ものみの塔の教えの呪縛から解放されるのに役立つ本
元2世は子供の頃からJWの信仰を親と組織に強制されて育って来ていますから、1世の研究生のように、JWの教理が正しいのか間違っているのかという、ごく当たり前の疑問は子供の頃に完全に粉砕されていて、「JWとは問答無用で正しい!」という認識に立って信仰してきた人が多いです。
そういう2世がJWを辞めた場合は、「やっと宗教をやめられた、もう宗教はこりごりだ、宗教なんか2度とごめんだ」と思う人が多いんですが、困った事にJWの教理を体で理解しているので、子供の頃から刷り込まれたJWの教理を簡単には捨てれないんですよ。
でもね、元2世はJWを辞めるという選択をしたにもかかわらず、辞めた後までJWの教えに縛られ続けるのはどう考えても変です。そんな昔の教えはさっさと捨てて、過去に縛られないで自分のこれからの新しい人生を作って行きましょう。
そういう時に役に立つのが、キリスト教の牧師の書いた本です。
キリスト教の牧師の中には、JW問題という聖書が原因で起きた問題に対して聖書を扱う側にも責任があると考える牧師がいます。そういう牧師は、「どうか聖書の正しい知識を知って欲しい」という動機でいろいろな著作物を自費出版しています。そして、「聖書の正しい知識を知ったなら、JWなんかさっさと辞めてキリスト教の正しい信仰をして欲しい」という気持ちで一生懸命本を書いています。
ところが困ったことに、ほとんどの元2世がこの考え方に反発しちゃうんですよ。その理由は感情的な問題がほとんどで、とにかく過去のJW組織のすり込み教育の成果で、キリスト教というのは偶像崇拝であり大いなるバビロンであり拝金主義の宗教でありって教育されてきましたから、キリスト教に対して問答無用で嫌悪感を持つように育てられています。こいつはJWを辞めたからってそうそう簡単に捨てれるものじゃありません。いくら教会が正しいことを言ってようが気楽に教会に遊びになんて行けません。
イエス・キリストは一本の杭で死んだのに、教会は十字架なんてとんでもないものを使ってますから、十字架を見ただけで十字架アレルギーが起きてしまい、教会の建物の中に入るのに足が震えたなんて人がいます。
かくいう私もJWを辞めて25年以上経ってから教会に遊びに行って、礼拝の時に十字架を眺めていると、心臓のあたりに重いプレッシャーを感じるくらいですから、数年前にJWを辞めたばかりの元2世に教会に遊びに行こうって言たって、勧めるだけ無駄な努力ってもんです(笑)
そういう心の事情のある人達は、ものみの塔の呪縛から解放されるために、キリスト教の牧師の書いた本を都合よく利用しましょう。
そんな事言ったら本を書いた牧師が怒るだろって? そんな事ないです。つーか、そんな事は全然関係ないです。著者が何を書こうが著者の自由ですが金を払うのは読者です。読者が金を払って買った本をどうしようが読者の自由です。それについて著者は四の五の言う権利なんてないです。
牧師の書いた本はたいてい「たまには教会に遊びに来てくださいね」って前提で書いていますが、そんなのは一切無視です。本を読んで教会に興味を持ってなんとなく行きたくなった人は勝手に行けばいいし、牧師の持っている情報を得る目的で本を買ったのであれば、必要な情報を得てそれでおしまいでもOK。本を読んだからって教会に行く義務なんか感じる必要はありません。
教会に行けって言ったって行かないのが元2世ですから、そこら辺は牧師の書いた本の「お約束」と割り切って読みましょう。
キリスト教会の自費出版の本は通常の本屋の出版ルートには乗りません。通信販売が原則です。電話やFAXや手紙、メールやウェブ注文フォームで注文後、本の在庫があれば数日後に商品が到着します。そして商品到着後に同封の振替用紙で送料込みの金額を支払うシステムになっています。
一風変わったお互いの信頼関係による取引ですから、注文の際はお間違えのないようにしてください。
■ ものみの塔の予言・教理の移り変わり 草刈定雄,著
■創設者ラッセルの虚像と実像 「ものみの塔の源流を訪ねて」 中澤啓介,著
■「十字架か杭か」 中澤啓介,著
■聖書は「輸血」を禁じているのか
中澤啓介,著
↑いのちのことば社刊、「輸血拒否の謎」 [Internet Archiveへのリンク。注文はもうできません。]
2002/04/27 公開