人生の一部です。相手が間違っていると思えば、最後まで自分の意見を変えません。そして相手が変わらなくてもそれはそれで受け入れます。
「愛するものが負わせる傷は忠実であり、憎むべき者の口づけは懇願されるべきもの」。箴言27:6
「あなた方の”はい”という言葉は”はい”を”いいえ”は”いいえ”を意味するようにしなさい。これを越えた事柄は邪悪なものから出るのです」。マタイ6:37
イエスは敵に対しても弟子に対しても攻撃的なところは少しもありませんでしたが、率直に語られました。それを聞いたある人たちは腹を立てたかもしれませんが、後からその言葉の真実さに気づいて変化する事ができた場合があります。
今まで一般的に、アサーティブという言葉は高ぶりと結びつけられていることが多くありました。確かに自分勝手とかわがままで押しが強いという意味でのアサーティブは良くありません。この点、注意が必要でしょう。しかし、アサーティブは「堂々と話す」という意味で用いられる場合もあるのです。それで、「堂々と毅然とした生き方」は謙遜さと両立できるのです。
次にアサーティブでない典型的な行動様式を見てみましょう。あなたはそのタイプに当てはまることはないでしょうか。
食って掛かる攻撃的なタイプ
一見断固としている印象を与えますが本当の自尊心を持っていることはまずありません。他の人の能力や価値を小さく見せて、それで自分を大きく見せようとします。他の人の気持ちを尊重するという気持ちの余裕がありません。(攻撃的)
踏みにじられても黙っている玄関マットのようなタイプ
いつでも引き下がる傾向を持っていて、意志決定が難しく人生の選択の責任を避けます。自分を犠牲者と見たがり、いつでも何か、または誰かのせいにします。自分をいつも卑下し、ほめられても受け入れず人と対決することを極力避けます。(ノンアサーティブ)
攻撃的だが策士のように持って回った方法を取るタイプ
吟味して選んだ嫌みを言ったりして、相手にダメージを与えるが証拠は残さない。自尊心に欠けていて正面切って人と対決はしない。だれも信頼せず周囲の人間を操って拒否されたり傷ついたりするのを避けます。人を尊敬しているように見せかけるが、欠点や過ちは見逃しません。(ノンアサーティブ)
この三つの生き方はいつも決まった形とは限りません。その時によってまた相手によって変わります。たとえば外では黙って耐えている人が家では攻撃的になったりすることはよくあります。
ロールプレイ(役割練習)が役に立ちます。気のあった仲間とロールプレイをしてみましょう。実際に声に出していうとその気持ちの良さや、逆に今までの自分とは違った生き方なのでしっくりこない点にも気づくでしょう。またロールプレイでできてもすぐに実地に移せるわけではありません。やさしいことから始めましょう。またすでに長い関係にある人との間で実行するのは難しいので、食堂や店で店員さんに対してしてみると良いかもしれません。
●言うことを特定する
欲しいもの、して欲しいことを率直に言います。遠回しにいったり、本当はそれを言いたいのに別のことを言ったりしませんか。
●言いたいことを言い通す
無視されたり、反対されたりしても、言い続けます。二度三度と繰り返しているうちに自分に自信が出てくるものです。
●相手の反応を受けとめる
相手ははぐらかしにかかったり、口論をけしかけたりするかもしれません。でもそれに乗ってしまうとこちらの言い分が弱くなります。しかし、相手に全く反応せずにただこちらの言い分を繰り返していては力がありません。相手が言っていることはきちんと聞こえていることを知らせましょう。
●相手の価値や良い点を見つけてそれを話す(武装解除法)
人は一般に自分のことを言われると非難されているように感じることがあるので、こうすると相手が身構えるのを避けることができます。
どんな時でもアサーティブでなければならないと、かえって緊張したりうまく物事が進まない場合もあります。自分が得になるのであれば、相手に譲っても構いません。家族の中では子供に対しても、配偶者に対しても、親に対してもアサーティブでいることが良い結果を生まないと自分で判断すればその権利を行使しない自由と権利をあなたは持っています。
人間が仲間と共に生きていくように創られたとき、誰かが私たちの境界を踏み越えるようになることは予想できました。そして、境界が超えられたときにおかしいと感じるのが怒りなのであり、それゆえに、平和的な仕方で自己主張(アサーティブ)することが人間としての当たり前の姿なのです。
アサーティブネスの権利
これはアサーティブでいることの権利の宣言のようなものです。どこかに貼っておいて、いつも見るようにすると良いでしょう。これが普通にできるようになると、あなたは怒ってもすぐにそれを忘れられる自由な生き方を身につけていることになります。
わたしには自分のニーズ(必要)を言い表し、自分の選んだ生活上の役割 とは別に一人の人間として自分で物事の優先順位を決める権利がある。
妻や母、娘としての役割が自分のニーズに優先されてしまうことが多いのではありませんか。それを優先させても自分のニーズはなくならないので慢性の疲労とストレスに姿を変えて表されてしまいます。
わたしには聡明で能力のある対等な人間として尊敬され扱われる権利がある。
女性は自分の知性や能力を認めたがらないことも多いのです。自分の知性を気楽に示す女性でも、技術的な専門知識がないために相手と対等になれないと感じると、この権利を忘れやすいのです。自分の意見を男性の前でも話してみましょう。自信がつきます。
わたしには自分の感情を言葉で表現する権利がある。
アサーティブネスの訓練では自分の感情をその場で自覚することを学びます。もちろん、感情を表現することと、感情に従って行動することとは違うことも知らなければなりません。
わたしには自分の意見と価値観を述べる権利がある。
ほとんどの場面で、絶対に正しい意見、絶対に間違った意見というものはありません。ただ理解の相違があるだけなのです。それで周囲の人と違っても自分の意見を持つことはできますし、他の人がなんと言おうと、自分が喜びとするもの、自分が価値があるとするものを捨て去る必要はありません。あなたはあなたで良いのです。
わたしには「イエス」「ノー」を自分で決めていう権利がある。
たとえば映画に行くことにしました。誰かが「なぜ行くの」と聞きます。「行きたいから」とだけ言えば十分です。いいわけをせずに、「好き」「嫌い」を言っても良いのです。
わたしには間違いをする権利がある。
間違いをするのは愚かな人間だと考え、自分の誤りを認められない人がいます。「あなたが正しい」「わたしが間違っていた」と素直にいえる人は立派な人です。間違いは人生の一部です。間違いをしないのは死人だけと覚えておきましょう。
わたしには自分の考えを変える権利がある。
アサーティブな選択の何にも代え難い権利です。自分自身のためにする選択は遠慮はいりません。一度自分がいったことを変えることは恥ずかしいと考えたり周囲に期待されているからと考えて、自分の考えを変えられない人が多いのです。もちろん、約束したことであれば責任を取らなければならないこともでてきますが、自分の考えを変えることは、いつしてもいいのです。
わたしには「わかりません」という権利がある。
自分で知らないことを恥ずかしいと考えて、何となくうなずいてしまったり、尋ね損なうことがありませんか。誰かから尋ねられたとき答えられないと相手に悪いと思いますか。「知らないことを知らない」といえる人が一番の知識のある人だといわれます。賢い人とは、誰からでも教えを受け入れる人のことです。
わたしには欲しいと思う時、欲しいと言い、したいことをしたいという権利がある。
本当は欲しいものがあるのに言わないで、それをはっきり言った人のことを図々しい人と考えて恨むより、自分が欲しいものは欲しいという方がよいと思います。もちろん他の人が優先されることがあったとしても、それを恨むことはしません。次は自分の番になるかも知れないからです。親はいつでも誰かをひいきしていると考えて、何も言わずに、相手を深く恨んでいることはないでしょうか。
わたしには他の人の悩みの種を自分の責任にすることを断る権利がある。
自分の責任でもないことを容易に引き受けてしまうことが、よくあります。こうすることによって、相手に受け入れられたいという願いを満たすからです。しかし、そうすると、優先しなければならない自分の感情や、自分の配偶者や子供たちのことか二の次になったり、あるいは全然顧みられないと言うことが起こります。悩みを聞いてあげるとしても、あなたが行動する必要はありません。あなたが行動することにより、その人を依存的な無責任な人にしてしまう可能性があるのだということはしっかり知っておかないといけません。
わたしには人から是認されることを当てにせず人と接する権利がある。
この最後の権利はすべての権利の土台となります。アサーティブネスに欠ける行動にもっとも共通していることは他の人から是認されることの必要性です。女性は幼い頃から、良い子でいること、優しいことがよいと期待されるために自然と相手に気を遣うようになってゆきます。それでどちらかと言えば女性は大人になってからも是認されなかったりほめられなかったりすることを恐れます。
相手から予想される拒否を恐れて、自分自身のニーズを口にしない、感情を表現しない、自分の権利を主張しない、自分の気の向かないことを断らないのはこの理由です。良いと認められることに依存したり、その必要を感じたりすると人間がダメになります。だれからも良いと認められない経験をしても、それでも世界が終わるわけではないことを経験すると精神的にずっと楽になるのではないでしょうか。
自分に自信が持てない人は多くいます。音楽の天才モーツァルトもあれほどの天分に恵まれながらも、「自分のことが好きか」と周りの人に良く聞いていたと言われています。自分に自信が持てないことは苦しみで、周りの人とつき合うことがうまくできないし、つき合っていても自分を出せず、さびしい思いをします。自分の弱点である無力感や時には絶望さえしてしまう自分とどうつき合ったらよいのでしょうか。それを一緒に考えてみましょう。
まず、エホバがわたしたちを愛してくださるのは、わたしたちがエホバの基準に達したので愛されているというわけではなく、今の罪深い状態のうちから愛されていたのだということを覚えておきましょう。エホバは、わたしたち人間が自分のうちに必ず持っている、宝石のような神に似る可能性に気がついてそれを磨きだしていくことに、関心を払っておられます。確かに、わたしたちは今のままでも十分に愛されています。でも「愛されている子供として、神を見倣うものとなりなさい」(エフェソス5:1)という言葉に励まされて、もう少し自分を変化させたいと願われるでしょうか。
誰にとっても、自分の弱点を喜んで認めることは難しいものです。しかしそれ以上に自分の良い点を評価することも難しく、それを正確に知ることのできる人も少ないのです。ある詩人は「他の人が我々を見るように自らを見ることのできる特殊な能力をどこかから与えられたなら、どんなに素晴らしいことか」と言っています。良い点を正しく評価し、欠点を少しずつ良い方向へと変化させてゆくことはだれにも求められていることでやりがいのある事なのです。
アメリカの心理学者セーリックマンは犬の実験を行って、不快な刺激を受け続け自分でそれを回避することが出来ない(変化させられない)状況が続くと、次の三つのマイナスの効果が表れることを発見しました。
@環境に能動的に反応しようとする意欲が低下する
A学習する能力が低下する
B情緒的征混乱が起こる
ところで、回避できないショックにさらされて無力になった犬に、もう一度、効力感を持たせることは出来るでしょうか。無力になった犬は自分からは、あらためて学習しようとしません。それで、無理矢理強制して、ショックを回避できること(つまり、選べること)を教えて込んでやると再び力を得て、ショックを自分から避けるようになります。また、一度自分でショックは避けうるものだということを学んだものは、避けられないショックを受けても、悪影響を受けません。
傷ついたインナーチャイルドにとって嗜癖的に生活することは日常生活の一部になってきました。@自己の評価が低いので完璧に物事をやりこなそうとしたり、過度に責任を負ってきました。A見捨てられるのが不安で、さまざまの方法で他の人をコントロールすることによって安心感を得ようとしました。B自分の感情を凍らせて隠し、他の人に近づかないように孤立してきました。C権威を持つ人が恐いので身を隠そうとしたり、そうした人からの承認を得ようとして自分の感情を挿し殺してもご機嫌を取ってきました。D他人との間で自分が果たすべき限界が分からないので、世話を焼きすぎてきました。しかし、この嗜癖的な考え方や行動は、自分に益をもたらさず、他の人をかえって自分から遠ざける結果になってきました。無力感は増すばかりです。
では犬に効力感を与えることが出来たのであれば、人間の場合はどうでしょうか。ある行動をすればよいのにできない時、例えば過食やアルコール嗜癖のように、ある行動を止めたいのに止められないという時(自分が選択できないと感じる時)に無力感が出やすいのです。これらの人が効力感を得るためには、自分で変化させることができたと思える経験を持つことが大切です。誰かが助けを与えて強制してでも、違った行動があることを知らせて、それを選ぶ実演をし、次に簡単な場面で練習し、小さな成功を得ることを覚える時、自分を変えることができた体験がその人に自尊心を与えるのです
「神よ、わたしをくまなく探り、わたしの心を知ってください。わたしを調べて不安の念を起こさせるわたしの考えを知ってください。」詩編139:23
この聖句は、不安がわたしたちの考えから引き起こされることを教えています。何か困難に直面したとき、以前の自分のうまくできたときの経験や、他の人をエホバが扱われたときの仕方などを思い出したりできれば、その考えはわたしたちの感情に安心を与えて、不安やゆううつは少なくなるでしょう。うつが初めにあるのではなく、うつにする考えが先にあるのです。
どうしても、ストレスとなる事柄に直面するとき、わたしたちは自分は力がないと自分を責めたり自分には助けがないといった結論に簡単に結びつけてしまいがちです。この時にはこう感じ、こう考え、こう行動してしまうというパターンがあるようです。しかし、注意深く考察すると、わたしたちの感覚や思考や感情や行動の流れの一つ一つのステップでは今感じたり、考えたり、行動していることとは違った選択をすることは可能です。しかしたいていの場合、わたしたちが選ぶのは、これしかないというような考え方そして習慣的に引き起こされてくる感情、嗜癖的な行動です。むしろ、一つ一つのステップを理解して、自分にとって有利で建設的な考え方、有効な感情、自分に自信を与える行動を導き出すことができるのしょうか。
うつや不安な感情を引き起こしてくる、ゆがんだ考え(スキーマ)は人生の最初から形作られ、小児期の半ばまでに確固としたものとなると考えられています。家族、宗教、民族、性、地域といった集団である個人が学習し、経験したことの蓄積がゆがんだ考えになります。ゆがんだ考えは活動していたり、休んでいることもあるのですが、休止状態にあるゆがんだ考えはストレスが加わると活性化され行動を制御するようになるのです。
普段なら落ち着いた考え方や行動が出来ていた人が、緊急な状態ではすごく子供っぽい感情や判断をしてしまうことは良く知られています。ひょっとするとあなたはいつでもストレスが多いので、ゆがんだ考えに支配されている人かも知れません。ゆがんだ考えを書き換えることが出来るのでしょうか。以下のゆがんだ考えのうち幾つくらいがあなたに当てはまりますか。
認知のゆがみの定義の一覧表
全か無か思考:ものごとを白か黒かで考える思考法。自分が行ったことが完璧でないなら、自分を全くの敗北者と見なす。
一般化のしすぎ:たった1つの良くない出来事があると、世の中すべてがこれだと考える。
心のフィルター:その人は黒い色つき眼鏡を心にかけて外を見ているようです。意識に上ってくるのはいやなことばかり、うつ状態の時には明るいことが見えてこず、どういうわけかマイナスのことばかりを選択して思い出してしまいます。
マイナス化思考:明らかに良いことがあっても「それは偶然です」「自分はそれほどのことはしていない」と言ったりします。
結論の飛躍:
@心の読み過ぎ ちょっとしたことで「あの人はわたしを嫌っている」「きっと怒っている」と相手の真意を確かめずに悪い方に断定します。
A先読みのあやまり 「こういうことがあったので、これからもうまく行かないだろう」と結果を悪い方に予想してしまいます。拡大解釈と過小評価:自分の失敗や恐れ、不完全さを大きく評価してもうダメだと思う一方、他の人がする自分に対する不当な要求などは簡単に見逃してしまい、こうして自分は不適格な人間で、人より劣ると結論します。
感情的決めつけ:「自分は罪悪感を感じる。だから悪いことをしたに違いない」「自分には喜びがない。ということは自分はクリスチャンとして失格だ」というように感情を事実の証明の根拠のように考えてしまう思考法です。これには、副産物として決断の引き延ばしが関係する場合があります。「外出する気になれない。だから出かけられない」
すべき思考:原則や提案をかたくなに規則として自分や他人に当てはめようとします。だいたいこうしたことは守れないことが多いので、繰り返し語られるものなのに、この基準に合わない自分に対しては自己嫌悪や罪の意識で賛め立て、他の人に対しては苦々しく感じたり、裏切られたように感じたりするものです。
レッテル張り:間違った認知に基づいて完全にネガティブな自己イメージを創作してしまいます。一般化の極端な形ともいえます。「母親失格!」食べ過ぎるので「豚!」と呼んだりします。あなたは大声で他の人に向かってそういえますか。でも自分には繰り返しこの言葉をぶつけるのです。
個人化:研究生が進歩しないとき「わたしの教え方が悪い」。子どもが思うように進歩しないとき「自分のせいだ」と何でも自分の落ち度にしてしまうやり方です。いくらかその要素があっても、それはその人に責任の多くがあるものです。
「いやな気分よさようなら」バーンズ 星和書店
毎目の生活の中で、自分が落ち込んで無力に感じたら、その時の考えを知るようにしましょう。そして別の考え方をすることが出来ないかを考えます。合理的な考えを自分にたいしてすることが難しければ、自分の友だちの誰かが同じように考えているとしたら、どのように慰めたり励ませるかを考えて下さい。それでも無理なら誰かにそのことを相談して、書き込んでください。
この書き込みを習慣づけると、だんだん書かずにいても自分の考えのゆがみに気づいて切り替えられるようになるものです。
変化の過程で、後戻りは避けられないのかもしれません。自分で唯一のものと思った希望が破れると、もはや希望はないと感じるかもしれません。先読みしたり一般化して、自分は決して成功しないと思いこんでしまうかもしれません。そして、ともすれば変化しようと努力を始めたときよりも悪くなってしまうこともあるでしょう。途中でつまづいて、後戻りしても絶対にあきらめないでください。今の行動の仕方や特性のかなりの部分は、自分で選択も制御もできなかった時に身につけた、いわば押しつけられたものだったからです。そのことを忘れてはいけません。元の状態に戻そうとする力は依然として働いています。あなたはこれからも自分が望んだのでない影響力によって形作られることを望んでいますか。絶対にあきらめないでください。
ゆがんだ考えに抵抗することを学んだ後でもっと積極的に、自分を良い方向へ変えていくこと、自尊心を高めることを取り入れていきましょう。
ほうびが与えられると、仕事に張り合いがあるということが一般に考えられますが、実際には報酬が与えられたり、外的な評価(点数をつけられること)によって評価されると、やる気をなくしてしまうことも知られてます。しかし、自分で、自分のためにほうびを用意することは、新しい意欲を与えやる気を持続させるでしょう。でも自分が良いと思えるなら、適当なゴールを作ってそれに達したら、自分で自分をほめたりほうびを用意しても良いでしょう。
自分がしようと思っていたことを、相手からするように言われると急にやりたくなくなることもあるでしょう。むしろ、自分から積極的に行動できたときに「やった」「成し遂げた」という感覚が生じやすいのです。「これは自分がやりたいことだ」という自分の中からわき上がるようなものを持ち、それを成し遂げたとき効力感は高まります。何か難しいことをする必要はないのです。まず身の回りから出来ることはないですか。
○部屋の掃除をする。○ガラスや床をみがいてみる。○洗濯をする。○本棚を整理する。○机の中を片づけていらないものを捨ててみる。○花を飾ってみる。○絵や好きな年句などをきれいに書いて飾ってみる。○タンスを片づけていらないものを捨ててみる。○少し念入りに化粧をしてみる。○爪をみがく。○普段と違った服を着て出かけてみる。○いつもと違ったルートでわざと遠回りして出かけてみる○あたりを見回して、花や動物や子供の姿をさがしてみる。○カメラを持って出かけてみる。○自転車に乗る。○公園に行く。○ラジオ体操をしてみる。○誰かを訪ねる。
こんな何気ないことを今日選べたことがあなたの考えや感情に、今、不思議な力を与えるものなのです。
何かの仕事を成し遂げたときに、それを理解してもらえることは達成感に大きく寄与します。また、同じ問題に取り組んでいる人が互いに助け合ったり教え合ったりすることは、効力感を高めてくれる経験になります。自分のことをほめてくれる人なんかいないと決めつける必要はありません。あなたのつらいことを聞いてくれた人ならば、あなたの進歩の方がもっと聞き易いものです。何かを成し遂げたら「これが出来たんだよ」と言いなさい。子供らしく自慢しなさい。「大したことではない」と否定して、自分一人だけのものにせず、他の人に話してほめてもらって下さい。何かを「そっとする」のはエホバの魅力的な性質ですが、その面を見習えるほどあなたが強ければ、初めからこんな文章を読む必要もないのです。
何か欲しいものを手に入れる、例えば買い物などをしたときなどは一時的に達成感がありますが、意外にその達成感は長続きしません。むしろ、自分の能力が真に向上していると感じるときには、満足が得られます。また、物事に熟達すると、たとえ、それを他の人が余り理解してくれなくても、気落ちしたりはしないものです。そのような域に達するには、ある程度粘り強く続けることが必要です。自己向上感を増し加えるためには以下のことが関係しているのです。どんなことから取り組めますか。毎目の生活でどのように自尊心を高められるでしょうか。
●創造性:自分なりのものを作り上げているとの自覚
●愛による自己実現:ほめられるか、金銭的に評価されるかは別にして自分
のしていることが他の人に役立っているという自覚
●自己統合:自分が自分らしくある、自分があるべき姿に向かっている感覚
継続して行えることを選びます。例えばワープロの技術を身につけたり、外国語を学ぶ、楽器の演奏を学ぶ、楽しく有益な読書の習慣を持つ、その他何か創造的な趣味を持つ、聖書の通読をする。飽きないで少しずつでも続けます。
パートタイムの仕事をしていても、家事を行うにしても、仕事の手を抜くと自分に満足が得られません。どんな仕事でも、もっと上手にすることを学ぶようにしてください。それは自信を与えます。箴言22:39
人が自分に何かをしてくれるのを待つ人は自尊心を培えません。イエスは『だれでも偉くなりたいと思うものは(他の人々のための)奉仕者でなければなりません』と言われました。マルコ10:43−45 聖書の真理を与えることは他の人々を助ける方法であり、しかも個人的に深い満足を与えます。
若い人は、積極的な人や自分を評価してくれる人と共に時を過ごす必要があるのです。あなたの福祉に真の関心を示してくれる人との交わりを大切にしてください。1方、世話を焼きすぎる人、高慢で無礼な人、あなたを機械の付属品のようにしか扱わない人との交わりを減らしてください。相手の「そっとしておいて欲しい」「今は一人でいたい」という権利を尊重しながらも、関心を示して友情を育てて下さい。自分の感じたことや考えたことを分け合ってください。感謝を表してください。ほめてください。
エホバとの親密な交友こそ、わたしたちに安心と生きる意義を与えてくれます。
『人が神を愛しているなら、その人は神に知られている』のです。エホバは「かくれんぼ」をしている時のように、わたしたちにご自分を見いだすヒントを与えながら、見つけてくれるのを待っておられるのです。コリント第一8:3
自尊心を持つ人は、いつも自信にあふれている人、ではありません。アラン・フロムは「自分自身に関して適正な概念を持つ人は、悲しみに沈むことなく、かといって喜びで有頂天になる必要も感じない。…その人は悲観的ではないが、その楽観的な考えも制御されないわけではない。無謀ではなく、特別の恐れを全く抱かないわけでもない。…自分は常に素晴らしい成功を収めるというわけでもなく、何をやっても失敗するというわけでもないことをその人は悟っている」と述べています。
果てしなく続くように思えるうつの感情。毎日繰り返される思いやりのない言葉や行動。からだと心の痛み。これらは容赦なくわたしたちから耐える力を奪うように感じます。わたしたちは「もういい」「終わりにしたい」という言葉が自分の中に起こるのを聞き、震えます。「生きるか死ぬか」毎日が戦いです。
強制収容所の中ほど、人間に無力感を持たせる場所はないでしょう。その中でエホバの証人は、最も勇気を持って生き延びた人々でした。同じ経験をした精神学者ビクトール・フランクルはスピノザのエチカから引用して「苦悩という情緒はわれわれがそれに対して明晰な表象を作るやいなや消失してしまう」と言っています。自分の苦悩には意味があると考えるときに、苦悩は苦悩でなくなってきます。意味はないとするか、意味があるとするかはわたしたちの選択にかかってきます。
また彼は、「未来を失うと共に人はそのよりどころを失い、内的に崩壊し、身体的にも心理的にも崩壊してしまう」と言います。また「人生にあと何が期待できるものとして残っているのか」という問いではなく、「人生は自分に何を期待しているのか」と問い続けること、これが生きる力を与えてくれると語ります。そして、その生きる意味は、その問われる状況の一回性と唯一性とによって特徴づけられており、その具体的な状況が、あたかも運命のように自分に要求する苦悩を、他のだれでもなく、自分が担わなければならないのです。だれもその苦悩を代わって苦しみ抜くことは出来ません。待っている仕事、待っている愛する人、その人がある限り、自分はまだ生き続けなければならないのです。
フランクルは絶望しがちな仲間の囚人たちに次のように語りました。「われわれが戦いに勝つ見込みがないと言うことは、戦いの意味や尊厳を少しも損なうものではない。この困難な時と、また近づきつつある最後の時に、われわれ各自を求めるまなざしで見下ろしているのだ…一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者…そして一人の神が。そして、その者はわれわれが彼を失望させないことを期待し、われわれがみじめに苦しんでいるのでなく、誇らしげに苦しみ死ぬことを知っていることを期待しているのだ。…そして、犠牲はそれがこの世では何の意味も持たないように見えたとしても、何かの意味を持っているのだ」。
あなたは、世界でたった一人しかいないあなたなのですから、あなたの人生のストーリーの証人にならなければなりません。苦悩を含めてあなたの人生をおわりまで見つめてあげてください。
自分は「決して良くならない、落ちこぼれだ」というような敗北的なレッテルを貼らないようにしましょう。レッテルを貼るとそれ自身が自分をみじめにし、わたしたちから力を奪います。わたしたちを無価値なものに思わせること、それはサタンが持ち込んだ罠です。もう一度言います。それはサタンが持ち込んだ罠です。だから抵抗しなければなりません。自分が無価値だと思わせる考えに抵抗して、生きてゆくことは辛いでしょう。また先が見えないので勝ち目がなく思えることがあるけれど、誰も一足先のことは分からないのです。サタンに敵して戦っていることは、エホバに喜んでいただけることなのです。
必死に変化しようと願っても変えられないものはあります。パウロも自分の肉体の棘を取り除いてくださるようにエホバに何度も祈りましたが、エホバの答えは「わたしの過分の親切はあなたに対してすでに十分である。わたしの力は弱さのうちに全うされるのである」というものでした。コリント第二12:7−9
苦悩を負つて生き抜くことを、それがあなたの負っている荷であるゆえに、エホバはあなたがそれを担うことを期待しておられます。わたしたちのする忍耐はエホバにとって貴重なものとして蓄えられています。わたしたちがエホバに対する忠節を守るゆえに流す涙や耐え忍ぶ苦しみすべてをエホバは蓄えて覚えてくださいます。それはエホバの目に貴重なものなのです。
「わたしの涙をあなたの皮袋に入れてください。それはあなたの書にあるのではありませんか」詩編56:8
わたしたちの自殺を見て歓ぶもの、それはサタンです。わたしたちを現在の状況に追いやって、絶望するように仕向けているサタンを歓ばせることだけは決してしたくありません。ここでもわたしたちは、ぎりぎりのところで選択する自由を持っており、それを選択した勇気は価値があるのです。
疲れてしまってこんな生活は続けられません!これは敗北ですか。いいえ。敗北ではありません。リカバリーの第一歩が、「底つき」つまりもうダメだ、と感じることから始まるといわれます。不完全な人間に要求しえない義の基準を設定して、自分の力で何とか到達しようとするパリサイ的な生き方、「安息日なしの奴隷生活」これは神が意図しておられることではありません。だから失敗して当たり前です。もちろん、投げやりな生活をすることではありません。自分の力に頼らず、エホバとあなたを援助する人の言うことに耳を傾けて、そのやり方でやってみるということです。
でも「どうしても感じてしまう敗北感」を紛らわせるために、食べ過ぎたり、飲み過ぎたり、賭事やテレビに夢中になったり、性にふけったり、暴力をふるいます。これは敗北ですか。
これは「敗北感」を紛らわして反対方向に行ってしまう賢くない生き方です。一方の極端から他方の極端に走ってしまうこの生き方は、よく見ると行き着く先が死と破滅です。勝ち目のない目標に迷い込んでいるので「一時的な安心感」はあっても、その後にもっと大きな「敗北感」があります。自分でも本当のところ「敗北感」を免れたいのか、むしろやけになって「敗北感」を味わいたいのかはっきりしなくなります。これは敗北ではなく「敗北感病」といった方がよいと思います。この袋小路にはまったら、まずジタバタしないことです。すぐに死ぬわけではないし、今のところそれが自分の不安を紛らわす手段になっているのでしょう。自分を食い物にする友ではあるが、いないよりはましな友です。不安を起こさせる原因を見極めて、それを積極的な考えに変え、自尊心を高めるために色々なことをやってみましょう。そうすれば、自分を食い物にする友と連絡するのが減っていくのではないでしょうか。
悪い習慣に戻るようにわたしたちを弱らせるのは、問題そのものではなく、問題の結果である落胆や敗北感であることが多いのです。敗北感の持つ強い力を軽く見てはなりません。
「あなたは苦難の日に自分が失望していることを明らかにしたか。あなたの力は乏しくなる」。箴言24:10
一時的に一歩後退したり、たとえ数歩後退しても階段の一番下まで戻ってしまうわけではないでしょう。後退を経験したときには、たいてい罪悪感を感じるものですが、その時にその気持ちを膨らませて「自分はダメだ。良いものを受ける価値がない」といった極端な見方を避けましょう。大げさな罪悪感は戦いを再開する力を奪い取ってしまいます。この時代に物事を完全に行える人はいないし、イエスが来られたのも、完全な人のためではなく罪人を請け戻すためであるということを忘れてはなりません。
罪悪感は再び同じことを行う都合の良い口実になるということが知られています。「罪悪感は…人に罪を繰り返させる。人は罪の代償を払ってしまえば、再び進んで代償を支払う気がある限り罪を繰り返してもかまわないと考える。その代償とは何か。さらに強い罪悪感である」。大切なことは悪い習慣を克服することであって、途中で何度後戻りを経験したかではありません。
この点に関して万一以前の習慣に戻ってしまったとしたら、どんな方法を用いるかを前もって決めておくのは賢明です。そのような非常用の計画があると、ごく早いうちに後戻りとの戦いに戻れるのです。戦いに戻りなさい!敗北感の餌食になってはなりません。
ある姉妹は実の父親と実の兄から言葉の暴力と文字通りの暴力、性的な虐待を受けて育ちました。女の性がいやだったので、男性のような格好をして、ガリガリにやせました。やせていることが安心感を与えました。若いときから死を意識することは彼女の日常になりました。しかし、生きて見返してやろうと思いました。ただ家から出たかったのであまり良く知らない人と同棲し結婚しました。子どもができて母性に気づかされました。まだ生きたいとは思えませんが、子どものためにも「死んでたまるか」と思っています。
こうした人を誰が「敗北者」と呼べるでしょうか。これはサタンの犠牲者の一人です。でもその絶望の中で生き延びてきたのですから、あなたは単なる犠牲者ではなくサバイバー(生き延びた人)なのです。
死にたくなるとき、多分あなたの中にはあなたを馬鹿にする声が響いていることでしょう。「おまえは価値がない」「おまえは死んだ方がいい」「みんなの迷惑になっている人間だ」「誰からも必要とされていない」その言葉はあなたの周囲にいた人たちが、利己的で愛のないサタン的な考えを分別無くあなたに、しかも批判する能力の無い子供時代のあなたに語ってきた嘘です。あなたはそれをはねかえすことが出来ず、批判する力もなく信じ込まされた嘘だったのです。あなたの中の馬鹿にする言葉に耳を貸してはいけません。背教者の言葉と同じように毛嫌いして下さい。
敗北感に打ちのめされて抜け出口ないと感じる時、試みること
@どんなことでそう感じているかを見極めてください。
A「これは自分だけの経験ではない!」といってください。わたしにも他の人と同じように間違いをする権利があります。
B敗北感を閉め出す決意をしてください。
C何か建設的なことを無理矢理始めなさい。人は一時に一つのことしか集中できません。消極的な考えは壊れたレコードのように何度も同じ曲を聴かせます。別の曲を無理矢理かけるのです。
DEMDRが役立つかも知れない。まず、いやな気分を起こさせた場面を思い起こして、次に毎秒2回くらいの早さで目だけを左右に強く動かす。24回で止めて目をつぶり、感情を評価する。これを10回位繰り返す。これは嫌な感情とある場面とのつながりを無理矢理切る方法です。後で良いイメージを描いてそれを残すように、同様の操作を行います。
エホバはあなた個人を深く愛しておられます。ご自分の家族の一員になれるよう招いてくださっているのです。それを感じ取ってください。感じとれるように、たゆまず祈りに含めてください。
「あなたの神エホバがあなたの中におられる。強大な方であり、救いを施してくださる。喜びを抱いてあなたのことを歓喜される。その愛のうちに沈黙される。幸福な叫びをあげてあなたのことを喜ばれる」。ゼパニア3:18
冬の間、地面の中に眠っているように見える球根の中に確かな命があるように、エホバよ、あなたの深い沈黙のうちにも確かな愛があることを、わたしがいつも感じられるようにどうかわたしを成長させてください。
インナーチャイルドの成長には時間がかかります。わたしたちは誰もが新しい人格を身につける過程を踏まなければなりません。自分を真に愛することを学び、エホバと親密な関係を築き、他の人と、のびのびとした人間関係を楽しむこと、そんな目標を持ってゆっくり着実に歩きましょう。わたしたちは、そんなあなたをいつも見守り応援しています。