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なぜ2世はムチなんだ?後編

過去の出版物から検証するムチのマニュアル

【エホバの証人の子供達への懲らしめ教育】

ものみの塔協会は、エホバの証人の子供には懲らしめが必要だとして、宗教の名の下に具体的な体罰を指導しています。その事実をものみの塔の出版物から検証します。

今、研究生をやっている人はこの情報をよく知っておいた方がいです。あなたの子供が回復不能のトラウマを抱えてからでは手遅れです。

時間は戻ってきません。後で一生の不覚と嘆く前に、いま正しい知識を手に入れてください。

情報ソース:Watchtower Library のCD-ROMより引用

■「ものみの塔」は毎週日曜日に行われる「ものみの塔研究」という集会で使われる教理の教科書です。

■「目ざめよ!」は教理の参考書の位置づけになります。

■「王国宣教」はある一定の条件を満たした信者(伝道者以上)のみが読むことが出来る出版物で、毎週木曜日に開かれる「神権宣教学校」「奉仕会」という集会で、ものみの塔の布教訓練を受ける時に使われる教理の教科書です。

1970年

*** ものみの塔 70 12/15 743ページ 家庭生活の真の幸福を味わう ***
子どもに対する親の監督
家族の中の若い人たちが問題を起こすため,家庭生活に不幸を招く場合がよくありますが,なぜそうした問題が生ずるのですか。非行の増加に伴って目につくのは,親の放任主義ですが,聖書は,「任意になしおかれたる子」は恥をもたらし,『おろかなることが子の〔心臓〕の中につながれており,懲治のむちがこれをおひだす』と警告しています。―箴言29:15;22:15〔新〕。

1971年

*** ものみの塔 71 6/1 325ページ 家族の研究は祝福 ***
幼い時から始める
敬虔な節操は子どもたちの中に生まれるものではありません。それどころか,「愚かさが少年の心臓と結びついている。懲らしめのむちは,それを遠くへ追いやるものとな(り)」ます。(箴言22:15,新)誤った傾向に対抗するため,子どもたちを幼い時から正しく訓練することが必要です。―詩51:5。

1972年

*** ものみの塔 72 1/15 47‐48ページ お子さんは問題をあなたに打ち明けますか ***
25 教訓が所期の目的を果たすには,矯正のための懲らしめを伴わねばなりません。子どもを懲らしめることは,幼児のときから始めてください。そうすれば,成長する子どもは,他の若者に見られるような問題を持たずにすみます。「子をその道に従ひて教へよ然ばその老たる時も之を離れじ」。また,「凡ての懲戒,今は喜ばしと見えず,反って悲しと見ゆ,されど後これに由りて練習する者に,義の平安なる果を結ばしむ」とあるとおりです。―箴言22:6。ヘブル 12:11。

26 懲らしめを施すさい,むちを用いることを躊躇しないでください。「痴なること子の心の中に繋がる懲治の鞭これを逐いだす」。「子を懲すことを為ざるなかれ鞭をもて彼を打とも死ることあらじもし鞭をもて彼をうたばその〔魂〕を〔シェオール〕より救ふことをえん」としるされています。―箴言22:15;23:13,14〔新〕。

1973年

*** ものみの塔 73 12/15 748‐749ページ 子どもにはどんな訓練が必要ですか ***
懲らしめの必要性
19 しかし,神のみことばに基づいて子どもを教え導くことが効果的に行なわれるためには,そこに愛の懲らしめが含まれねばなりません。それは,子どもの生来の傾向が善を行なうことに向かってはいないからです。霊感のもとに記された聖書の箴言が述べるとおりです。『おろかなること子の心のうちにつながる懲らしめのむちこれをおひいだす』。(箴22:15)ここで言う『懲らしめ』という語は,人を形造り矯正するための訓練という意味を含んでいます。それには,子どもが自然にそれに従うようになるまで,幾たびも繰り返し教え諭すことが伴っています。しかし,懲らしめにはさらにそれ以上のものが含まれます。たいていの親がよく知るとおり,子どもはただことばだけでは行ないを正さない場合が少なくありません。(箴29:17,19)それゆえ,懲らしめを伴う訓練の課程の中には,ときに懲罰や処罰を与えることも含まれます。それは,子どもを正すことを目的として施されるものです。

1974年

*** 目ざめよ! 74 10/22 14‐15ページ 子どもに対して何を行なえるか ***
それゆえ親は,子どもが一定の限度を踏み越えた場合には必要な懲らしめを与えて,子どもに対する配慮を示すことが必要です。霊感を受けた聖書の箴言はこう述べます。『おろかなること子の心の中につながる懲らしめのむちこれをおひいだす』―箴22:15。
懲らしめはことばで正す以上の形を取ることが時に必要です。それは,聖書も述べるとおり,人は『ことばで戒められても改めず知っていながら従わない』場合があるからです。(箴29:19)したがって,神のことばはさらにこう勧めます。『子を懲らすことをせざるなかれむちをもて彼を打つとも死ぬることあらじもしむちをもて彼をうたばその魂を陰府[墓]より救ふことをえん』―箴 23:13,14。
子どもの命そのものがかかっているのです。誤った道を追い求めるままに放任されるなら,それは子どもの不幸,また神の恵みの外での死という結果にもなります。それゆえ聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり子を愛する者はしきりにこれをいましむ』―箴 13:24。
そうです,しりをぴしぴしとたたくことを含め,自分の子どもを正すために親がなんでも手を尽くすことは,子どもに対する本当の愛の表われです。世の権威者たちは,懲らしめに関するこうした神の助言を退けていますが,そのことがただ家庭の問題を増し加える結果になっています。―箴29:15。

1975年

*** ものみの塔 75 4/1 206‐207ページ あなたは感謝を示しますか ***
7 この質問に答えるには,家庭内で,懲らしめを与えること,また受けることに対してどんな態度が示されるかを考えてみる必要があります。子どもを愛している父親は,子どもに必要な懲らしめを与えるように気をつけます。(箴13:24)箴言は,4章1節(新)で,懲らしめの価値を認めることを勧め,次のように述べています。「子らよ,父の教えに耳を傾け,注意を払いなさい。さとりを得るためである」。懲らしめは必ずしも矯正手段として課される,あるいは苦しみによって鍛錬するために加えられる罰であるとは限りません。辞書によると,「懲らしめ」の第一義は,「弟子もしくは学習者に適した扱い。すなわち教育。身体,知能,道徳のいずれの面にせよ,教え,修練,訓練などによって能力を開発すること」となっています。ですから,父親が懲らしめを与えるということについて書いてあれば,子どもたちにがみがみと物事を命令する,そして子どもたちが言いつけられたことをしなければただぶつだけの男を想像すべきではありません。わたしたちが言っている父親というのは,子どものことを本当に心配し,子どもといっしょに時を過ごし,子どもの身体と知能と道徳心の発達に大きな関心を抱いている父親のことです。そのような父親は自分の子どもが,自分と同じく神と神の道を知るようにしてやりたいと思います。

1976年

*** 目ざめよ! 76 11/8 10ページ 子供に対する虐待それに関してあなたの行なえる事***
確かに,子供が故意に“わんぱくな”振舞いをするため,親が不愉快に思うのも当然な場合もあります。そして,前述のとおり,文字通りの「むち」を使って懲らしめることが必要になるかもしれません。しかし,親は懲らしめを与える際に決して自制心を失ってはなりません。

1977年

*** ものみの塔 77 11/1 644ページ 自己鍛練は賢明な行為 ***
ですから神の言葉の助言は適切です。「愚かなことが子供の心の中につながれている,懲らしめのむちは,これを遠く追いだす」。「子を懲らすことを,さし控えてはならない。むちで彼を打っても死ぬことはない。もしむちで彼を打つならば,その命を陰府から救うことができる」―箴 22:15; 23:13,14。

1978年

*** ものみの塔 78 12/1 5ページ 真の宗教はどのように若い人々を益するか ***
親の権威には懲らしめの「むち」が含まれています。箴言 23章13,14節(新)の言葉はこうです,「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。杖で打ちたたいても,彼が死ぬことはない。杖をもって彼をたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」。与えられた懲らしめが正当なものではないように子供には思えることが時にあるかもしれません。しかし子供は次の事を忘れてはならないのです。つまり親はその権威の行使に対して神の前に責任があり,さらにたとえ懲らしめが正しく与えられていなくても,神はそれが従順な子供の益となる結果を生むようにしてくださるという事です。―ローマ 8:28。

1979年

*** 目ざめよ! 79 8/8 29ページ 子供に体罰を与えるのは正しいことですか ***
しかし,愛ある懲らしめには,親がおしりをたたくことも含まれますか。神の言葉は,それが愛の一つの表現として行なわれ,愛に調和した方法でなされるなら,確かに愛ある懲らしめに含まれると述べています。霊感を受けた書物,箴言からの次の幾つかの聖句を考慮してください。

「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの杖がそれを彼から遠くに取り除く」。(22:15)「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたが彼を杖で打ちたたいても,彼が死ぬことはない。杖をもって彼を打ちたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」。(23:13,14)「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもってこれを待ち望む」。(13:24)―新世界訳。

ここに言及されている「杖」は,親から与えられるさまざまな形の懲らしめを指していますから,もちろん,体罰も含まれます。手で行なうにせよ,ものさしや他の適当な「杖」で行なうにせよ,親は愛を込めて子供たちを訓練する際に,体罰を与える権威を神から与えられています。

1980年

*** ものみの塔 80 5/15 27ページ 箴言―わずかな言葉で言い表わされた豊かな知恵 ***
懲らしめの必要
人間は不完全で,抵抗の最も少ない方向へ赴くきらいがあるので,大抵の人は懲らしめを避けて通ろうとします。しかし,箴言はそれとは異なった態度を勧め,こう述べています。「是非あなたの心を懲らしめに,あなたの耳を知識のことばに向けなさい」。(箴23:12,新)ここで言われている懲らしめとは,自己抑制と他の人から与えられる矯正の双方を指しています。大抵の場合,それは「知識のことば」,すなわち知識のある人から出て,他の人々を啓発する言葉によって備えられます。しかし,時には口だけの言葉よりももっと強固な懲らしめが必要とされる場合もあります。「打ち傷は悪を一掃するもの。むちで打つことは,腹の最も奥深い所を」。(箴20:30,新)正しい精神で受け入れれば,強固な懲らしめは悪行を抑制するだけでなく,より良い方向へむけて内的変化を遂げるよう人を促します。

子供に対する親の懲らしめについては次のように書かれています。「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。棒でこれをたたいても,彼は死ぬことはない。棒をもって,あなたが彼をたたくべきである。それはその魂をシェオルから救い出すためである」。(箴23:13,14,新)「棒を差し控える者はその子を憎んでいるが,子を愛する者は懲らしめをもって確かにそれを捜し求める人である」―箴13:24,新。

言うまでもなく,懲らしめを与える場合には,怒りを爆発させるような仕方ではなく,常に自制をもって与えるべきです。また,どんな場合にでも体罰を与える必要があるというわけではありません。賢明な助言を二言三言与えるだけで十分な場合も少なくないのです。「一度のけん責は愚鈍な者を百度打つよりも深く理解力のある者のうちに働く」―箴17:10,新。

1981年

*** 王国宣教 81/1 2ページ 弟子を作るのに助けとなる集会 ***
1月4日に始まる週
30分:「エホバを愛する者となるように子供たちを訓練する」。

(1)弟子になるように子供を訓練するにあたり,努力を払う必要があることを強調する。自動的には生じない。どんな行動が取られねばならないかに注目しながら,以下の聖句を討議する。箴22:6,新:「少年を……育て上げよ」。時間と努力が必要。

エフェソス 6:4。『育ててゆく』に相当するギリシャ語の表現は,「滋養物を与える」という意味があり,霊的に養い,養育し,育成することを意味する。『懲らしめをもって』とは,訓練,教育,矯正を含めて,教訓を与えることに言及しており,『エホバの精神の規整をもって』とは,『[子供の思いに]エホバの思いを入れること』を意味している。エホバの思いや意志は,聖書中に見いだせる。子供たちが基本的な聖句を覚えることを提案する。そうしてきた人はどれほどいるだろうか。その結果はどうであったか。(使徒20:35。ヨハネ3:16。エフェソス6:1。ミカ6:8。マタイ24:14。詩83:18。箴22:15,などの聖句を復習することができる。)

場面3: 王国会館に遊び道具を持って行くことを許されなかった子供がかんしゃくを起こす。考慮された聖句:申命21:18(わがままな態度は反抗へと進み,重大な結果になりかねない)。申命31:12(小さな子供たちでも,集会で聴いて学ぶべき)。箴22:15;23:13,14(罰として身体的なむちが必要な理由)。

基本的な方法は,子供と推論しつつ,悪い道を歩むことの望ましくない結果を示し,聖書の原則を用いて物事を正すこと。必要な時と場合に,懲らしめのむちが当てられる。目標は,エホバに愛され,そのみ名に誉れをもたらすクリスチャンを育てることであり,このことを思いに留めなさい。

1982年

*** ものみの塔 82 1/15 17‐18ページ 家族としてエホバに喜ばれるものになる ***
父親と母親は子供に対して権威を行使する際に,子供をいら立たせないようにしなければなりません。むしろ,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって子供を育てなければなりません。子供に与える懲らしめや教えはキリストの教えに基づいたものでなければなりません。(エフェソス6:4。箴1:8,9と比較してください。)親はまた必要な時に矯正のむちを用いることも要求されています。(箴13:24;29:15)以上,夫と妻の責任について簡単に触れたに過ぎませんが,家庭内で,権威は愛と公平とをもって行使されるべきであるというのが,エホバのつくられた取決めであることは明らかです。

1983年

*** 王国宣教 83/5 3‐4ページ 1983年「王国の一致」地域大会 ***
幼い子供を持つ親には十分に集中する点で余分の挑戦があります。数時間座ることは幼い子供ほど難しいのが普通です。幼い子供は当然ながらより活発です。その結果,親も,時には周囲の人たちも気を散らされます。とはいえ,ある子供たちは学齢前であってもほとんどのプログラムの間静かに座ることが観察されています。どこに秘訣があるのでしょうか。それは疑いもなく,家庭と王国会館における正しい訓練です。演壇から供される霊的食物に深い敬意を持つ親は,同じ敬意と認識を子供たちに浸透させるべくあらゆる努力を払います。子供たちは家で,また会衆の集会中不必要にお手洗いに行かずに静かに座るよう訓練し得るのです。このような良い訓練は大会において親子双方がプログラムから益を得るという報いをもたらします。子供の注意力の持続は当然短いものですが,親が落書きを許すかわりに参照聖句をノートに書き留めるよう子供に勧めるなら,向上させることが可能です。もちろん,子供をお手洗いに連れて行くために,また懲らしめを与えるために親が席を立たねばならない時があります。どうぞできるだけ静かにそうなさってください

1984年

*** 目ざめよ! 84 9/8 21‐22ページ 「うちの子は活動過多だろうか」 ***
活動過多か,それとも懲らしめの欠如か
お子さんを活動過多と決める前に,注意を一言。一貫性があり,き然としていて,しかも愛情のこもった懲らしめを施すことを親の側が怠っているために,子供が手に負えない振る舞いをしたり,悪さをしたりしていることはないか,調べてみなければなりません。子供は,大抵,自分の思うとおりにならないと,かんしゃくを起こしたり,いら立ったり,言うことを聞かなくなったり,周りの人に迷惑をかけたりします。人間行動に関する,世界でも指折りの権威者の一人は,次のように述べました。「子供たちがばかげた,そそっかしい事をするのはもっともなことだが,十分にお尻をたたけば行儀よくするよう子供を教えられる」―箴言22:15,今日の英語聖書。

しかし,活動過多の子供の場合,お尻をたたくことは解決にはならないかもしれません。事実,もっとひどいかんしゃくを起こさせることになりかねません。それは,ある医師が述べているとおり,「その行動は子供自身どうすることもできないもの」だからです。したがって,懲らしめに対する反応は,子供の状態を知るもう一つの手がかりとなります。活動過多の子供を持つ母親はこう語っています。「ほかの人たちは私のところへやって来て,『息子さんはこんなことをした』,『あんなことをした』と言います。友だちの意見で特に一致していたのは,息子にはおしおきがまだまだ足りないということでした。とんだお笑い草です!うちのちびちゃんはずい分たたかれました。それに生き残っているのが不思議なぐらいなんです」。

活動過多の子供は普通の子供と違って,言い聞かせる方法であれ,何かを取り上げる方法であれ,あるいはお尻をたたく方法であれ,その方法には関係なく,懲らしめが効かないようです。懲らしめを受けたそばから同じことをします。子供が何人かいて,どの子にも同じように懲らしめを与える親なら,そのことがすぐに分かります。ですから,活動過多の子供の場合,懲らしめは必ずしも解決策とはなりません。

1985年

*** 王国宣教 86/5 8ページ 親の皆さん―あなたの子供を野外奉仕で訓練してください ***
6 まだバプテスマを受けてはいない多くの若い人たちが野外奉仕にあずかっています。わたしたちはそれら若い人たちが共にいることをうれしく思っています。(マタイ19:13‐15)彼らは献身が意味している事柄を十分に理解するにはまだ若すぎるかもしれません。しかし時間は静止することがありません。それで親は,進歩し,ふさわしい時に献身とバプテスマの段階を踏む必要を理解するよう子供を助けるべきです。あなたの子供はエホバの懲らしめと精神の規整にこたえ応じていますか。家庭や会衆で学んでいる事柄を適用していますか。わたしたちは,共にいる年若い伝道者たちが引き続き進歩し,エホバへの愛において,またエホバに仕えたいという願いにおいて成長するよう望んでいます。

1986年

*** ものみの塔 86 5/1 26‐27ページ あなたは懲らしめを受け入れることができますか ***
懲らしめは本当にそれほど悪いことか
クリスチャンには懲らしめが本当に必要ですか。イエスは,命に通じる道は『狭められている』と言われました。(マタイ7:13,14)その道からさまよい出るのは容易です。では,辞書で「訓練」と呼ばれている懲らしめを受け入れるのは,賢明なことではありませんか。誤って道に迷い,まずいことに,危険な地域に近寄る旅行者の場合を考えてみてください。もし,見知らぬ人から元の道への戻り方を教えて上げようと言われたなら,その旅行者はどう思うでしょうか。自分には自分の望むところに行く権利があると主張して,怒ってその援助を退けるでしょうか。自分の権利を侵害することだとして,その親切な見知らぬ人を非難するでしょうか。多分,そうはしないでしょう。差し伸べられた援助に感謝することでしょう。

ですから,賢明なクリスチャンは,親切な懲らしめという形で差し伸べられる援助を感謝します。自分の年齢や人生経験にかかわりなく,預言者の述べた次のような言葉は真実です。「エホバよ,地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません」。(エレミヤ10:23)ですから,わたしたちは皆,懲らしめを必要としています

1987年

*** 王国宣教 87/6 2ページ お子さんの行儀は神をたたえるものですか ***
7 あなたは,野外奉仕における子供の行儀をも気にかけておられますか。『すべての事を神の栄光のためにする』よう訓練された子供は,親と共に奉仕にあずかっている時の行状によって人々に感銘を与え,人に真理を受け入れやすくします。しかし,逆もまた真実であることを忘れないでください。家から家の奉仕であれ,比較的に親しくなった人への再訪問や家庭聖書研究の業に携わっている時であれ,家の人の所有物に敬意を示し,傷つけたり汚したりすることが決してないようにすべきです。研究生の家でお菓子が出された時に司会者の子供が品位の欠けた振る舞いをするのを見てつまずいた人などについて聞くのは残念なことです。また,伝道中に道路を自由に歩く子供たちが交通事故にあったりするなら,非常に難しい問題になりかねないことを忘れないでください。

どのように育てるか
8 良い行儀の鍵は愛です。(ローマ 13:8‐10)神と隣人への愛があれば行儀は良くなるはずです。それで,親は子供を含めた研究を勤勉に行ない,子供の心に愛を教え込まねばなりません。同時に,愛の動機で懲らしめを与え,自分の好むことを行なおうとする傾向を子供の心から追い出すことにも努めるべきです。(箴言22:15)そのようにして行儀の良い子供に育ててゆくなら,子供は,十代になっても成人してからもその行くべき道を離れないでしょう。―箴言 22:6。

1988年

*** 王国宣教 88/5 1‐2ページ 集会から一層益を得るよう子供たちを助けなさい ***
集会の出席の大切さを教え込む
2 永遠の命を得たいと思うなら,子供は聖書に基づく諭しを必要としています。(ヨハネ17:3)霊的な事柄を認識することを学んで行くため,子供は集会に出席する必要があります。時々親は,子供が他の人たちの妨げになることを恐れるあまり,子供を集会に伴うことをためらいます。学校の宿題をさせるため,子供を家に置いてくる人もいるかもしれません。しかしながら賢明な親は,子供を集会に伴います。―申命記31:12。

3 子供が幼い時から学ぶべき最初の事柄は,耳を傾けるために王国会館に行くということです。しかしもし,おもちゃや食物など,注意をそらす物がずっと与えられているなら,あるいは席で遊ぶままにされているなら,子供は,耳を傾けることを学んだり,王国会館での集会に出席する理由を認識したりするでしょうか。明らかに,他の子供たちよりも注意を集中している子供たちがいます。それでも賢明な親は,子供の行儀が悪い時には,お菓子やおもちゃを与えてなだめるのではなく,神の言葉の懲らしめを適用して,子供を矯正し,耳を傾けるよう愛をもって訓練します。―箴言13:24。エフェソス 6:4。

1989年

*** 王国宣教 89/10 8ページ 新しい発表文書は敬虔な専心をもって自分を訓練するのに役立つ ***
若い人に対する答え
4 わたしたちは,若い人に対する率直な大会での話,そして「若い人が尋ねる質問―実際に役立つ答え」と題する本の発表に当たって特別な取り決めが設けられたことを長く記憶にとどめることでしょう。この本は若い人の益のために備えられたものですが,親の立場にある人たち,特に父親は,この本を用いて子供たちを訓練し,『エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆく』面で率先するよう勧められました。(エフェソス6:4)この本は若い人たちが敬虔な専心において自分を訓練してゆく助けとしてエホバの組織によって備えられたものです。それで,親子双方がこの重要な情報に十分精通する必要があ ります。

1990年

*** 王国宣教 90/6 5ページ 1990年「清い言語」地域大会においでください ***
26 子供たちが保護者のふさわしい監督のないまま,ホテル内のエレベーターで遊んだり,ロビーや通路を走り回ったりして,いたずらをしているといったことがありました。こうしたことはふさわしくありません。中には懲らしめられることもないまま無規律に行動していた子供たちや,彼らを親切な仕方で正そうとした年長の兄弟姉妹たちに対して敬意の欠けた態度を示した子供たちさえいました。このようなクリスチャンらしからぬ無規律な振る舞いは,家庭での何でも許容する傾向や訓練の不足の結果である場合が少なくありません。こうした状態は明らかに正されなければなりません。すべてのクリスチャンの親は「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって」育てている子供をいつでも注意深く監督すべきです。―エフェソス6:4。

1991年

*** 目ざめよ! 91 9/22 6‐7ページ 一目で好きになる―そしてその後はいつまでも ***
『わたしたちは泣くかもしれないけど,それが一番わたしたちのためになります』懲らしめは多くの人にとって厄介な問題です。しかし,正しく与えられる懲らしめは,親の愛の肝要な部分です。ある少女はその点を認めました。そして,「ママへ,すてきなレディーへ」というカードを母親のために作りました。そのカードには,金色の太陽と,飛んでいる鳥と,赤い花の絵がクレヨンできれいにかいてありました。文面は次のようなものです。「これをママにあげます。わたしたちはみんなママが大好きだからです。このカードをおくって感謝の気持ちを伝えたいと思います。わたしたちがテストで悪い点をとったとき,ママはそれにサインします。悪い子になったときは,むちで打ちます。わたしたちは泣くかもしれないけど,それが一番わたしたちのためになることを知っています。……わたしが言いたいのは,ママのことが本当に大好きだということです。わたしのためにいろいろなことをしてくれて,本当にありがとう。大好きなママへ,キスをおくります。[署名]ミッシェル」。

1992年

*** ものみの塔 92 10/1 29ページ 懲らしめを受け入れて,従順を学びなさい ***
懲らしめを受け入れて従順を学べば,つり合いの取れた人格を身につける助けになり,自分の限界を知ることができます。また,厳しい要求をしたり,他の人の権利と必要に無頓着であったりしないよう助けられ,不安な気持ちを持たずに済みます。要するに,従順を学べば,幸福になるのです

ですから,大人であれ子供であれ,懲らしめを受け入れて従順を学んでください。「それはあなたにとって物事が良く運び,あなたが地上で生き永らえる」ためです。(エフェソス6:1‐3)懲らしめを受け入れなかったために従順を学び損ねて永遠に生きる見込みを失ってしまうことを望む人などいない はずです。―ヨハネ 11:26。

[28ページの図版]
『懲らしめの戒めは命の道である』

[29ページの囲み記事]
親の皆さん,義にそって懲らしめを与えることによって従順を教えてください
1. 聖書の律法と原則に基づいて懲らしめる
2. 単に従順を要求するのではなく,従順が知恵の道である理由を説明して懲らしめる。―マタイ 11:19後半。
3. 怒ったり大声を上げたりしながら懲らしめを与えない。―エフェソス 4:31,32。
4. 愛と気遣いのある温かい関係のもとで懲らしめる。―コロサイ 3:21。テサロニケ第一 2:7,8。ヘブライ 12:5‐8。
5. 幼い時から子供を懲らしめる。―テモテ第二 3:14,15。
6. 首尾一貫した懲らしめを繰り返し与える。―申命記 6:6‐9。テサロニケ第一 2:11,12。
7. 自分自身をまず鍛錬し,模範を示して教える。―ヨハネ 13:15。マタイ 23:2,3と比較してください。
8. エホバに全幅の信頼を置き,祈りによってエホバに助けを懇願しながら懲らしめる。―裁き人 13:8‐10。

1993年

*** 王国宣教 93/3 11‐12ページ 新しい家庭聖書研究を取り決める ***
3回目の訪問: この訪問では10章を用い,一貫した懲らしめの必要性をテーマとして話し合いを進めます。このように言えます。

「子供たちの遊びや行動を注意深く観察していると,どちらかと言えば良いことよりも悪いことのほうが,またほめられることよりも叱られることをしているほうが多いことに気づかれませんか。よく見ているとあまり気にとめない親もいれば,ただ叱るだけという親御さんもいらっしゃいますね。奥さんはこのような対応の仕方をどのように思われますか。[家の人の考えを聞く。]親の対応いかんによっては,その子が大きくなってから親に反抗するようになるか,それとも親子の信頼関係がいっそう強くなるかが決まってきます。どうぞ,ここをご覧ください」と述べ,132ページ2行目の「しつけの問題は」の部分から3節の終わりまでを読んだ後,家の人の関心の度合いや時間的な事情も考慮に入れ,7節,8節,および13節から15節の中の要点を討議します。その際,聖書そのものに注意を向けさせるため引照聖句を直接聖書から読むようにし,「家族生活」の本を用いた話し合いを定着させてゆきます。

1994年

*** 目94 11/22 8‐9ページ 問題を持つ子供を育てる ***
行動を監督する
どんな行動をするか予測のつかない子供たちは,一層の監督を必要とする傾向があります。その結果,子供を頻繁に懲らしめざるを得ない場合,多くの親は罪の意識にさいなまれます。しかし,懲らしめと虐待の違いを認識することは重要です。「紙一重―懲らしめが児童虐待に変わる時」という本によれば,身体的な虐待全体の21%は,子供がけんか腰になる時に生じるということです。したがって,調査では,ADD/ADHDの子供たちの場合は,「身体的虐待を受けて放置される危険が高まる」という結果が出ました。特別な配慮が必要な子供を育てる場合にストレスが高まることは否定できません。しかし,そういう子供たちの監督は,健全で釣り合いの取れたものでなければなりません。普通,そのような子供たちはとても利発で,創造力が豊かですから,論証が必要な状況のもとでは,親を手こずらせる場合があります。親のりっぱな論理にけちをつける方法を心得ている場合が多いものです。そういうことをさせてはなりません。親としての権威を保ってください

親切に,しかし毅然とした態度で,簡潔に説明してください。言い換えれば,説明しすぎないことです。譲れない決まりについては交渉に応じないようにします。“はい”は,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしましょう。(マタイ5:37と比較してください。)子供たちは外交官ではありません。したがって,子供たちとの交渉は,言い争い,怒り,欲求不満などを生み,さらにはわめき散らしたり,暴力を振るったりする結果にさえなりかねません。(エフェソス4:31)同様に,注意を与えすぎないようにしましょう。もし懲らしめが必要と見たなら,すぐに与えるべきです

1995年

*** 知識(1995年発行) 第15章 148ページ 神に誉れをもたらす家庭を築く ***
21 親は自分の与える懲らしめが効果的かどうか,どのように確認できるでしょうか。親は,『自分の与える懲らしめは何を成し遂げるだろうか』と自問できるかもしれません。懲らしめは教えを与えるものであるべきです。お子さんは懲らしめが与えられている理由を理解すべきです。親は矯正が及ぼす影響にも関心を抱くべきです。確かに,ほとんどの子供たちは最初,懲らしめを受けるといら立ちを覚えます。(ヘブライ12:11)しかし,子供たちが懲らしめを受けておびえたり,見捨てられたと感じたり,自分は生まれつき悪い人間なのだと思い込んだりするようなことがあってはなりません。エホバはご自分の民を矯正する前に,「恐れてはならない……わたしはあなたと共にいるからである」と言われました。(エレミヤ46:28)確かに矯正は,お子さんが,親は愛と支えを与えてくれる存在であり,自分と共にいてくれると感じられるような方法で与えるべきです。

注:「知識」は現在使われている新人研究生用の教科書。研究司会者と新人研究生用がこの本を使ってマンツーマンで勉強する。

この本で勉強した親により、子供たちは懲らしめのムチを受けておびえ,親に見捨てられたと感じるようになり,自分は生まれつき悪い人間なのだと思い込むようになる。

1996年

*** ものみの塔 96 12/1 11ページ 親の皆さん,お子さんを喜びとしてください ***
エホバの言葉に重きを置く
4「エホバの……精神の規整」とは,自分の考えを規整してエホバのご意志に合わせることを意味しています。ですから,親は幼い子供の思いの中に物事に関するエホバのお考えを浸透させなければなりません。また,同情心に基づく懲らしめを与える,すなわち矯正のための言わばしつけを行なう神の手本に見倣うことも必要です。(詩編103:10,11。箴言3:11,12)しかし,それができるようになるには,神の預言者モーセが古代のイスラエル人に,「わたしが今日命じている[エホバからの]これらの言葉をあなたの心に置かねばならない」と勧告したとおり,親自身がエホバの言葉を吸収しなければなりません。―申命記6:6。

5 親は聖書を定期的に研究し,黙想し,祈ることにより,モーセが次に命じた事柄,すなわち,「あなたは[エホバの言葉]を自分の子に教え込み,家で座るときも,道を歩くときも,寝るときも,起きるときもそれについて話さねばならない」という命令を実行する用意ができます。『教え込む』と訳されているヘブライ語は,「繰り返すこと」,「何度も言うこと」,「はっきり印象づけること」を意味します。エホバの言葉を前面に掲げつづける必要があることをモーセがさらにどのように強調しているかに注目してください。「それをしるしとしてあなたの手にくくり,それはあなたの目の間の額帯とされなければならない。それをあなたの家の戸口の柱と門に書き記すように」と述べています。エホバが親に,定期的に愛情深く子供に気を配ることを求めておられることは明らかです。―申命記6:7‐9。

1997年

*** 幸せな家庭を築く秘訣(1996年発行) 第5章 59‐60ページ 幼い時から子供をしつける ***
懲らしめは不可欠
20 懲らしめとは,思いと心を矯正する訓練のことです。子供たちには絶えず懲らしめが必要です。パウロは父親たちに,「エホバの懲らしめと精神の規整とをもって[あなた方の子供を]育ててゆきなさい」と助言しました。(エフェソス6:4)親は,エホバが行なわれるように,愛のうちに懲らしめるべきです。(ヘブライ12:4‐11)愛に基づく懲らしめは,言って聞かせるという形で施されることもあります。「懲らしめに聴き従(え)」と言われているのはそのためです。(箴言8:33)では,懲らしめはどのように与えたらよいのでしょうか。

1998年

*** 幸せな家庭を築く秘訣 第6章 71ページ 伸び伸びと成長するよう十代の子供を援助する ***
懲らしめと敬意
15 懲らしめとは矯正を与える訓練であり,それには話し合いが含まれます。懲らしめには,罰を与えることよりもむしろ,矯正という意味合いがあります。もっとも,罰を与えることも関係するかもしれません。お子さんは小さいとき,懲らしめを必要としていました。しかし,十代になった今でもある種の懲らしめを必要としています。もしかしたら,今のほうがもっと必要かもしれません。賢明な十代の子供は,これが真実であることを知っています。

1999年

*** 幸せな家庭を築く秘訣 第6章 72ページ 伸び伸びと成長するよう十代の子供を援助する ***
18 実際のところ,適切な懲らしめが与えられるということは,親が子供を愛している証拠です。(ヘブライ12:6,11)親の立場にある皆さんは,首尾一貫した,道理にかなった懲らしめを与え続けることの難しさをご存じです。家庭の平和のためには,なかなか言うことを聞かない十代の子供のやりたいようにやらせたほうが簡単に思えるかもしれません。しかし長い目で見ると,この後者の道を選ぶ親は,家族が手に負えなくなってしまうという代償を払うことになります。―箴言29:15。ガラテア6:9。

2000年

*** ものみの塔 00 5/15 20ページ 『あなたの心を守りなさい』 ***
父の懲らしめに聴き従いなさい
「箴言」の第4章は,このような言葉で始まっています。「子らよ,父の懲らしめに聴き従って注意を払い,理解を得るようにせよ。わたしは必ず良い教えをあなた方に与えるからである。わたしの律法を捨ててはならない」。―箴言4:1,2。

若者たちへの助言は,敬虔な親の,特に父親の健全な教えに聴き従いなさいというものです。父親には,家族が身体面や霊的な面で必要とするものを備える聖書的責任があります。(申命記6:6,7。テモテ第一5:8)そのような導きがないとすれば,若い人が円熟に達するのはずっと難しくなることでしょう。ですから,子どもは父親の懲らしめを敬意のこもった態度で受け入れるべきではないでしょうか

2001年

*** ものみの塔 01 4/1 30‐31ページ 従順―子ども時代に学ぶべき大切なこと? *** まず,親は年齢と経験の点で確かに有利な立場にいるのではないでしょうか。親は,コンピューターなど,学校で教えられる事柄をあまり知らないように見えるかもしれませんが,生活上の諸問題に対処しつつ生きる方法ならよく知っています。それにひきかえ,若い人たちには,円熟味のある平衡の取れた考えが欠けています。ですから,しばしば仲間からの圧力に屈して,軽率な決定を下す傾向があり,自分の身に多くの災いを招きます。聖書は「愚かさが少年の心につながれている」と述べ,現実的な見方を示しています。では,その解決策は何ですか。「懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す」のです。―箴言22:15。

2002年

*** 唯一まことの神を崇拝する  第15章 143ページ 助言に聴き従い,懲らしめを受け入れる ***
親は,心痛の原因となりかねない行ないから子どもを守るために,子どもに助言と懲らしめを与えます。(箴言6:20‐23)会衆内では,野外の活動でどのようにいっそう努力できるか,経験を積んだ奉仕者たちにしばしば助言や提案を求める人たちがいます。長老たちは時々,互いに,あるいは宣教の経験を積んだ他の人たちに助言を求めるかもしれません。霊的に資格のある人たちは,援助の必要な人たちに,聖書を用いて援助を与えますが,温和な霊をもってそのようにします。助言を与える場合,「自分も誘惑されることがないよう,おのおの自分を見守(る)」ことを忘れてはなりません。(ガラテア6:1,2)そうです,わたしたちは皆,唯一まことの神を一致して崇拝するために,助言と懲らしめを必要としているのです

2003年

*** ものみの塔03 10/1 21ページ 懲らしめの目的を理解する ***
愛のある親が与える懲らしめ
家庭内やクリスチャン会衆内のすべての人は,懲らしめの目的を理解していなければなりません。親など,権威ある立場にいる人は特にそうです。箴言13章24節は,「むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもって子を捜し求める」と述べています。親は,どのように懲らしめを与えるべきでしょうか。聖書はこう説明しています。「父たちよ,あなた方の子供をいら立たせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」。(エフェソス6:4)

以上のように、ものみの塔の指導は過去現在に至るまで一貫しています。以下の「あなたの家族生活を幸福なものにする」という本は、ムチ全盛時代に親を教育するために書かれた本で、その教育思想の基本は現在に至るまで変更がありません。

あなたの家族生活を幸福なものにする(1979年発行)

*** 家族生活 10章 132‐145ページ 愛をもって懲らしめる価値 ***

懲らしめのむち

5 体罰は子供の命を救うものともなります。なぜなら,神のみ言葉聖書には,「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたが彼を細棒でたたいても,彼は死なない。細棒をもってあなたは彼をたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」とあるからです。さらに,「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの細棒がそれを彼から遠くに取り除くものとなる」とも述べられています。(箴23:13,14;22:15,新)子供の生がいにわたる利益を大切に考える親なら,弱気を出したり,うっかりしたりして,懲らしめを与えずにすますようなことはないでしょう。必要なときには愛を動機として賢明かつ公正な処置を講じます。

6 懲らしめそのものは,必ずしも罰を与えることに限られていません。懲らしめの基本的な意味は,「一定の秩序もしくはわく組みを堅く守る教育および訓練」です。ですから箴言8章33節(新)は,『懲らしめを感じなさい』ではなく,「懲らしめを聴き,賢くなりなさい」となっています。テモテ第二2章24,25節によれば,クリスチャンは「すべての人に対して穏やかで,教える資格を備え,苦境のもとでも自分を制し,好意的でない人たちを柔和な態度で諭すことが必要です」。ここに出ている「諭す」という語は,懲らしめに相当するギリシャ語の訳です。その同じギリシャ語はヘブライ12章9節ではそのように訳されています。「わたしたちは,わたしたちを懲らしめてくれた地的な父親に然るべき敬意を払いました。霊的な父にはなおさらのこと進んで服して,命を得るべきではないでしょうか」―新英訳聖書。

7 悪行を大目に見て処罰しない支配者が市民から尊敬されないのと同様に,懲らしめることをしない親は子供から尊敬されません。正しい懲らしめは子供にとっては親が自分のことを気にかけてくれる証拠です。また,それは家庭の平和に役立ちます。なぜなら,「それによって訓練された人に,平和な実,すなわち義を生み出す」からです。(ヘブライ12:11)どの家庭でも不従順で行儀の悪い子供はいらいらの種になります。また本人も決して幸福ではなく,自分に対してさえ満足できません。『あなたの子を懲らしなさい。そうすれば,あなたに休みをもたらし,あなたの魂に多くの喜びを与えるでしょう』。(箴29:17,新)き然としたなかにも愛情をこめて正すと,子供はある程度新しい見方をするようになり新しく出直すことができ,気持ち良く付き合えるようになることが少なくありません。懲らしめは確かに『平和な実を生み出し』ます。

8『エホバは自分の愛する者を懲らしめられます』。(ヘブライ12:6)子供の最善の福祉をほんとうに心に掛けている親も同じです。懲らしめは愛に基づいて与えられねばなりません。子供の悪行にかっとなるのはよくあることかもしれませんが,聖書が教えている通り,人は『苦境のもとでも自分を制する』ことが大切です。(テモテ第二2:24)冷静になってみると,子供の罪はそう大したことではないように思えるかもしれません。『人の洞察力は確かにその人の怒りを遅くします。違犯を過ぎ越すことはその人の美です』。(箴19:11,新。伝道7:8,9もご覧ください。)子供がひどく疲れていたとか気分がよくなかったというような,酌量すべき事情があるかもしれません。言われていたことをすっかり忘れていたかもしれません。大人でもそういうことがあるのではないでしょうか。しかし,たとえ見過ごすわけにいかない悪行の場合でも,懲らしめは,前後を忘れてどなりつけたりぶったりする,親のいきり立った感情をぶちまけるだけのものとなってはなりません。懲らしめには諭すことも含まれています。親がかっと怒るなら,子供は自制することではなく自制を失うことを学びます。正しく懲らしめられた場合のような,親に鍛えられているという感じはありません。ですから,平衡を取ることは非常に大切です。それは平和に役立ちます。

しっかりした制限を設ける

9 親は子供たちのために指針を設けるべきです。『ああわが子よ,あなたの父のおきてを守り行ないなさい。またあなたの母の律法を捨ててはなりません。それらを絶えず自分の心に結び,自分ののどに縛りつけておきなさい。あなたが歩き回る時,それはあなたを導き,身を横たえる時,それはあなたの上に見張りとして立つでしょう。そしてあなたが目覚めた時,それはあなたに関心を向けるでしょう。おきてはともしび,そして律法は光,懲らしめの戒めは命の道だからです』。親の教えは子供を導き保護します。それは親が子供の福祉と幸福を気遣っていることの表われです。―箴6:20‐23,新。

10 それをしない親は責任を取らねばなりません。古代イスラエルの大祭司エリは息子たちが貪欲で不敬で不道徳になるがままにまかせました。エリは息子たちに小言を言いはしたものの,その悪行をやめさせるために具体的な処置は取りませんでした。それで神は次のように言われました。「彼の知っている誤りのために定めのない時までわたしがその家を裁こうとしている。それはその息子たちが神をのろっているのに,彼は息子たちを叱責しなかったからである」。(サムエル前2:12‐17,22‐25;3:13,新)同様に母親もその務めを怠るなら恥辱を味わわねばなりません。『棒と戒めが知恵を与えます。放任された少年[あるいは少女]は自分の母に恥を来たらします』―箴29:15,新。

11 子供には制限を設けてやる必要があります。それがないと子供たちは不安で心が落ち着きません。制限を課されそれを守るときに,子供たちはグループの一員であることを自覚します。規則を守っているゆえにそのグループに属しグループに受け入れられていると感じるのです。放任主義は子供を見捨てることであり,子供がひとりで失敗を重ねるのをそのままほうっておくことです。その結果を見れば,子供には,制限に関してしっかりした信念を持つ,そしてその信念を子供にも持たせる大人が必要である,ということがわかります。地上に住む人にはすべて制限が課されており,その制限は個人の幸福と益をもたらすということを,子供は理解する必要があります。他の人がわたしたちの自由の範囲を認め,わたしたちが他の人のそれを認めるときにのみ,わたしたちは自由を楽しむことができます。適切な正しい制限を踏み越えるということは明らかに,『兄弟の権利を害し侵そうとしている』ことを意味します。―テサロニケ第一4:6。

12 適切な正しい制限を無視するなら何らかの懲らしめが与えられることがわかると,子供は自分たちに課された制限を認めるようになります。また,親のき然とした態度と導きによって,子供は満足のいく生活を送るために必要な自己訓練をするようになります。わたしたちは自戒するか,または他から懲らしめられるかのどちらかです。(コリント第一9:25,27)もし自戒することに努め,子供たちもそうするように助けるなら,親も子供も問題や悩みのないより幸福な生活を送ることができます。

13 子供たちに与える指針と制限は,子供たちによくわかるもの,公平なもの,情状を酌量する余裕を持つあわれみ深いものであるべきです。期待しすぎてもいけないし,またその逆でもいけません。子供の年齢を忘れないでください。子供は年齢に相応した行動しかしないからです。ですから,子供に小さな大人になることを期待しないでください。みどりごであったときにはみどりごのように行動した,と使徒は述べています。(コリント第一13:11)しかし,いったん無理のない規則を設けて子供たちにそれを理解させたなら,直ちに,しかも首尾一貫してそれを実施してください。『あなたがたの“はい”ということばは,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしてください』。(マタイ5:37)約束を守り,言行が一致していて気まぐれでない親を,子供たちはほんとうに心強く思います。自分を支えてくれる親の力を感じ,問題が起きたり助けが必要な場合にはその力に頼れると思うからです。悪行を正す際に親が公平で,しかも建設的であるなら,子供たちは安心感や安定感を得ます。子供たちは自分がどんな立場にあるのか知りたがるものですが,そのような親を持っている子供は確かにそれを知ります。

14 子供が親の命令に反発するときにき然とした態度を示すには,親の側に決意が必要です。そのようなとき,罰を与えると脅したり,子供と無益な口論をしたり,あるいは子供に物を与えて言いつけたことをさせようとしたりする親がいます。しかし多くの場合,き然とした態度で,また自信を持って,今すぐそれをしなければいけませんと言うだけで事は足ります。向かって来る自動車の前に子供が飛び出そうとするなら,親は取るべき行動をはっきりした言葉で子供に告げます。この問題を研究しているある研究者たちは次のように指摘しています。「ほとんどすべての親は子供たちに学校へ行くこと,……歯をみがくこと,屋根に登らないようにすること,ふろに入ること,などをさせる。子供たちは反抗する場合が多いが,それでも親が本気で言っているのを知っているので従う」。指針と戒めを首尾一貫して徹底させるときに初めて,あなたは子供が『あなたの指針やおきてを絶えず自分の心に結びつけておく』ことを期待できます。―箴6:21,新。

15 親が気まぐれやその時の気分しだいで,指針に従わせることをしたりしなかったり,あるいは不従順な態度を取ってもすぐに懲らしめなかったりするなら,子供は大胆になり,どの程度まで言いつけに背けるか,どれぐらいうまくやりおおせるか試してみます。すぐに罰を受けないと見えると,大人と同じで,悪いことをすることに大胆になります。『悪い業に対する刑の宣告が速やかに下されなかったので,それがために人々の子らの心は己の中で悪を行なうよう凝り固まってしまいました』。(伝道8:11,新)ですから心に思っていることを言い,また言うことを実行しなければなりません。そうすれば子供はそういうものなのだとわかり,ふくれ面をしてもわめいても,残酷で冷たい親だと思っているように振る舞ってみても,なんの役にも立たないことに気づくでしょう。

16 そのためには話す前に考える必要があります。急いで作った規則や命令は適切を欠いている場合が少なくありません。「聞くことに速く,語ることに遅く,憤ることに遅く」あることが大切です。(ヤコブ1:19)懲らしめが公平を欠き矛盾しているなら,子供が持っている当然の正義感にさわり,子供は心に怒りを募らせるでしょう。

娯楽を監督する

17 遊ぶことは子供にとって自然な生活です。(ゼカリヤ8:5)親はそのことを認めなければなりません。しかし,労働に対する認識や責任感も,子供の生活の中に徐々に取り入れていく必要があります。そして,一番よいことは,どんな仕事を割り当てられてもまずそれを行ない,遊びをその次にすることです。

18 ある子供たちは外に楽しみを求めるため“街路にたむろする子供”になり,家にいることはほとんどありません。その交わりが良くなければ,受ける影響も良くありません。(コリント第一15:33)むろん家庭外でのある程度の交わりは,人々に対する理解を広める点で子供に益となります。しかしそれも度が過ぎたり監督されなかったりすると,家族のきずなは弱まり,家庭が分裂することさえあります。

19 そうした状態を正すために懲らしめを与えることに加えて,家庭を子供たちにとってもっと楽しいところにするためにどんなことができるか,親が自問するのはよいことです。教えたり懲らしめたりするときだけでなく,子供たちの真の友だち,真の仲間となって十分の時間をいっしょに過ごしているでしょうか。いつも「非常に忙しくて」子供たちといっしょにいたり遊んだりする時間がないでしょうか。子供といっしょに物事をする機会はいったん逃したらもどって来ません。時間は一方向に進みます。子供はひとところにとどまってはおらず,絶えず成長し変化し続けています。月日は矢のように過ぎて,息子が歩き始めたのがついきのうのように思えても,ふと気づいたときにはその子は若者に,そして幼女だった娘は若い婦人になろうとしています。時間の用い方に平衡を保ち自己訓練をするなら,この大切な時期に得られる貴重な機会を軽視せずにすみ,また子供が小さいうちに自分から離れていくのを防ぐことができます。―箴3:27。

20 テレビを見ることをレクリエーションにしている家庭では,制限を設けることが必要かもしれません。テレビに子守りをさせる親もいます。それは便利かもしれず,安くつくように思えるかもしれませんが,実際には非常に高いものにつく可能性があります。テレビの番組はしばしば暴力と性で満ちています。問題の解決方法として暴力が許されるような印象を与えますし,不倫な性は,日常生活の一部で別に悪い事ではないようにうつります。そのために人々,それも特に若い人々は,暴力と性に対して鈍感になることを多くの調査は示しています。親は子供に汚染されていない健全な食物を食べさせるように気を配ります。では子供の思いがどんなもので養われているかについてはさらに注意を払うべきです。イエスがおっしゃったように,食物は心に行きませんが,思いに採り入れるものは心に入り得るからです。―マルコ7:18‐23。

21 どんなテレビ番組を見るか,どれぐらいの時間テレビの前で過ごすかを監督することは,子供の発育に大きな相違をもたらします。テレビは楽しい気晴らしになり教育的な面すら持っています。しかし,用心しないと中毒になり,多くの時間を奪われます。時は命です。テレビを見る時間の一部をもっと有効に用いることができることは確かです。というのはテレビの場合は,物事をする代わりにただ見るだけになるからです。体を動かす活動はもとより読書や会話も締め出されてしまいます。家族には心の通じ合いとだんらんが必要ですが,一つ部屋にいても黙ってテレビを見ているだけではその必要は満たされません。テレビの見過ぎが問題であれば,親はテレビに代わる活動,たとえば健全な遊びや読書や家族ぐるみの活動に子供の関心を向けさせることができます。もし親自身が率先して模範を示すなら,それはなおのこと容易でしょう。

懲らしめるときには意思の疎通を図りなさい

22 ある親は次のように自分の経験を語りました。

「息子が三歳のとき,わたしはうそがいけないことをよくよく言ってきかせました。箴言6章16節から19節や他の聖句を使って,神がうそつきを憎まれることを話しました。息子はよく聞き,正しく反応しているように見えました。しかし,わたしは息子がどうもよくわかっていないように感じたので,『ねえ,ぼく,うそってどういうことかわかる?』と聞きました。息子は『わかんない』と言いました。このことがあってからわたしは,息子が言葉の意味と自分が懲らしめられている理由を理解しているかどうか,必ず確かめるようにしました」。

23 子供がまだ幼い間は,例えば熱いストーブにさわらせないようにするときのように,物を指差して“これだめ”と言うくらいのことしかできないかもしれません。しかし,そういう初歩の簡単な警告を与える場合でも,理由を教えることができます。ストーブは“熱い!”ので,またそれにさわると“やけどをする!”のでいけないと簡単に言うだけでもよいでしょう。しかし,言われることは自分の益のためになるという考え方を最初から子供に持たせるようにします。それから,親切,思いやり,愛といった資質が望ましいものであることを強調します。正しい規則や制限はすべてそうした特質に基づいて設けられていることを認識するように子供を助けます。また,ある行為がなぜそれらの望ましい特質の表われと言えるか,あるいは言えないかをはっきりさせます。このようなことを首尾一貫して行なうなら,子供の思いだけでなく心をも動かすことができるでしょう。―マタイ7:12。ローマ13:10。

24 同様に,従順であること,権威に対して敬意を払わねばならないことなども,少しずつ教えていく必要があります。生後一年の間に,子供が大人の命令を聞こうとするかしないかがわかり始めます。子供の知能がその段階にまで発育したらすぐに,神に対する親の責任を子供にしっかり認識させます。それをするかどうかによって子供の反応は大いに違ってきます。その認識がないと,子供はただ親が自分より大きくて強いので従わねばならないと考えるかもしれません。反対に,親が自分の考えを述べるのではなく,創造者のおっしゃること,神のみ言葉聖書に述べられていることを教えているのだと子供に理解させるなら,親の助言と指導は,他の何物も与え得ない力を持つものとなります。幼い子供の生活に難しい問題が入り込むようになって,男の子にせよ女の子にせよ,誘惑や圧力に面して正しい原則に付き従うことにストレスや緊張を感じるようになった場合に,このことは,必要な力の真の源となります。―詩119:109‐111。箴6:20‐22。

25「違犯を覆う者は愛を求めている。事をとやかく言う者は親密な人たちを引き離している」。(箴17:9,新)このことは親子の関係にも当てはまります。子供に間違いを指摘し,懲らしめを受ける理由を理解させて懲らしめたなら,愛のある親は子供の間違いを繰り返し口にすることは避けるはずです。どんなことをしたにせよ,親が憎んでいるのは悪行そのものであって,子供自身ではないということを,ぜひともはっきりさせなければなりません。(ユダ23)子供は“罰をじっとがまんして受けた”と感じていて,そのことを何度も言われるのは不必要に屈辱を受けることだと考えるかもしれません。その結果,親や兄弟から離れて行くこともあります。悪い傾向が強くなっていくのが心配な場合は,のちほどその問題を家族の話し合いか何かのときに取り扱います。過去の行ないを単にもう一度取り上げて調べ直すだけですますというようなことをするのではなく,関係している原則を考慮し,それらの原則をどのように適用するか,それらが永続的な幸福になぜそれほど大切かをいっしょに検討します。

いろいろな懲らしめ方

26『一度の叱責は,愚鈍な者を百度打つよりも,理解力を持つ者に深く働きます』。(箴17:10,新)子供たちにはそれぞれ異なる方法で懲らしめを与える必要があるでしょう。個々の子供の気質や性質を考慮しなければなりません。非常に敏感な子供の場合,おしりをたたくなどの体罰は必ずしも必要でないことがあります。そうかと思うと,おしりをたたいても効果のない子供もいます。中には箴言29章19節(新)に述べられているしもべのような子供もいます。「僕は単に言葉によって正されるものではない。理解しても注意を払っていないからである」。そのような子供には体罰が必要でしょう。

27 ある母親は次のように言いました。

「息子は二歳になったばかりのときに壁にらくがきをしました。床からほんの少し上がったところに小さな赤い汚れをたくさんつけてしまいました。主人はそれを息子に見せてだれがしたのか尋ねました。息子はうんともすんとも言わずに,目を大きく見開いて父親の顔をじっと見つめるだけでした。とうとう主人はこう言いました。『お父さんもね,おまえぐらいの年のときに壁にらくがきをしたけども,壁にかくのはおもしろいね』。すると,幼い息子はうちとけて,にこにこしながら,らくがきするのがおもしろかったことを生き生きと話し始めました。父親に理解してもらえることがわかったからです。しかし,どんなにおもしろくても,壁は物を書くところではないということを主人は説明しました。それで心が通じ合い,この子にはもう少しことをわけて話すだけでことが足りました」。

28 懲らしめるとき,理由をあげて教え諭すのはよいことですが,子供と議論するのは通常賢明ではありません。子供がある仕事をすることについて文句を言ったとき,ある母親は「あなたがそれをしてしまったら公園へ行きましょう」とだけ言いました。公園へ行くことは子供がその日に楽しみにしていたことでした。割り当ての仕事を終えるまでは楽しみや外出はおあずけになっていました。母親は調べに来て仕事がまだ終わっていないと,「あら,まだ終わってないの。ではそれが終わったらでかけましょうね」と言うようにしました。母親は議論はしませんでしたが,思い通りの結果を得ました。

29 悪いことをしたあとのおもしろくない結果を身に感じると,子供は正しい原則の知恵を学ぶようになります。子供が物をちらかしたときなど,自分でかたづけさせると子供はちらかしてはいけないことを肝に銘ずるでしょう。子供がずるいことや乱暴なことをしたとき,あやまらせるなら,悪い傾向は大いに改善されるかもしれません。子供は怒って物をこわすこともあります。十分大きな子供であれば,働いて弁償させることもできるでしょう。子供によっては,しばらくの間何らかの特権を奪うと,必要な教訓を肝に銘ずるでしょう。クリスチャン会衆では,悪行者に恥ずかしいという気持ちを起こさせる一つの方法として,親しい交わりを禁じます。(テサロニケ第二3:6,14,15)子供たちの場合も,少しの間家族から仲間はずれにするのは,おしりをたたくよりも効果的なことがあります。しかし,家にかぎをかけて子供を締め出すような極端な処置は,愛から出た行為とは言えないでしょう。どんな方法を用いるにせよ,子供は,自分の素行から生じた結果に対しては自分で責任を負わねばならないということを教えられる必要があります。子供たちはそれによって責任を取ることを学びます。

愛をもって懲らしめる

30『上からの知恵は道理にかなっている』ことを念頭に置いて,『より重要な事がらを見きわめて』ください。(フィリピ1:10。ヤコブ3:17)子供たちはエネルギーのかたまりでそのはけ口を求めており,学ぶことや探検すること,新しいことを試すことなどに飢えています。制限や指針を設ける際には判断力を働かせ,よく選択しましょう。大切な事柄とそうでない事柄との平衡をうまく保つことも大切です。ですから,制限を設けたならそのあとは,細かな点まで逐一支配しようとせずに,子供がその範囲内で自信を持ってのびのびと動きまわれるようにしてやりましょう。(箴4:11,12)そうしないと,子供は『いらいらし』,「気落ち」することでしょう。そして,親の方は実際にあまり重要でない事柄を問題にするために,気づかぬうちに疲れ果ててしまうでしょう。

31 ですから,親のみなさん,『望みのあるうちにあなたのお子さんを懲らしめて』ください。しかし愛を動機として,神の方法で,それを行なってください。神を見倣ってください。『エホバはご自分の愛する者を戒められるからです。それは,父が喜びを見いだす子にそうするのと同じです』。創造者の懲らしめと同様に,あなたの懲らしめを非常に有益で価値のあるものにしてください。なぜなら,そうした『懲らしめの戒めは命の道だからです』。―箴19:18;3:12;6:23,新。


こうやって幼児の頃から「暴力」と「詭弁を使った聖書的知識」でがんじがらめにされて育つのがエホバの証人の子供です。エホバの証人の子供はものみの塔を離れた後もマインド・コントロールが解けず、回復には時間がかかります。

現在は1世の母親研究生が激減していますし、昔のようにムチを教えるとすぐにやめてしまうので、ムチは2世の親が3世の子供を叩く時代に移行してきています。

そして2世の親は幼いときからムチで叩かれた経験しかありませんので、ムチは「虐待の連鎖」になっています。

また、子供はみんな親が大好きですから、親が不利になるようなことは聞かれても言わないものです。ですので現在の事実が表に出るのは、子供が大人になってからになります。

エホバの証人の子供達を一言で言えば、ものみの塔の信者拡大方針の犠牲者です。

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