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なぜ2世はムチなんだ?前編

元2世達が集まるオフ会で必ず話題になる話の1つにムチの体験話があります。ご存じのようにJWとは児童虐待宗教ですから、子供の頃ムチで死ぬほど叩かれた元2世達がいっぱいいます。

特にひどかったのが80年代から90年代に子供だった2世達です。当時の大会会場には親がムチで子供を虐待する部屋が設けられていたし、(赤ちゃんコーナーとか女子用トイレ)当時の王国会館内には、通称「ムチ部屋」とか「第3会場」と言われている部屋(事務室とか物置とかトイレ)があって、そこには短く切ったゴムホースとかガスホースが置いてあり、「親の皆様はこのムチで子供のお尻を好きなだけ叩いて下さい」状態で、男の子も女の子もパンツを下ろされて、生尻をムチで100回以上叩くと言うとんでもない状況でした。

その時代は、親がムチで子供のお尻を叩く、ぴしっ!ぴしっ!と言う音と一緒に、「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、もうしません、うぎゃーぁぁあああぁぁああぁぁあぁぁぁぁ!」という悲鳴が会場内に響き渡って、(当時私のいた会衆での実話)事情を知らない人が見たら、児童虐待の親が揃った集団ヒステリー宗教としか思えない時代がありました。(事情を知ってもやっぱりおかしい)

最近は、ころころ変わるJWの教理に基づいて、2世の子供へのムチの実施は親の判断に任されていますので表だって出ませんが、最近JWを辞めたばかりの人に聞くと、現在、王国会館内でのムチの実施は禁止されており、集会中の退屈な講話に耐えられず、ついむずがってしまい、一緒に集会に参加している姉妹達の逆鱗に触れるようなお行儀が悪い子は、親に「帰ったらムチだからね」と言われて、家に帰ってからムチをするそうなので、現在のムチの実施の詳細は、その子が大きくなってJWを辞めた後しでか絶対にわからないやり方に変わってます。

なので、今現在、現役信者をやっている人達の中にも、「JWにはもうムチは無い!」って言い切る脳天気な現役さんもいるのですが、組織がそういう陰湿化した形でのムチの指導をしているんですから、今現在、子供達がムチで叩かれているのを知らない人達がいるのも当然だと思います。

聞くところによると、現在のムチは古手の姉妹が指導するそうです。母親研究生がどの姉妹と組んで研究するかにより、だいぶムチの指導方法が変わるようで、儀式的に1回叩けばいいと言う姉妹もいれば、子供の反抗心を無くすまで100回は叩くべきだという姉妹までいて、ケースバイケースが多くなって来ました。

ただし、やんちゃでおとなしくしていられない活発な子供は、集会中に絶対にじっとしていられませんから、そう言う子供に対しては、親が、集会中は蝋人形のようにじっとしていろと辛抱強く言い聞かせて、それでも駄目なら、古手の姉妹の指導に従ってムチだそうです。

で、元2世達のオフ会の話に戻りますが、ムチの体験談が出た時には、必ず何人かは1回もムチで叩かれなかったお行儀の良い子だった運のいい人もいるわけですが、(女性に多い)叩かれた人たちは一通り自分の体験を喋った後、みんな一様に「なんで2世はムチなんだろう?」って言い出すわけです。

そう言う時はみんな何げに最年長の私の事を見るので、「アメリカの宗教だからだよ」って言うんですが、必ず「そんな事わかってますよ」って言うので、「ムチはアメリカの文化なの、日本は手でお尻を叩くのが文化でアメリカはムチ。TVの大草原の小さな家とか見るとわかるでしょ。」って言うと、何となくみんなが納得して話が終われば私はそれ以上喋らないのですが、納得出来ないで、さらに質問して来る元2世がいると必ず始めるのが、これから話す私の過去の体験話です。

あなたもここまで読んだんだから、ついでに私の話にお付き合いしてくださいね。でも、例によって長文注意です。オヤジの話は長いからあきらめてね(^^;

話は私が幼稚園の年長組だった1962年頃にさかのぼります。当時、私の父親と母親が離婚して、最終的に私は母親の元に引き取られました。それから幼稚園の転園が3回、小学校1年に転校が3回というサーカス団の子供のような生活が始まって、最終的に学校を卒業するまで15回の転校をするわけですが、その転校生活の始まりの頃で、まだJW組織からムチの指導がなかった時代の話です。

私の母親の学歴は、当時の東大は女性を受け入れない時代でしたので、第一高女と言う、当時の女性が行ける最高学府の出身です。(母親曰く、今の日本女子大学なんですが、ネットで調べると今のお茶の水女子大学って出るし、年輩の女性に聞くと、終戦後すぐのごたごたした時期だから日本女子大でいいんだって言うし、もうめんどくさいから正確に調べるのを諦めました)

第一高女に就学中、祖父の事業が傾いて、学費と生活費が出せなくなり、第一高女を泣く泣く退学して北海道の教育大学に再入学して教師の免状を取って、北海道の十勝地方の小学校2年生の児童受け持ちの教諭となり、第一高女時代に共産主義者となった母親は受け持ち児童に対して共産主義教育赤化教育をおっぱじめ、それが父兄の知ることとなり小学校を叩き出されたわけですが、当時としては少数派である高学歴女性の母親は、父親と離婚した頃、現役JWであり英会話ヲタクでもありました。 

母親は英語の勉強が大好きで、よく英会話学校に通っていましたが、当時の母親の夢は、狭い日本を飛びして、平等にチャンスがあると思われていたアメリカに移民することでした。それは今で言う、「アメリカに留学したい!」って夢と同じです。

しかし、なかなか英語がモノにならず、自分の英語の才能に悲観した母親は非常手段を考え付きます。それは、米軍基地の家庭でお手伝いさんをやれば、英語を覚えれてアメリカ人の生活も体験できると言う一石二鳥のグッドアイデアを考えつきます。そしていろいろとツテを頼って、当時東京にあった米軍立川基地の中にある米軍ハウスのJW家庭のハウスメイドの職を手に入れます。

この家はSundayさん(実名)と言い、旦那さんのサンデイさんは40代の軍属で米軍貨物機の副操縦士をやっていて、本当は兄弟になりたいんだけれど、兄弟になるには米軍を辞めなければならないので、家族を養うために研究生で我慢している人。サンデイさんの奥さんは30代中盤の現役JW姉妹、そして子供が3人いて、長男が6歳のデービット(実名)次男が5歳のスティービー(実名、私と同級)3女が4歳のスーザン(実名)という5人家族でした。

当時の米軍は日本占領時代からの基本方針として、米国軍人の戦闘時の志気を高めるためには、日本の米軍基地内に本国と同じ環境を作る事が必要であり、家族居住用の住宅地の建設方針は、本国の平均的な都市の郊外にある平均的な新興住宅地をそのまま持ち込むという考え方で、米軍立川基地は50年代から60年代をテーマにしたハリウッド映画の中に出てくる白人アメリカ人の家庭そのままの世界でした。米軍ハウスは家族の人数に応じて平屋か2階建てが基本で、広い庭が付いた全室暖房用のスチームラジエター付きの家でした。その上アメリカ人はなんでも黄色で塗るのが大好きですから、やたらと黄色いペンキを使った建物や看板や標識がいっぱい建っていました。

米軍立川基地はアメリカ空軍の基地で、家族居住用の住宅を貸与されるのは士官と高級下士官のみで、副操縦士のサンディさんは士官待遇の軍属でしたから士官用住宅地に住んでいました。貸与された住宅は4LDKの平屋建てで室内は全室カーペットがひかれていて室内を土足で歩き回るタイプの家で、家族は室内履きに履き替えるのですが、家長のサンディさんだけは全室土足OKでした。また、当時は黒人士官なんてほとんどいませんでしたから、近所の旦那さんは全員、大学を出た白人士官、奥様は高卒以上の白人女性で、当時の中産階級のWASPの住む典型的な米軍の住宅地でした。

母親一緒にサンディさんの家に面接しに行った時、サンディさんの奥さんに、大人達が話し合っている間、供達と遊ぶようにと指示されたんですが、これは私と子供達3人の相性を調べる目的もあったようでした。

私は英語なんか全然喋れませんでしたが、そこは子供同士でなんとかなるもので、子供部屋に入って10分も経たないうちに、デービット、スティービー、スーザンの3人と友達になり、さっそくいたずらを開始、母親の面接終了時には4人そろってサンディさんの奥さんに怒られるというありさまで、それが何故かサンディさんに気に入られて完全にサンディ一家の一員となり、サンディ家とお別れするまでの1年4ヶ月を一緒に過ごすことになります。

母親と私は4畳位の洋室の女中部屋で親子2人で住むわけですが、アメリカ人は仕事は仕事、プライベートはプライベートとはっきり分けますので、私は完全にサンディさんの家族の一員となり、日本人にありがちな女中の子の差別を一切感じることがありませんでした。

ちなみにサンディさんの家族とお別れする時までに覚えた英語は全部で16個。グッドモーニングから始まって、ギブミー、カムヒア、シムシム、ゴー、バック、・・・・最後にグッドナイナイで、たったこれだけでも子供同士はちゃんとコミュニケーションが取れちゃうんですよね。

さて、私はサンディさんの家族の一員になりましたから、サンディさんの家のルールに従わなくてはなりません。でも、私はいたずら小僧でしたから、サンディさんの奥さんに怒られるような事をいっぱいするわけです。しかし、私を怒ろうにもサンディさんの奥さんにとって私は他人の子ですから直接怒るわけにもいきません。必ず母親に文句を言います。そうなると母親は当時の日本人の子供の受ける罰を私に与えます。つまり、私のパンツを下ろして手でお尻を何回も叩くわけです。そして当時はどの子も悪い事をするとそうやってお尻を叩かれていましたから、私もそれが当たりの事と思っていました。

しかしそれを見たサンディさんの奥さんは納得しません。ぴしゃぴしゃお尻を叩いている音を聞きつけて、何事かと女中部屋を覗いて、私が母親にお尻を叩かれているのを見たとたん、ものすごい大声で、「ユー! バーバリアン!」(お前は野蛮人だ!)と母親を怒鳴りつけました。

そうしたら、いきなりその場でサンディさんの奥さんと私の母親との口論が始まってしまい、私はおもわず「助かったー」と思ったのですが、後で母親に口論の理由を聞いたところ、文明国では手で直接子供を叩くのは野蛮人の行為で絶対に良くない。子供に罰を与えるときは、椅子に長時間座らせて本人の反省を促すか、ムチでお尻を叩くのが、野蛮人ではないまともな人間がするべき正しい子供への罰の与え方だ。と言われたと悔し泣きしながら話してくれました。

そして、この一件で母親は完全に開き直ってしまい、私が罰を受ける時もサンディさんの家のルールに従うと決めます。この決定に母親は私の同意を求めて来ましたが、サンディさんの奥さんの怒り方は実にさっぱりしていて、3人の子供達を怒った後は、子供達は怒られるという義務を果たしたからもう関係ないって感じで、怒り終わった後はさっぱりしていていつまでもねちねちしません。

対して母親はいかにも日本人的な怒り方で、怒られた後に私が長時間反省している態度を取っていないと、何も反省していないのかとさらに怒り出す典型的な日本人の怒り方をする人でしたので、同じ怒られるならさっぱりしたアメリカ式の怒られ方の方がいいやと思って、私はすぐに同意しました。

そして私が同意したので、母親に通訳してもらいながら、サンディさんの奥さんにサンディ家での罰のルールの説明を説明してもらったところ、サンディ家の罰は基本的に3回リセット方式で、家のルールに違反した場合、

警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→ムチ10発の後、無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、

警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→ムチ20発の後、無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、

警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、
警告→警告→ムチ30発の後、無言の正座1時間か無言の椅子2時間の選択、

こういう感じでムチが増えていきます。

私は今までこういう罰のしかたなんか一度も聞いたことがありませんでしたし、それがサンディさんの家だけのオリジナルの罰なら絶対に納得出来ませんから、疑問に思って、朝になると、近所のスクールバスのバス停何ヶ所かに行って、バスが来るのを待っている非JW家庭の子供達に片っ端から聞きまくった所、黒人や、カラード(スペイン系など)の家ではムチをしませんが、白人のWASPの家だけは全員ムチでした。そしてWASPの白人の子供達が言うには、ムチの回数が増えていくのはとても厳しい家庭だと言っていましたが、警告、無言、ムチと言う決められたルールで罰を受けるのはどのWASP家庭でも同じやりかたでした。

そして、沈黙の正座1時間か、沈黙したまま椅子に2時間座っているかのどちらかの選択なんですが、正座1時間って言うのは立川基地独特のものらしく、本土では椅子で1時間が相場だそうです。

日本の子供と違ってアメリカ人の子供達はものすごくお喋りですから、1時間黙っているというのはかなりの苦痛を感じる罰です。そして椅子か正座かどちらかを選択したら、途中からのチェンジは絶対に駄目です。これは子供に契約という概念を植え付ける訓練も兼ねているので、一度やると約束したら必ずやらなければならないという考え方を教える目的も兼ねています。(軍人の考え方)

私も無言の正座1時間だと足が痺れるから、一度だけ無言の椅子2時間を選択したことがあるんですが、これもしんどい。1時間の正座を選択した子供達が罰が終わって遊んでいる中、私だけさらに1時間沈黙していなくてはなりません。だからとにかく退屈で退屈で仕方がなくて、これなら正座1時間のほうがまだましだと思って、それからは正座1時間ばかり選択していました。

この時代をテーマにしたハリウッド映画を見ていると、なにげにぽつんと離れた所で、無言でおとなしく椅子に座っている子供がいるという場面設定があると、私の顔がつい「にゃっ」としてしまいます。そして当時の立川基地で正座させられた自分の事を懐かしく思い出します。

当時のアメリカは、まだ古き良きアメリカの時代で、アメリカ人と言えばWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)と黒人しかいないんじゃないのかって思われている時代でして、ほとんどのアメリカ人は、アメリカ人とはかくあるべきという論理感に従って、朝食と夕食は必ず家族全員で食べる、日曜日の午前中は家族揃って教会に行くのが当然で、他民族の集合体であるアメリカ国籍を持つ人達は、共通の論理感を持っていないと絶対にアメリカ人になれない、だからアメリカ国籍を持つ人達は正しいアメリカ人になるべく努力するという時代でした。(そうしなかった戦前の日系人達は迫害を受けた)今のアメリカ人は英語を喋る人よりスペイン語を喋る人の方が多いそうですから全然違う時代ですね。

当時のアメリカ人の子供にとって何よりも大事なのは、夕食の時間までに必ず家に帰ることです。どこに行くか先に親に言っておけばどこに遊びに行ってもかまわない。だが、何があろうと必ず5時までに家に帰る事。これは鉄則です。サンディ家では夕食は5時40分から始まります。だから旦那さんのサンディさんも仕事で残業になる場合は必ず事前に電話で連絡です。そうじゃない場合は、何があろうと5時30分までに家に帰って来ないと壮絶な夫婦喧嘩が始まります。

サンデイさんが夕食に遅刻した時の夫婦喧嘩を数回見ましたが、奥さんが怒り狂ってものすごい有様で、サンデイさんが仕事で残業だったっていいわけをしても「それなら何故電話しない、それは嘘だ!」って大興奮状態でののしり、ハリウッド映画のシーンそのままになります。

これは何故かと言うと、アメリカ人は家族揃って朝食と夕食を取るべきだという文化があって、そのアメリカ文化に違反して食事時間に遅刻したサンディさんのいいわけは、家長であっても絶対に認められないいいわけだからです。

日本人は、アメリカ人の肉体労働者は定時になるとさっと帰ってしまう、あいつらは怠け者だって勘違いしている人が多いですが、アメリカ人ほど働き者はいません。 私は船員という仕事柄、いろいろな国の人と仕事をしますが、船員の間では肉体労働に関して言えばアメリカ人が一番働き者と言うのが定説です。

とにかく彼らは体力に物を言わせて働きますから休憩しません。昼飯も15分位で終了させて作業再開です しまいに日本人が根を上げて、「あーしんど、もうこいつらにはつきあいきれん!こっちが壊れちまう。一服しよう! コーヒータイム! ブレイク!ブレイク!」って言って仕事を中断させない限りいつまでも動きます。でも彼らは日本式に一服取ると軽く1時間以上動かなくなっちゃう人達だから、日本人もアメリカ人もどっちもどっちなのかもしれませんけどね。

その上、彼らは残業大嫌いですから(日給制が基本なので残業代が出ない)何がなんでも定時までに仕上げようとします。でも駄目ならあっさり定時に帰っちゃいます。それは家族揃って食事をしたいからなんですね。(門限に遅れると奥さん怒るしね)

サンディさんの家で許される遅刻は2分まででした。(相手の家の時計の誤差を認めているから)そして、当時は当然腕時計なんてありませんから、安全策で4時30分に帰ってくればいいんですが、家だと静かにしてなくちゃなりませんから、退屈で外に出るとつい時間を忘れて遅刻です。

そして、とにかく長男のデービットは家に早く帰るのが嫌な奴で、いつも、あと5分遊ぼう、あと5分遊ぼうと言うので、つられてスティービーと私も割を食って、門限の5時を過ぎてしまう事が何回もあり、何回も正座1時間コースになりました。

始めて私がアメリカ人家庭のムチを見たのはその時で、3人がムチで叩かれる番でした。(罪名は門限破りの累積)次男のスティービーと3女のスーザンはまだ悪さの回数が少なかったので10回でしたが、長男のデービットそれまで10回だったムチが20回になった日でした。

夫婦の寝室に集合した子供達が順番にダブルベットにひざまずき、(JWみたいにパンツは下げません)サンディさんの奥さんが、ガムをくちゃくちゃ食べながら、自分が使っている直径2センチ位の円断面で長さ1m位の黒いウェストベルトをひゅんひゅん回してスタンバイしながら、15秒以上の間隔で子供達のお尻を叩きます。アメリカ人の子供は大げさですから、痛い痛いと大声で騒ぎまくるのですが、奥さんが騒ぐとムチを追加するぞって言うので3人とも手で口を押さえて悲鳴を上げないようにがんばるわけです。

そして、3人のムチが終わると子供達は静かに泣きまくっているのですが、サンデイさんの奥さんのムチはJWのムチのやり方と違って、ムチの後は絶対に子供を抱きしめません。これは、ムチには子供に独立心を養う目的があるからなんです。

但し、独立心の考え方が日本とは全然違って、本当に家から出ていかせる為の独立心です。子供が大きくなったら家を出ていかせる。そうして両親は親としての責任を果たして、それまで父親と母親だった夫婦がまた新婚の夫婦に戻る。見ているとそんな感じがしました。逆に20代中盤になっても家を出ていかない子供がいる家庭は、どこか親の育て方がおかしいんじゃないのかって周りから言われていました。

で、ムチと1時間の正座が終わると子供達は完全に解放です、罰が終わったらお説教も何も無しです。既に罰を受けるという仕事を果たしたわけだからもう完全におしまい。日本人の親みたいに後でぐだぐだ言いません。自分の母親のお説教と比べて実にさわやかで、見ていて気持ちがいいくらいです。なにしろ反省の態度を取らなくていいわけですから、私にとってこんなにありがたいことはありません。私は、やっぱりサンディ家のルールに従って良かったなって思いました。

さて、当時のアメリカ人の子供達って、当時の日本人の子供に比べると遊びを全然知らないんですね。道具無しで遊ぶのは鬼ごっこだけで、後は全部道具を使った遊びです。(今のTVゲームで遊ぶ日本人の子供みたいな感じです)当時の典型的な日本人だった私は、缶ケリだのゴム飛びだの馬飛びだの水雷艦長だのと、当時の子供として知っていてあたりまえの遊びをいろいろ遊びを知っているわけから、彼らに日本の遊びをいろいろ教えるんですが、彼らにとっては生まれて始めて知る遊びばかりで、近所の子供達が全員、目の色を変えて私と遊びたがりました。

その中でも彼らの一番のお気に入りは缶ケリ(かくれんぼの一種)でした。ところが彼らは手加減ってのを知らないんだよね。 缶をケリに行くと、缶が遙か彼方まで飛んでいって他人の家の壁に当たるわけです。 そうするとその家の人が「何事!」って飛び出して来るんですが、子供達がいくら詳しく事情を説明しても、アメリカ人の大人には聞いたことも無い遊びをしているわけですから事情が全然理解できず、サンディ家に苦情が来て、缶ケリは絶対禁止になってしまいました。(これで警告1回)しかしスーザンを除いた3人は缶ケリの誘惑には勝てず、警告を無視してまた缶ケリやったら、今度は3人とも正座1時間にされてしまいました。(苦笑)

当時の米軍立川基地の中には2つ会衆があって、A会衆とB会衆がありました。A会衆が大人35人位、B会衆が大人25人位で、私はB会衆に通っていました。建物は米軍司令部に申請して借りるわけですが、ちゃんとした教会とか、まともな集会場は他の宗教団体に全部取られてしまっていて、B会衆の建物は、外観は洋風、中は和室という、米軍進駐時に日本人から徴発した建物を使っていました。

そして、アメリカ人が全員座布団引いて、女性は横座り、男性はあぐらでしたが、集会が終わるといきなり全員足を投げ出してマッサージし始めるのには笑っちゃいました。

私が参加した時は1年位前に英語版の新世界訳が出たばかりだそうで、みんな新世界訳聖書で勉強していましたが、当時の日本の会衆は「汝ら・・・」って難しい日本語を使う日本聖書教会発行の文語訳聖書使っている時代でした。

また、日本人信者にとってものみの塔はとても大事な雑誌で、姉妹なんかは手作りで作った刺繍付きのブックカバーとか付けて、ものみの塔にしわが付かないようにものすごく大事に使っている人が多かったんですが、米軍基地の中では、ものみの塔を四つ折りにして尻のポケットに入れて来る兄弟とか、子供が鼻をかむのにティッシュが見つからないから、注解が終わって使わなくなったものみの塔をいきなり破いて鼻をかませる母親姉妹とか、日本人信者が見たらその場で卒倒してしまいそうな雑な使い方で、見ていて嬉しくなる、まことに合理的な使い方をしていました。

集会中は全部英語でやりますから、私には何を言っているのか全然わからないんですが、母親は日本語と英語と両方持っていましたから、それを覗いていると何言っているのか雰囲気だけはわかった気になっていました。でも、すぐに母親は英語版だけにしちゃいましたから、私には全然わからない世界になってしまいます。

そうすると退屈だからそわそわし始めて、B会衆には子供が12人位いたので子供同士、目で合図して遊び始めます。ただ、彼らはエスカレートして止まらなくなるんですよね。最初は目で合図だったのが口パクになり、手でジェスチャーが始まったあたりで母親につねられます。握り拳の人差し指と中指の間で太股の皮膚をひねり上げるんだけど、そうすると彼らは「ひぃっ!」って声を上げちゃうんでねす。そうすると会衆内がくすくすして集会が止まってしまって、会衆内がいきなりなごんじゃうんですが、それに母親が怒っちゃってもう一回つねり上げて、子供は両手で口を押さえて悲鳴を押さえるのが何回もありました。(家に帰って正座1時間コース決定!)

B会衆には黒人の母親姉妹もいましたが、下士官の奥さんで、士官の奥さんには気を遣って一歩引いていましたね。白人士官の奥さん姉妹は気にするなって言っていましたが、やはり気を遣っていたのが印象的でした。B会衆では白人家庭はみんな2〜3人の子供がいて、一人っ子の家庭はもう1人作りたいけど出来ないなんて言っていました。また、黒人姉妹の家は5人の子供がいる家庭で、よく遊びに連れて行ってもらいましたが、行けば必ず正座してるか椅子に座って沈黙の罰を受けている子供が1人はいたんですが(そこの家はムチ無し)黒人家庭独特の明るさがあって遊びに行くのは大好きでした。でも、黒人姉妹がどうしても白人側に気を遣うので、白人側が逆に遠慮して行かなくなりましたね。

私はこんな変わった経験をしているから、50年代から60年代のアメリカのJW2世の子供をテーマにした、監督:クリント・イーストウッド、主演:ケビン・コスナーの「パーフェクト・ワールド」をビデオで見ると、私はあの時代に、あの世界の中で実際に生活していたわけで、主人公のフィリップス君を見ると、「あんなに暗い子なんか米軍立川基地の会衆の中には1人もいなかったぞ、みんなもっともっと明るくてめちゃくちゃ元気だったぞ」って思っちゃうんで、あの映画の主人公にはどうも感情移入できません(苦笑)

あの映画はハロウィンをしたくても出来ないかわいそうなJW2世の子供って設定でしたが、実際はハロウィンの時にはカボチャをおもちゃにして別な物を作って遊んでいました。ちなみに私がカボチャと爪楊枝で馬を作って、デービット、スティービー、スーザンの3人に作り方を教えていたら、「それはお盆の時にする偶像崇拝だから縁起でもない事をするな」と母親に怒られてしまい、それ以来私だけがカボチャで遊ぶのが禁止になってしまい、3人がカボチャで動物とか作っているのを見てうらやましく思って見てました。

つーことは俺は日本のフィリップス君かい!

しかし、そもそも当時の私にはハロウィンとは何なのか全然意味がわかっていませんでしたし、「アメリカのお盆だよ」って説明されても、日本のお盆の意味も全然わかっていませんでしたから、「僕は日本人だからアメリカ人みたいに食べ物を粗末にしちゃいけないからハロウィンは禁止なんだな」って納得していました。

米軍基地の外の伝道にも参加したことがありますが、立川基地周辺は数年前に創価学会が釈伏運動(伝道)をした後で、信仰を断るといきなり玄関をけっ飛ばして「地獄に堕ちろこの糞婆ぁ!」とか言われた人がほとんどで、宗教に対する住民感情は最悪で、伝道する時は、自分たちは創価学会ではなくキリスト教徒だって説明から話し始めなくてはならない時代で、断られてから伝道が始まる猛烈営業マンみたいな伝道をしていた時代でした。

私はそういう猛烈営業の伝道しか知りませんから、伝道とはそういうもので、それが当たり前と思っていたのですが、サンディさんの奥さんに付いていって伝道するのを見ていたら、日本と全く同じスタイルの地図カードを持って、サンディさんの奥さんドアノック→挨拶する→ものみの塔と目ざめよ見せて説明開始→10秒で拒否される→あっさり引いてグットバイ。という伝道で、ずっとそのパターンの伝道が続きます。

まるで、私は伝道をすると言う義務は果たしたからもう関係ない。と言うような気合いの入らない伝道のしかたで、子供の私は全然納得出来なくなっちゃって「サンディさんの奥さん、それじゃあまりにもあっけなさ過ぎませんか?そこから伝道が始まるんじゃないですか。嫌がられてもなんとか興味を持たせて再訪問につなげるべきじゃないんですか?」と言う意味を単語とジェスチャー使って伝えたんだけど(子供同士では英語でコミュニケーション取れるけど大人との会話は絶対無理)サンディさんの奥さんはあれでいいんだとか言うし、当時の私には全然納得出来ない伝道をやっていました。

母親も立川基地での英語伝道の要領がわかったので、私に英語で伝道するセリフを暗記させて伝道しましたが、母親も勝手が違うようで、日本人相手ならいつもやっているように、まず私をダシにして最初に私に証言させて、相手が好意を持ったところでバトンタッチして研究引きずり込むっていう、いつものパターンが使えず、かなりカリカリきているようでした。

当時の私は、ものみの塔誌の販売促進用のマネキンでしたから、ややこしそうな所にはまず私を突撃させて最初の説明をさせて、相手が好意を持ってくれた時にタイミング良く母親と交代するという、木曜日の奉仕会の指導通りの親子伝道をしていましたが、さすがに米軍立川基地では日本式の突撃伝道は無理のようでした。

結局私は全然伝道の役に立たないと言うことで、私は親についていくだけで、「楽だー楽だー、こんなに楽していいんだろうか?」っていうらくちん伝道を楽しんでいました。これが日本側だったらそうは行きません、伝道していて教会やお寺にぶつかると突撃するのはたいてい私の役目で、子供が牧師や僧侶に聖書を説くなんてしんどい事をしょっちゅうやらされていましたので、こんなに楽ならずーっと立川基地に住んでいたいと思っていました。

で、そうやって生活しているうちに累積があがりムチとなります。原因は5時の門限に遅刻したのと、集会中にじっとしていられないかったのと、伝道中にしゃがみ込んで草花と遊んでいたことにより累積がかさんで10回のムチになります。

幼稚園の子供が草花と遊んでいて何が悪いんだって思うでしょ。でもこれは、JWの家に生まれた子供にとってものすごく悪いことなんですよ。理由なんか知りません。幼稚園児に理解できるわけがないじゃないですか。とにかく伝道中は伝道以外の事をしちゃいけないんです。親が悪いことだって言ったら、それは神の言葉と同じですから、私が納得しようがしまいが悪いことなんです。私が納得したって言うまで母親のお説教は無限に続くんだから、とにかく悪い事なんですよ。こういうのはあーもうーも無く、エホバの証人の家に生まれた子供の宿命なんです。

で、このムチの直接原因は門限破りです、例によって長男のデービットに引きずられて門限を15分破ってしまい5時15分ご帰還で、4人とも真っ青になっていました。サンディさんの奥さんはルールで怒る人ですから、反省のポーズを取ろうが泣こうがわめこうが絶対に許してくれません、夕食後30分にムチと宣言されて、その日の夕食のまずかったこと、あんなに味のわからなかった食事は初めてでした、砂を食べているとしか思えませんでした(苦笑)

夕食後30分に夫婦の寝室に集合です。子供4人、旦那さん奥さん母親の7人が12畳位の寝室に集合して、デービット、スティービー、私、スーザンの順に叩かれます。私は始めてだから10発です。2人が20発ずつ終わって私の番になり、奥さんは母親にウェストベルトを渡して叩けと言うが、母親はやり方がよくわからないからと言って卑怯にも土壇場で逃げます。

じゃぁ私が見本で5発叩くから後はあなたがやりなさいと言うことになり、サンディさんの奥さんは私に承諾を求めてきましたが、私は、この罰はサンディ家と取り交わした契約と考えて完全に納得してましたから、どっちにしろ逃げれないんだからどうでもいいよって承諾言って叩かれたんですが。5発叩かれたら、目をつぶっていたのに目の前にオレンジ色の火花が4回出ました(笑)

そして、サンディさんの奥さんの叩き方なんですが、ちゃんと一発一発の間にかなりのインターバルをおくんですね。こういうのは叩かれて始めてわかるノウハウなんですが、痛みが拡散してから次のムチが来ますので、叩かれた場所の痛みが抜けるのが早いんですよ。

次に母親のムチですが、5回叩かれて1回しか目の前に火花が出ませんでした。しかし、ろくにインターバルを全然取らずに急いで叩くから、終わった後に痛みがいつまでも残りました。

後でサンディさんの奥さんに聞いて確認したんですが、サンディさんの奥さんも子供の頃ムチで叩かれて育ってますから、正しいムチの使われ方を自分の体で覚えているんですね。そして私の母親はそんな体験を一回もしていませんから、ただ私のお尻をムチで叩いて痛みを与えておけばいいと思っているだけでした。

自分が実際にムチで叩かれて痛みを経験しているサンディさんの奥さんの叩き方は、ムチとは罰の一種であって必要以上に痛めつけるものではないという考え方でインターバルを置いて叩きます。しかし、一回もムチで叩かれた経験の無い母親は、ムチとは罰なんだからとにかく痛めつけなくては効果がないと考えます。

こういうのは実際に自分が叩かれてみないと絶対にわからないんでしょうね。TVの「大草原の小さな家」でムチで子供のお尻を叩くシーンが出てきますが、かなりインターバルおいて叩いてるでしょ、あれがアメリカ人のムチのノウハウですね。

事実、サンディさんの奥さんに叩かれた部分は熱を持っていますが痛みは1時間位で引きますが、母親に叩かれた部分は次の日の朝になって熱は抜けても痛みが抜けませんでした。次の日、それを正直に母親に話したところ、次回ムチで叩かれた時に楽をしたいからだろうと言って私の話を一切聞きませんでした。昔から私の母親は絶対に子供の意志を尊重しない性格の人だから、またかと思ってそれ以上言いませんでした。

後で、母親がサンディ家を離れるきっかけになったのは、私に対するサンディさんの奥さんの放った5発のムチがどうしても許せなかったと聞いた時には笑っちゃいましたね。

この時点では日本のJWではムチの実施命令がまだ出ていない無い時代ですから、母親も後でアメリカ式のムチの専門家として会衆内の姉妹達のムチ指導に当たるなんて思っていませんでした。そして、日本のJWの中で唯一アメリカ式ムチを知っている貴重なムチの専門家とは、実は貴重なモニターの報告を一切聞かない性格の人でありました(苦笑)

そしてこの時私は泣きまくっているわけです。私は母親に抱いてもらおうと思って母親の所に行こうとして、母親も私を抱こうとします。その時サンディさんの奥さんが断固として私を抱くのをやめさせます。ムチの時はそれが一番良くないと言うわけです。ムチには罰の他に子供の独立心を養う目的がある。しかしムチの後すぐに抱くと子供に独立心を持たせる事が出来ない、かえって依頼心増えてが逆効果になるから絶対に抱いては駄目だと言うのですが、母親は無視して私を抱きしめます。

私は抱かれながらサンディさんの奥さんと目が合ったんですが、サンデイさんの奥さんは「もうこの子は駄目だな」って顔をしているんですよ。あの目は忘れられませんね。その目を見たら急に覚めちゃって「もういい」と言って抱かれるのを拒否しました。

私はあの目のおかげで私の心の中に最初の独立心ができあがったような気がします。だからサンデイさんの奥さんには今でも感謝していますね。そのころ自分でも危機感を感じていたんですよ。母親に女性的な男の子に育てられている自分がこの先どうなるかものすごく不安だったんですよ。その時点ではどうにもならない状況でしたが、この経験が強い印象になってずっと心の中に残りました。

私がサンディ家にいた1年4ヶ月の間にムチで叩かれた数は、サンディさんの奥さんに5発、母親に25発の計30発でした。2回目ムチの後、母親はムチで私を叩くのを嫌がるようになり、その後は手でお尻を叩くようになりました。

しかし、それがサンディさんの奥さんにはどうしても許せず、よく母親と議論していましたが、結局この「手でお尻を叩くのは野蛮人だ」議論がサンディ家を離れる原因になります。この後、母親はサンディさんの家を離れ、都内の母子寮に移ります。そして私も小学校を転校してB会衆から日本の会衆に移る事になります。

母子寮に移ってからの母親は、JWのムチ指導が始まるまで、私を怒るときにサンディさん家のルールを変則的に適用して、お説教→1時間の正座→手でお尻を叩く、をローテーションするという罰のルールに変更しました。これはサンディ家より厳しい罰ですが、母親は私の意見を聞く人ではありませんので、一方的にルールを変更しました。

今思いだしても、サンディさんの家にいた日々は私にとって懐かしい思い出の日々でした。ムチで何回も叩かれましたが、それは何も私の心に傷を残していません。それは何故かと言うと、

  1. サンディ家のルールは、幼い子供にも良く理解できる筋の通ったシンプルなルールだったこと。

  2. そのルールに例外はなく、食事時間に遅れた時も、集会中に騒いだ時も、1回は1回だったこと。

  3. 例外的に悪質な事をした場合はいきなりムチではなく、それが初めての行為なら必ずお説教であり1時間の正座であって、注意したにもかかわらずまた同じ事をした場合に限りムチだったこと。

  4. これが一番大事なことなのだけど、周りの白人WASP家庭は皆同じルールで叱られていて、黒人家庭にはムチはないけれど同じルールで1時間の正座をしていたこと。

  5. 米軍立川基地は日本とは完全に隔離されており、場所は日本にあるけれど生活は完全にアメリカ人の生活だったので、比較出来るのがアメリカ人家庭だけだったこと

と言うことになります。

子供にとって一番困るのは、親が怒るのが首尾一貫していないことです。子供は常に悪乗りしたがりますので、今回大丈夫だったから次回も大丈夫だろうと親の反応を見ながら悪さをエスカレートしていきます。そこで親が毅然と対応すれば、子供はこれ以上はやっちゃいけないんだなってちゃんと理解できますが、親が気分次第で怒ったり怒らなかったりすると混乱します。

サンディさんの奥さんは日本人の一般的な親に比べると極端に子供と距離を置く人で、子供が自分から近づかない限り自分からは近づかない人で、かなり厳しい人でしたが、子供の人格を尊重して、子供にいろいろ経験させて独立心を育成させる人でした。

対して私の母親は子供の独立心を絶対に認めない人でした。常に子供を自分のコントロールにおいておかないと私がJW信者にならないのではないかという危機感を抱いている人でした。母親は日本人にしては首尾一貫して子育てする方でしたが、こと宗教が絡むと話が違って、組織の方針が変更になると忠実に子育て方針を変更する人でしたので、私は頭が混乱して、親の方針がよくわからなかったです。

今、父親をやっている私は、それは親のわがままであり、子供を私物化しておもちゃにしているだけだと理解できますが、JWとは聖書ベースで子供の私物化を勧める宗教ですから、母親もしょーもない宗教に走ったものです。

そして、日本の会衆に通いだしてから、御国奉仕(王国宣教)の記事がだんだん変わってきて、子供をどうやってJW信者にするかということが毎週取り上げられるようになってきました。そして運命の日、JW組織のムチ指導の始まりの日が来ます。

前編終わり

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ゆーじ

2002/03/21